4.なんと、トラウマ、でした(客笑)
福原 幹之
まず、チラシのデザインが最高だ。言葉の帯が出演者の体に巻き付き、言葉に絡め取られている。「他人の気持ちなんてわかるわけないでしょ?」「不破先生の弱み握りたいです」「自分大好き? 私は私のことが好き」「なんなの、あの女! クソムカつくわ! とりあえずムカつくから『石原死ね!』」「みんな全部知ってるんでしょ。知ってて私のこと」。帯に書いてある里見の話す言葉が、同僚の教員の自由を奪っていく。自分の責任をかわすために他人の弱みをあげつらい、自分を被害者に仕立て上げて同情を買い、味方に引き入れていく。里見の言葉の渦の中で、身動きがとれなくなった人たちだと予感させる。
さて、本谷有希子作・演出によるこの「遭難、」は2006年に初演で、鶴屋南北戯曲賞を受賞した作品である。自殺未遂で入院している中学生、仁科京介の母(片桐はいり)が、連日職員室にやってきては、担任の江國(美波)が相談の手紙を無視したせいだとなじり、無理難題を言い、大騒ぎしていく。里見(菅原永二)は人格者のように振舞って江國に優しくするが、同僚の石原(佐津川愛美)に自殺未遂の原因は、里見が京介にもらった手紙を無視したことにあると糾弾されると、それまで黙っていた石原も同じくらい悪いと決め付ける。さらに、自分の自殺企図を脅し材料に、石原を操ろうとする。その後、里見の悪事がどんどん暴かれていく。職員室の盗聴、隠しカメラに始まり、里見に冷ややかな女子生徒、尾崎の持ち物を盗んだりカッターで切りつけたりの尾崎犯も里見だったのだ。過去のトラウマが原因で他人の気持ちがわからなくなったと開き直り、悪事をすべて他人のせいにする。口止めするために学年主任の不破(松井周)をも陥れて弱みを握ろうとする。石原を除く全員は、暴露されると自分の身が危うくなる秘密を握られ、里見の言いなりになってしまう。ところが職員室に、京介の意識が戻ったという電話がかかってきてから、物語は終幕に向けて急展開する。
「ウンコしなさいよ、そこで」。冒頭の台詞でまず、現実とずれた世界に連れて行かれる。耳を疑うような言葉や行動が、随所に現れるブラックコメディの世界だ。そして、それを支え、現実味のあるものにする役者たちにも舌を巻く。
菅原永二は、女だった。というか、女性の里見先生を演じている間、ずっと女に見えていた。劇団本谷有希子の公演を観るときはいつも、女だからこんな嫌味な性格で自己中になれるのだと、色メガネをかけて観ていたように思う。今回、黒沢あすかの病気療養による降板のため、急遽代役に立った菅原永二だったが、彼が主人公の里見をやってくれたおかげで、女だからそうなんだという思い込みから距離を置いて観ることができた。里見は女だけど、女じゃないという事実が、演劇という、そもそもが虚構の世界に広がりを持たせてくれたのだ。災い転じて福となす、本谷マジックの術中にはまってしまったのだった。
片桐はいり演じる母親は、なにもそこまでというくらい担任の先生を非難する、いわゆるモンスターペアレントだ。でも、家ではじじばばの世話に振り回され、夫からは殴られているらしい。学校では、ここぞとばかりにストレスを発散し嫌われ者になるが、同時に自分の気持ちをわかってほしいという、切ない気持ちが伝わってくる。怒っている人は、得てして滑稽に見えるが、彼女もまた、可笑しくて哀しい。不破先生という味方を得て、自分が息子を虐待していたかもしれないという自責の念を、おちゃらけながらも告白する。肩の荷を下ろし、不破先生に受け入れてもらったことで、可愛い女に変わっていく。
美波は、江國先生の、未熟さを一生懸命さでカバーしようという一途さを明るく演じている。精神的にタフで、自分が頑張っていると実感できれば、非難されても立ち直れる。だって、キャパ以上のことはできないのだから、と言っているのが聞こえてくるようだ。マゾヒスティックなところが、仁科の母に動物的な勘で見抜かれて、責め続けられるようになったのだろう。でも、里見に指摘されるまで、京介から好きと言われてつれなくしたことを黙っていたのは、自分が可愛いからに違いない。
松井周の不破先生は、押しに弱く、周りに流される軽薄なキャラがわかりやすかった。大勢の女に男が一人だけというシチュエーションでは、多くの男はこんなふうになってしまうのではないだろうか。
佐津川愛美は、良識の人で普段目立たない石原先生が、怒り心頭に発する落差の表現が可笑しかったが、顔立ちが可愛らしいので、メガネでもかけてくれた方が雰囲気がでたと思う。里見の自殺企図の脅しに屈してしまう石原だが、彼女のようなタイプの教員は人の話をまともに聞いてしまう性(さが)があるので、悪意のある人に操られやすいのかもしれない。心配してもらうことだけが目的の相手は、矛盾や一貫性など関係なく怒涛の言葉を投げつけてくるので、理屈で対応することが必要だ。共感をすると振り回されてしまう。
菅原永二は、顔色も変えずに他人の気持ちを傷つけたり、自分の心配をさせて味方にしようとしたり、里見先生の病的なところを体現していた。里見の行動パターンは、ほとんど境界性人格障害のそれと言ってもよいだろう。悪いことは他人のせいにして押し付け、乗り切ろうとする。誰かに心配して欲しいので、話を聞いてくれる人にはベッタリつきまとう。ある医学研究によると、人口の2%(うち女性は75%)に発生するというこの病気は、人の悪口を言って疑心暗鬼にさせるので、周りの人間同士の関係を悪くすることもある。だから、里見を見て、こういう人にどう対処すれば良いのか調べたり、考えたりすることは意味あるなと、つくづく思う。
学校は、本音と建前のうち、後者が優先されるというか、規律やルールという建前で成り立っている。それなのに、この先生たちや親はバレなきゃいいやの本音ばかりが前面に出ている。結局、社会や集団への帰属意識が薄く、判断基準は自己保身でしかないというのが悲しい。
それにしても腹が立つのは、管理職の対応だ。モンスターペアレントの対策が、職員室を旧校舎の一角に移すなんて、有り得ないとは思うけれども、無能な管理職、組合の弱体化などの要因が重なれば、絶対ないとは言えない。就学補助に金は流れても、教育の質を向上させるための予算は、年々削られている。精神疾患や発達障害には初期治療、初期対応が大事だが、病気なのか社会性がないだけなのかの判断も教員の手には余る。教育現場が演劇に題材を与え続ける状況はまだまだ続くだろう。
京介の意識が戻ったという電話が来てから、石原たちは里見に、京介と電話で話すことを強いる。里見が中学で自殺未遂をした時に、かけてほしかった言葉を話せというのだ。そして、トラウマを解消しろと。電話の声はチャイムでかき消されているが、一人職員室に残された里見は、雪降る中、呆然と(遭難)する。
里見はこれからどうするのだろう。精神病を患っているのなら、今度こそ間違いなく自殺する。病名をあげると、戯曲を矮小化してしまう恐れがあるけれど、里見には次々と病名が付いてしまう。例えば、トラウマの原因となった先生に何度か電話をかけているが、電話の向こうに人がいるとは思えない。これが幻聴だとすれば、統合失調症が疑われる。さらに、人の気持ちが理解できないのは自閉症の典型的な症状だ。これらの症状は一つの人格には起こりえないので、解離性同一性障害もありそうだ。
新たな人格を作り出して生きていくかもしれない。そもそも、里見の根っこにあるのは、自分が好きというゆらぎのない感情だ。自己愛が肥大化して、今の彼女を作っているのなら、必ず生きていく方法を見つけ出すだろう。憎まれっ子は、世にはばかるのだ。自分の自殺未遂での辛い経験を話し、さめざめと泣いたあと、ケロッとして「なんと、トラウマ、でした」なんて嬉々として言ってしまうあたり、自己愛中毒という病名があるのなら、つけてあげたい。
(2012年10月21日14:00の回観劇)