グループ る・ばる 「片づけたい女たち」

12.片づけたいは、希望的観測(澤田悦子)

 「私はいつ、大人になるのだろう。」紗幕の下りた暗い舞台を、客席から見ながら思った。音楽の掛からない客入れは久しぶりで、手持無沙汰になり、手持ちの本を読みながらぼんやりと周囲を見回した。客席の多くは、役者と同世代だろうか。
 手元の本に目をやる、松谷創一郎著作の「ギャルと不思議ちゃん論」。客席の観客の多くは、「ギャル」とも、「不思議ちゃん」とも呼ばれたことなどない世代だ。グループる・ばるの3人もそうだろう。女の子でいることに意味のある私たちとは、圧倒的に何かが違う世代、大人になることを躊躇しなかった人たち。
 グループる・ばるの舞台は、女性3人による芝居だ。決して、女子3人の舞台ではない。ふと、本谷有紀子の舞台を思い出した。昨年同じ場所で行われた「遭難、」は、女子の舞台だった。彼女の描く女性像に納得できるのは、何歳までなのだろう。そして、彼女の描く女性像を「女子」と呼び共感し、理解できるのはいつまでか。少なくとも永井愛は、容易には納得も共感もしないだろう。彼女の描く女性は、大人だ。私には到達できていない、大人の女性たちが舞台にいる。

 グループる・ばるの「片づけたい女たち」は、連絡の取れない高校時代からの友人、ツンコ(岡本麗)の部屋を、おチョビ(松金よね子)とバツミ(田岡美也子)が尋ねる場面から始まる。紗幕が下りて暗い舞台が明転すると、モノに溢れた部屋が現れる。デザイナーズマンションのインテリアはモノに埋め尽くされ、足の踏み場もない様子だ。部屋から見えるだろう美しい夜景は、ベランダのごみ袋に邪魔されている。
 部屋の状況に驚きつつもツンコを探す二人。部屋がこんな状態になったのはなぜだろう。ツンコに何かあったのか、年下の恋人と別れたせいだろうか。原因について話し合う二人の前に、不機嫌そうに友人のツンコが登場する。
 友人が自分を心配し訪ねたと知っても、ツンコは不機嫌なままだ。何か言いたいことがありそうだが、それを話そうとしない。その彼女を宥めながら、おチョビの指示の下バツミが協力してツンコの部屋を片付け始める。
 部屋を片付けながら話すのは、彼女たちの現在と過去だ。家族の愚痴を話すおチョビと、年上の夫について話すバツミ。高校時代の楽しい思い出話で笑い、変わらぬ友情を確認しあい、少ずつツンコも話しを始める。
 ツンコはなぜ部屋に引きこもり、モノに埋もれて過ごしているのか。それは「あなたの犯した、誰にも告発されない罪を、私は心底軽蔑します」という警告文が届いたことがきかっけだった。ツンコは警告文を読んで、自分の「傍観者の罪」を思い出し悩んでいたのだ。引きこもりの一番の原因は、ツンコの昇進の件である。ツンコの会社にいた年下の女性上司が、自主退職した。事実上のリストラだった。自分は彼女を助けることが出来なかった。見て見ぬふりをしてしまった。高校時代、友人がセクハラを受けた時に何もできなかった様に、ベトナム戦争ついてクラス決議を取ろうと「アポロン」から言われても行動しなかった時の様に、傍観しているだけだった。しかも自分は昇進し、以前の彼女と同じ役職になり、そのことを彼女は知っている。ツンコはそのことで悩んでいた。舞台の終盤、近所のおばさんがツンコの部屋の状態に耐えられず、何度も電話をしていたことが判明する。ツンコは警告文も彼女が置いたのではないかと推測し、安心する。自分の悩んでいた原因がわかり、ほっとするツンコ。部屋も、おチョビとバツミの協力もあり少しずつ片付き始めた。舞台は、ツンコが自分で片づけを始めるところで終幕する。

 舞台は、3人の女優が実際に部屋を片付けながら話が進んでいく。部屋を片付けることと、登場人物たちのたまっていた気持ちを整理することが、上手くリンクしている。しかし、散らかった部屋のモノをまとめただけで、本当は片付いてはいない。彼女を悩ましていた警告文の犯人も、本当は判明していない。ツンコは、終幕までモノを捨てることをしなかった。それは彼女の思う「傍観者の罪」が、本当は解決していないことと、リンクしているように思える。ツンコの部屋の中には、捨てるものと捨てられないものが混在している。細かな分別にこだわり、片づけて先に進むことが上手く出来ずにいる。彼女は過去を整理出来ずに溜めこんでいるのだ。自分の過去について、捨てる思い出や捨てられない思い出などと、分別できたら楽だろう。簡単に分別できたら、溜めることなどない。ツンコはベランダのごみ袋の中も、未だ分別している。一度はゴミだと思ったものでも、まだ見捨てることができないでいる。片づけたいでも簡単に片づけられない、彼女のこだわりが見える。

 登場人物3人の女性は、それぞれに背景が違う。ツンコは、独身で会社に長年勤めている。そろそろ定年も見えるころだ。おチョビは結婚し、「場末」の定食屋でおかみをしている。息子もおり、孫も生まれている。一見何の問題もなさそうだが、嫁や自分の家族について、不満を感じている。バツミは、年上の夫と結婚し、優雅な暮らしをしている様だが、自分の人生は何も残せるものがなかったと思っている。誰もが順風満帆ではない人生だ。彼女たちは、背景が違っても仲が良い友人たちだ。しかし、「心のパンツは履いておいて」というおチョビのセリフは、すべてを曝け出してしまうことが、3人の関係性においても難しいことだと気付かせる。彼女たちは、時に相手が面倒で、嫌に感じる瞬間を意識しないようにしている。イラつきや不満は、自分の中で解消し、変わらない友情を保とうと努力している様に思える。友情は簡単ではない、大切な友情だからこそ保つ努力をしているのだろう。3人の姿は、本人たちの姿と重なって見える。セリフに説得力があるのは、彼女たちの人生が透けて見えるからではないだろうか。

 「片づけたい」は、希望的観測だ。「したい」は、思う本人からの状態を説明する言葉だ。「したい」と思う時は、周囲からみれば出来ていない。だから「出来ない」になるのだ。「片づけたい女たち」は、片づけが完了した女たちではなく、片づけを終わらせたい女たちの希望的観測なのだ。舞台では、部屋の片づけも、過去のこだわりの片づけも、現在の不満の片付けも完了しなかった。分別したゴミを捨て、モノを分類し、あるべき場所に収める。完了までの先は長い。片づけが完了するかどうかは、思った本人の行動次第だ。

 今回の舞台は、世代のギャップを感じるものだった。私の同世代の友人で、固定電話が自宅にある人はいない。連絡は携帯電話が中心だ。見知らぬ他者から電話がかかってくることなど、ほとんどない。近所のおばさんから自分の電話に連絡があったら恐怖だ。あんな風には受け入れられない。どこで番号を知ったのか、不安で仕方がない。しかし、バツミは電話にほっとしていた。私には考えられない感覚だ。
 照明の演出も気になった。ここは大事なところであると、強調する場面を作る。明かりの変化などつけず、さらっと流したほうが今の空気には合っている様に思う。しかし、場面を強調することで自分の主題を主張し、主張した主題に対して責任を持つ。それが大人の姿とも言えるのだろう。

 私はいつ、大人になるのだろう。もしかしたら、大人になる時など、訪れないのかも知れない。「片づけたい女たち」は、50代になっても上手く進めない自分の人生と向き合っているのだ。大人の女性でも片づけられない状況を、自分が越えていくイメージは難しい。ギャルと不思議ちゃん世代の、女の子でいたい私。女子に共感する子供の自分は、まだ大人の女性にはなれそうにない。
(2013/1/20 14時 観劇)

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