グループ る・ばる 「片づけたい女たち」

7.心にパンツをはいて、般若心経を唱えながら~現代日本人女性が闘っているモノ(小泉うめ)

 原稿の締め切り日が来て机に向かって座っている。こういう時に限って、普段はしない所の掃除をしたくなったりするものだ。机の端にずっと積んだままにしている本にも手を伸ばしたくなる。眼前の現実からの回避行動である。

 NHKのEテレで「100分de名著」という番組が放送されている。一度は読みたいと思いながらも、手に取ることをためらっていたり途中で挫折してしまったような名著を、毎月25分の番組4回100分で読み解いていくというものである。
 ちょうど今月の名著として扱われているのは「般若心経」である。人間が生きて行く心構えを語っているあまりにも有名なお経であるが、現代日本人のどれくらいの人が唱えられるのだろうか。
 般若心経くらい理解して唱えられるようになっても良い年の頃かと思い、書店でテキストを見つけて購入していた。それが結局開かれず、そのまま机の端にある。そのような本が机の左右で山のようになっているが、それがなんとなく落ち着く環境でもある。
 ちなみに、番組は未だに観ていないが、パラパラとページをめくってみる。
 「仏説摩訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」

 「ピンポーン。ピンポーン。」
 開演前のアナウンスが、玄関チャイムの音で始まる。誰かがやって来たようだ。

 都会のデザイナーズマンションでに、50歳を過ぎて独身で力強く働いているツンコ(岡本麗)が暮らしている。高校時代からの親友のおチョビ(松金よね子)とバツミ(田岡美也子)が部屋を訪ねて来た。付き合っていた30代の若い恋人と別れて、最近連絡がつかなくなった彼女を心配して、その男性から預かった鍵を持って訪ねて来る。
 演劇ユニット『グループる・ばる』「片づけたい女たち」の、長い夜の物語が始まる。

 舞台用語に「出オチ」という言葉がある。舞台に登場した瞬間に、その顔や姿に思わず笑ってしまう状態のことであるが、この戯曲の幕開けには板付きの役者はいない。けれども幕が上がると、どよめきのような笑いが客席に起こる。「明けオチ」か「セットオチ」とでもいうべきだろうか。この戯曲の有名なオープニングシーンであり、これだけでも一見の価値がある。

 いくらチャイムを鳴らしても返事がないので、やがておチョビとバツミが様子を窺いながら入ってくる。二人はその光景に唖然として立ち尽くす。
 歌舞伎なら「見得」ということにもなるのだろうが、ここで二人はスロー&ストップ・モーションで、客席に充分笑う時間を与えてくれるのが巧みだ。それは巨大なポンチ画を堪能するような時間であった。
 おそらく映像作品ではここまでの表現は不可能だ。これについては、この作品を演劇で表現した作家・永井愛の妙味であり、「これぞ舞台芸術ならでは」の愉しみな場面である。

 部屋を散らかして暮らしている人は世の中にはたくさんいるかもしれないが、到底信じられないレベルまで舞台いっぱいに様々なモノがそこを埋め尽くしている。正に、足の踏み場もない。背景にベランダが見えるが、窓の外にはゴミ袋が山積みなっている。もうすっかり夜なのだが、布団も干しっ放しである。上手にはベッドルームへのドアがあるが、その奥は更に大変なことになっているらしい。ここまでの光景になると、それは悲惨を通り越して、むしろ壮観でもある。そして、この中に軽妙な結末への伏線もすでに準備されている。

 ところで、それらはゴミなのだろうか。現代日本の消費社会において、あるモノをゴミと定義づけるのはとても難しい。持ち主がそれをゴミと言えば、その瞬間からそれはゴミになる。逆に、どう見てもゴミのようなモノが、ある人(々)にとっては、大変な価値をもつようなこともしばしばである。だから、不要だからと言って簡単には捨てられない。一方で、自分の人生を振り返っても、とって置けば良かったのに捨ててしまったことを後悔しているようなモノも既にもたくさんある。そのようなことも、暗に考えさせられる舞台であった。

 バツミがお茶を淹れようとする際に、いつからそこに置いているのか分からない布をキッチンで見つける。布巾として使えばよいのか、雑巾として使えば良いのか分からない。これまで綺麗に使っていれば布巾、何でも構わずどこでも拭いていれば雑巾である。あるモノが何であるかは、そのモノだけで決まることではなく、それを見る人が判断して決めている、ということの象徴である。結局、その布はおチョビの一言で「使っちゃダメ」ということになった。

 演劇の演出効果には色々なものが採り入れられる。「音楽」や「映像」や「ダンス」などが挙げられる。そして、この戯曲において、それはなんたることか「掃除」である。
 いまや、掃除の代行業も一般的にはなってきている。だが、たとえ掃除がどんなに嫌いであっても、これを他人に任せるのはどこか気持ちの悪いところがある。散らかしている人間には散らかしている人間で、それなりのルール・秩序が存在しているということを、ツンコも主張している。片づける手順、品物の分別、洋服のたたみ方、人それぞれに作法があり、微妙に違うものである。演出では見事に、この掃除作法とその進め方で3人の性格や生活、現在の心理状況とその変化を表現して行く。

 そして「こうなったのには、それなりの理由があるのよ」とツンコは言う。とは言ったものの、その理由については、問いただしてもなかなか語ろうとしない。
 部屋を、そしてツンコを、何とかしたいという思いで、おチョビとバツミが片づけを始める。30分だけの約束で始めたが、近況の報告や相談から、やがて思い出話が始まり、片づけは更に長引いて行く。
 その過程で、彼女たちそれぞれの自己矛盾に行き当たり、それを露呈させることになる。これまでの人生で先送りにしてきた、人生のゴミかゴミでないのかよく分からないモノ、その問題に否が応でも向き合わざるを得なくなっていく。今まで目を逸らしていたお互いの心の中の秘めたる部分が次第に表出する。

 おチョビは早く結婚して飲食店を営んで努力を続けてきた。しかし、最近店を手伝い始めた息子の嫁のやることなす事に、ずっとイライラしている。それを生来の我慢強さで日々なんとか耐えている。
 この気持ちが仲間たちと話をしていると、つい沸々とわき上がる。それをを鎮めようと彼女が繰り返しブツブツと般若心経を唱える姿は、とても愉快であり劇場が笑いの渦になる。だが、それはこれまでの日本女性の代表選手のような姿で、同時にとても切ない姿でもあった。

 一方、バツミは、何かをコツコツやりとげるような生き方をしてこなかったと言う。裕福な年上の男性と結婚して、子どももなく、対照的に自由気ままに暮らしている。ここにきて、プチ整形でもしてみようかと考えていたが、仲間たちとのやり取りの中で、自分で誇れるようなことを何もしていないと反省する。
 「私、心のパンツが脱げちゃった感じ……」、「はきたいけどね、そのパンツもどこへ行ったやら……」という言葉は、奔放なようでも女性として様々な苦難に耐えながら頑張って生きてきた証の言葉であり、この言葉を共有できる彼女たちの関係も、なんとも羨ましいものである。
 「まだやり直せる。まだ勝負は終わったわけじゃない。」と、おチョビが励ました。
 三人三様の女性たちであるが、いずれも今自分の周りにいそうな人たちである。きっと年齢の近い女性であれば、自分を誰かに置き換えて観ていたのではないだろうか。また、それぞれのキャラクターに共感し、意見したり、励ましたくなったりする会話の連続であった。

 さて、では問題の部屋とツンコが、このようになってしまったことの理由は何なのだろうか。それと併せて、作者がそれらに託している、この作品の主題は何なのだろうかというところに考えが移行する。
 この部屋をよく見てみると、どうやらツンコは根は几帳面な性格のようだ。本棚からは本が溢れかえっているが、本棚に入っている本は世界文学や日本民話の全集が綺麗に並んでいる。キッチンは使いっ放しのようだが、奥の棚にはマイセンのイヤープレートがこちらを向いて整然と飾られている。決して生来の自堕落者なのではなく、何らかの理由でこの部屋が崩壊していったことを暗示している舞台美術であった。

 ツンコがベランダに出ている間に、おチョビとバツミはツンコの昇進の辞令を発見する。めでたいことなのに、二人はその話を聞いていなかった。
 以前から会社の人間関係に複雑なことのあることを聞いていたので、この陰にツンコを悩ませていることの正体があるのではないかと二人は推察する。

 終幕に近づいてツンコがその理由を告白し始める。その語りによって、それまで笑いに溢れていた劇場が、一気に息をひそめて静まり返る。この時の岡本の牽引力は圧巻だった。
 その思いを掻き立てるように、後半何度も電話のベルが鳴るが、ツンコは電話に出ることができない。
 留守中に部屋のドアに何者かから、「あなたの犯した、誰にも告発されない罪を、私は心底軽蔑します。」と書かれた置き手紙が残されていたことも明かされる。その手紙を書いたのは、繰り返し電話の主と同一人物なのだろうか。ツンコの不安と焦燥はピークを迎えていく。

 浮き彫りになったモノのは、社会で生きて行く上で時折遭遇する「問題を傍観することの罪悪」である。それは決して本人が直接的に悪いわけではないのだが、何の責任も負わないかと言うと、結論は極めて難しい。

 学生時代は、クラブ活動で友人が抱えていた顧問からのセクハラ問題や別の友人から誘われていたベトナム反戦活動への自らの無関心、そして大人になってからは、何事にも順応して戦わない恋人の優柔不断や会社の上司からのパワハラ問題、ツンコはずっとこういうものに敏感に気付きながらも目をそらしながら生きてきた。決して、鈍感で気付かなかったのではない。人一倍感じていたが、彼女にはそうすることしかできなかった。だから、悩みは年々日増しにどんどん深くなっていたのだ。

 今回の東京芸術劇場のリニューアルプログラムの中で、これまでに『劇団、本谷有希子』の「遭難、」も再演されている。あの物語に根ざしていたものも「傍観することの罪」だった。そして「遭難、」が岸田國士戯曲賞の最終選考に残った際に、審査員の一人としてその戯曲を高く評価しながらも、そこに不足を指摘した一人が永井だったと聞いている。その根拠が、この「片づけたい女たち」だったのだろうと感じる舞台だった。

 これらの作品をさりげなくプログラムに並べて来た東京芸術劇場に、現代舞台芸術へのウイットやアイロニーを感じている。野田秀樹芸術監督も、その審査員であったことを思い出した。これらの作品を同時期に再演で取り上げた背景にある意識・無意識は分からないが、少なくとも嗜好性の共通は感じている。

 この日も劇場前には、当日券を求めて列ができていた。開場前のよくある風景だが、やはり中高年の女性が多いのが特徴的だった。

 東京芸術劇場が昨年リニューアルしてから、シアターイーストに足を運ぶのは既に十数回に及んでいるが、劇場に入って後ろから眺める客席の観劇姿勢が極めて美しかった。前のめりになっているような人も少なく、椅子に沈んでしまっているような人もほとんどいない。背筋の通った姿勢で客席が埋まっている光景がとても印象的だった。

 下北沢の小劇場の客席とも商業演劇の大劇場の客席とも異なる、安定して、かつ密な空気がそこにあった。再演を重ねてきたこの芝居が集める客層は、平均年齢は少し高めであるにも関わらず、そのように凛としている人々であることが、とても頼もしく嬉しかった。

 この公演は、この後全国34の都市を各1回ずつの公演で周って行くという。そのエネルギーを想像するだけでも恐れ入る。
 この作品を共有した他のお客様、『グループる・ばる』の松金よね子、岡本麗、田岡美也子の3人の名女優、そして、あれらを広げては片づけ続けるスタッフの皆さんにも、心より声援を申し上げたい。

 奇しくも現在東京芸術劇場プレイハウスで上演中の「100万回生きたねこ」でも素晴らしい歌声を披露している満島ひかりが、厳しい社会の境遇の中で闘った女性のために作られた懐かしい曲を、ちょうどテレビのCFで歌っている。

 ファイト! 闘う君の唄を  闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト! 冷たい水の中を  ふるえながらのぼってゆけ
                              ――「ファイト!」(中島みゆき「予感」収録)より

(2013年1月19日19時の回観劇)

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