2.図書館でみたいものを探すということ
くどうさやか)
約2時間という“観劇”の時間で、私達は何を得たいのか、何を求めて演劇ファンは劇場へ足を運び続けるのか、前川知大の舞台を観る度、私はその問いを強く意識する。
白い舞台面に、墨色の書架という舞台装置。天井までの高さのものが4つ後方に並び、前方には腰高程度、同じ色の閲覧棚が並ぶ。書架は同じ墨色のカバーのかかった本で埋め尽くされ、ところどころに見えるカラフルなカバーの本が印象的。シンプルながらきっちりと世界観を提示するこの空間に、役者が登場することによって新たな色が付け加えられる。それぞれに淡い色のシンプルな衣装をつけて登場する役者たち。ときに集合体として、ときに一個の身体としてたち現れる彼らの動きとセリフで、オムニバスの物語がたちあがってくる。
人間の目は、雑多な風景の中から目的の人や物を見つけ出すことができる。また、同じく耳も、多くの音の中に含まれた人の声、音を聞き分けることができる。今回、舞台を観ながら最初に思ったのはそんなことだ。今見たいもの、聞きたいもの、それらにフォーカスするかのように、いくつかの話の中からふっと、ある場面が立ち上がってくるようなイメージ。だが、そうやってみつけた話はひとつひとつ完結させられてはおらず、場面ごとにあらわれては他の場面にとってかわられ、なかなか全体像がみえない。あぁ次はこの話を観るのだな、と受け入れ、引き込まれ、人物やエピソードに寄り添った途端にふとまた、別の話にとり代わる。
当然のことながら、実際は「観たい場面を観客が選んでいる」はずはない。いくらライブの舞台芸術とはいえ、観客が干渉できるのは役者のパフォーマンスなどの進行中に可変の部分のみであり、脚本自体を変更することは(舞台の進行を妨げるような行為を行わない限り)不可能である。にも関わらず、強制的に「みせられている」ように感じないのはなぜだろうか。
第一にはまず、脚本と演出の巧みさがある。オムニバスの物語にありがちなぶつ切り感を全く感じさせず、むしろそれを逆手にとった“肩すかし”構成。淡々と、しかししっかりと全エピソードを貫く空気感を大切にした演出。そして次にもちろん、それらを具現化させる役者の力。これらが大きな役割を果たしていることは明らかである。だが、今回の作品の持つ、“自ら選んでいるようでありながらおいていかれる”スタイルと、それを含めたイキウメという劇団を支持する演劇ファンの現状を考察するにあたって、もうひとつ、別の点についてこの劇評では論じてみたいと思う。
それは、前川知大という演出家が、「現代の演劇ファンが求めているもの」を熟知しているであろうことによってもたらされている効果である。冒頭でも少し述べたが、演劇ファンとひと括りに言っても、彼らが劇場に足を運ぶ理由には様々なものがあると言えるだろう。例えば、特定の役者の顔や表現が好きでそれを鑑賞したい、作品自体が好きでまたその作品を観たい、など。演劇に限らず他のエンタテインメント、その他の需要に関しても言われ続けていることではあるが、現代において買い手のニーズは実に多様化している。だからもちろん、演劇ファン全体のニーズを理解していると言うつもりはない。だが少なくともイキウメの公演に足しげく通う演劇ファンのニーズを、前川知大は意識的にか本能的にかはわからないが、理解し、それに最適な作品を作り上げてきている。そして、そういった演劇ファンの心をつかみ、着実に固定ファンを増やしていることからも、今最も成功している演出家の一人であると言うことができるだろう。
では、前川が捉えることに成功した「現代の演劇ファンのニーズ」とは、一体どういうものだろうか。それはまず、一定程度までの自己選択・決定が可能である、ということではないかと考える。与えられたものを受容するだけでは満足できないほど、私達は今、選択肢に埋もれている。(演劇については東京周辺に限られたことではあるが、)他のエンタテインメントと比べて演劇を選択した後にも、数ある作品の中からどれを観るか、選択の連続の中から私たちは作品を選ぶ。そして、たとえその選択が間違ったものであろうとも、「自己決定」による満足感を知ってしまった私達は、他人に一方的に答えを与えられること事態に不満を抱くようになっている。
またもう一つ、一人の演劇ファンが、集中してたくさんの作品を観ているという現状も大きく影響しているのではないかと思う。たくさんの作品を観ることの弊害としてあげられることのひとつに、常に真新しいものを求めてしまう、ということがある。初めてみたときに驚き、感激した演出も、それが主流となり多くの劇団で行われるようになると陳腐で価値のないものにみえるということがある。
『The Library of Lifeまとめ*図書館的人生(上)』は、新奇さと懐かしさが絶妙にミックスされた舞台であると考える。そして、巧みに演劇ファンの相反する二つのニーズを満たしている。それは、「観たいものは自分で選びたい」と「観たものを理解し、満足しながらも、どこかで裏切られ、新しい発見をも与えられたい」という心理である。舞台上で、さりげなく、しかし決然とエピソードが切り替わった瞬間、観たくないものをみせられている感がしないどころか、自分の感覚ですくいとってしまったかのように思わせる演出。登場人物に寄り添い、共感した途端に違う人物を演じはじめる役者。ひとつひとつ、どこか懐かしさも感じるほどの、心の中にすとんと入り込んでくる脚本。全てが、現代の演劇ファンの欲しいもの、“今”観たいものとして選ばれるべく作られている、と感じる。
インターネットでは得られないもの、それは違う本を探しているときにふと気になる本をみつけるような、図書館での発見ではないだろうか。それを、前川は私達演劇ファンに提示しているのである。
(11月29日19:00の回観劇)