1.二元論の狭間で(佐藤 恵)
人は二元論で生きるものか。人はそのいずれかの立場に定まらなければ、安穏な日々を望めないのか。そして、その二つの元が交わりあうためには、必ず血を流さなくてはならないのか。およそ日常生活の中では考えさせられることのまずない視点を突き付けられ、首をひねりながら帰り道についた。
あらすじは単純だ。女優ルーシー(太田緑ロランス)は地下鉄の死亡事故に遭遇し、検分に来ていた犯罪学者デイビット(吹越満)と出会う。彼らは付き合うことになるが、そこに絡んでくるのがルーシーの隣人フランソワ(森山開次)だ。彼は、以前殺人事件の嫌疑をかけられ、デイビットによってポリグラフにかけられた過去を持つ。デイビットは彼が無罪であることを確信したが、その結論を”あえて”伝えることをしなかった。以来、フランソワは自分が有罪なのか無罪なのかの判断すらできないほどの混乱の中にいる。ルーシーは、デイビッドがフランソワの混乱の元凶であるとして彼を詰り、フランソワと関係を持ってしまう。それはデイビットの知ることとなり、お決まりの暴力沙汰に進展する。それ、だけだ。
その単純なあらすじを軸に、二元論を象徴する要素が螺旋のように絡みつく。偽と真。虚と実。男と女。東と西。カナダ人と非カナダ人。生と死すらその要素のようだ。この世界を構成する様々な2つの概念が、舞台上で交錯する。しかも、その対立する二つの概念は絶対ではないのだ。真偽を決するポリグラフの結果すら、それを判読する人間の手によって、反転させられる。たわいもない、脆弱な概念にもかかわらず、人はそれに振り回される。ポリグラフはその象徴だ。そして同時に、様々に語られる二元論の狭間を暗黙のうちに突き付ける。フランソワと舞台装置は、その狭間の不安定さを表現する道具のようだ。彼の不安定さは、男でも女でもない性嗜好で語られる。それではまだ足りないのかのように、彼は薬に溺れさせられ、危険な性行為までも課せられる。不安定な装置の上で、微妙なバランスを強いられる姿があまりに痛々しく、胸を突く。最後の最後に再び”不安定”の極致を体現させられるそのフランソワの後ろでは、裸でさえも真ではないとまで言いたげに、骨格標本が飾られ、そして頭蓋骨に向かってハムレットの台詞が語られる。
作者のロベール・ルパージュ氏は、なぜここまで二元論の狭間に拘るのか。ここまでの創意を投入してまで主張しなくてはならないことなのか。二元論の不幸。二元論に縛られる人間の不幸。どんだけナイーブなんだ!? なフランソワの、そこまで自虐的になるか!? な日常を描かなくては語り尽くせないほどの不寛容さが、少なくともカナダにはあるのか。事実、暴力沙汰にまで進展した三角関係の結末は語られない。興味がないとでも言いたげに。東の、そして男のデイビットと、西の、そして女のルーシーとの恋愛話は、ベルリンの、東西の壁の破壊の挿話と同じ重みでしかないようにみえる。軸となる”あらすじ”なのに? 共に血で結ばれる2つの元の象徴に過ぎないのか? いや、直接的である分、ベルリンの壁の方が重いかもしれない。裸で”要約”されたあらすじの挿入が、皮肉にすら映る。クリスマスに浮かれ、神社に詣で、経を唱えられながら墓に入る、”どっちつかず”の日本人には直ちに共感できないかもしれない。かく言う私もそうだ。灰色があったっていいじゃん!! それどころか、多様性が失われた環境では居心地の悪い私にとって、肩すかしをくらった、が正直な感想だ。
もし、これが自己陶酔としか思えない手法で語られていたならば、帰り道で首をひねるだけなく、空き缶でも蹴っていたに違いない。しかし、幸いそのような欲求不満は起きなかった。たとえ身につまされるまでの共感は得られないしても、ある程度の想像は可能であったし、理解を助ける仕掛けが随所にちりばめられていたからだ。表現方法の目新しさも興味を引くものだった。特に、ダンスである。映像の魔術師と呼ばれると聞くルパージュには申し訳ないが(映像の利用については実は東京福袋の吹越(!)の舞台で経験していた)、今までいわゆる小劇場的なノリで踊っている劇団の舞台しか観たことがなかった私には、ダンスがこんなにも含意に富んだ媒体になるのかと、目を見張らされた。むしろ、フランソワの置かれた不安定さを表現するためには、他の選択肢は無かったであろうと感じるほどであった。その意味で、この舞台の主役は森山であったといえるだろう。彼の肉体がなければ、この舞台の説得力は遥かに乏しかったに違いない。肉体だけではない。フランソワの不安や、苛立ちや優しさが、その台詞からも聞きとれた。太田は、少し硬い印象ながらも、役に対する真摯な姿勢に好感を持てた。一方、吹越はまだ開幕直後のせいもあってか”かみかみ”で、満足できる舞台ではなかったのではないか。ただ、決して純朴ではなく、正義でもない、一癖も二癖もありそうな犯罪学者の役ははまり役、であった。
(観劇日:2012年12月14日)