FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

5.群像劇サロメ:リアルで切ない愛の幻影(片山幹生)

I. 詩人の見た風景
 しとしと雨の降る夜、場末の繁華街をふらふらとさまよい歩いていた詩人が、街角に一人たたずむ幼い男の子を見つけた。いかにも場違いなその男の子の存在に詩人の関心は引き寄せられた。『サロメ vs ヨカナーン』創作の出発点として、劇の最後の場面で提示されるような原風景が実際にあったのではないだろうか。劇中で奇妙なタクシー運転手とともに雨の町をめぐり、さまざまな愛の情景の観察者となる「ワイルド系の男」は、戯曲『サロメ』の作者ワイルドと重なるだけでなく、『サロメ vs ヨカナーン』の作者である糸井幸之介とも重なる。ワイルドおよび糸井という詩人の視点は、さらに「ワイルド系の男」を演じる詩人(歌人)である枡野に仮託される。劇中でそれまでに展開された愛の場景は、男の子と出会ったことを契機に詩人の頭に沸き上がった妄想の産物であったように私には思えた。FUKAIPRODUCE羽衣の『サロメ vs ヨカナーン』では、語呂合わせの連鎖によって詩人が幻視した世界が一気に拡大され、愛についての華麗な連想ゲームが展開される。

II. 七つの変奏
 ミラーボールとともに天井から吊された数千個のチュッパチャップスで表現された雨の美術は、思わず声を上げたくなるようなインパクトがあり、観客の想像力に強く働きかける。チュッパチャップスは〈雨/飴〉の連想と連なり、飴は恋愛の甘さへと結びつく。さらに照明に照らされたチュッパチャップスの形状はペニスあるいは精子を連想させ、そのカラフルな色合いとともに舞台上であからさまに表現される愛の官能的側面の隠喩ともなっている。
 およそ2時間の上演時間の舞台は12の場に分割される。7人のサロメと7人のヨカナーン、そして7組のカップルの観察者となるタクシー運転手エロドとワイルド系な男の計16名が舞台に上がるが、この他にバーのマスター、ボーリング場のスタッフ、男の子といった役者によって演じられない役柄がある。
 『サロメ』の原作者であるオスカー・ワイルドの名前は、劇の舞台である「ワイルド系な街」へと引き継がれる。しかしこの街に芸術至上主義の詩人ワイルドの洒脱と洗練はない。ただワイルドが生きた世紀末の退廃と倦怠の空気は、この街にももっと荒々しく、卑俗なかたちで漂っている。「ワイルド系な街」には作品が上演されている池袋の歓楽街を連想せずにはいられない(1)。「ワイルド系な街」をタクシー運転手とともにさまよう「ワイルド系な男」は、ワイルド同様に詩人だが、その呼び名に反して「蝗と花の蜜」だけを食べて生きていけそうな繊細で牧歌的な人物だ。
 オープニングの場である《ワイルド系な街》は7組のカップルの短いスケッチからなり、この作品全体の要約となっている。劇の最高潮は中間部に置かれ、そこでは出演者全員が参加する感動的なトゥッティ、《サロメ vs ヨカナーン》が歌われ、演じられる。オープニングとこのトゥッティ以外は、7組の恋人たちによる愛の風景のバリエーションが各場で展開する。音楽がなく台詞だけのタクシー運転手エロドと「ワイルド系な男」が登場する《硝子のtaxi》の場は、間奏曲のように各場のあいだに挟み込まれる。

III. 「サロメ」の系譜
 『サロメvsヨカナーン』の台本には原案として福田恒存訳によるワイルド作『サロメ』が記されているが、原作の面影は希薄だ。サロメとヨカナーン、タクシー運転手エロデ、ワイルド系な男という登場人物の呼称は原作に基づくものであるが、人物の関係、物語の内容と構造、場所などの設定は原作をまったく踏襲していない。『サロメvsヨカナーン』はワイルドの作品から着想されたまったく別の作品になっている。ワイルドの『サロメ』の痕跡はときどき気まぐれに挿入されるせりふの断片にしか残っていない。
 それでは原作『サロメ』は、『サロメ vs ヨカナーン』にとっては男女の愛の物語を語るための、名目上の枠組みに過ぎないのだろうか? 原作からの大きな逸脱にもかかわらず、作・演出の糸井幸之介はツィッターで、千秋楽公演の開演前に次のようにつぶやいている。「おまえは何様で何者だ〜というつっこみは置いといて、サロメとヨカナーンとオスカーワイルドの供養のつもりで台本書きました。サロメvsヨカナーン。」(@itonosuke 2013年2月11日 – 10:11)。また舞台初日より前の1/31のつぶやきには「サロメvsヨカナーン、サロメを読んだことなくても、問題全くありません。ただ、サロメがなかったら作れなかった作品ではあります。」(2013年1月31日 – 22:40)とあり、舞台から受ける印象以上に作者は『サロメ』原作を作品創作の拠としているようである。
 新約聖書の福音書の記述(「マルコによる福音書」6・14-29、「マタイによる福音書」14・1-12)に基づくサロメの物語は、近代以降の芸術家たちの想像力を刺激し、ワイルドの『サロメ』以前にも、モローの絵画、フローベールの短編小説『エロディア』などの作品で取り上げられている。イスラエル王ヘロデの後妻、ヘロディアの連れ子サロメは、その美貌で国のあらゆる階層の男たちの欲望の対象となっていた。サロメは地下に幽閉されていた預言者ヨハネ(ヨカナーン)に惹かれ、彼を誘惑するが、ヨカナーンはその願いを拒絶する。義理の娘であるサロメに欲情を覚えていたヘロデ王は、彼女に執拗に踊りを踊るよう要求する。サロメは王の要請に従い、七つのヴェールの踊りを踊り、その報酬としてヨハネの首を要求する。王は預言者を殺すことを恐れ、彼女に要求を取り下げるよう懇願するが、結局は押し切られてしまう。ヨハネの生首にキスすることで己の情欲を満たしたサロメは、王の命令によりその場で殺されてしまう。
 ワイルドがフランス語で書いた『サロメ』の初版の出版は1892年である。有名なビアズリーの挿絵を伴う英訳版はその2年後の1894年に出版され、その後1905年にリヒャルト・シュトラウスが作曲したオペラの成功により、この作品は広く世に知られるようになった。こうしてサロメは倦怠と憂鬱の気分が漂う世紀末を象徴する《運命の女(ファム・ファタル)》の代表的存在となった。
 日本での『サロメ』受容は井村君江の『「サロメ」の変容:翻訳・舞台』に詳しい(2)。『サロメ』が森鴎外によって日本にはじめて紹介されたのは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ初演の2年後の明治40(1907年)年だった。大正に入ると松井須磨子などによって『サロメ』の上演が盛んに行われるようになる。
 濃厚な官能の愛の物語である『サロメ』は、「七つのヴェールの踊り」(ワイルドの原作では「サロメ、七つのヴェールの踊りを踊る」というト書きがあるだけ)の場面を含み、音楽舞踊劇という形式と相性がいい。また詩的な語句の繰り返しが効果的に用いられるワイルドの原作の台詞の響きは、韻文では書かれていないとはいえ、豊かな音楽性を持っている。オペラだけでなく、モーリス・ベジャール振付、パトリック・デュポンが踊ったものなど、サロメはいくつかのバレエ作品の題材にもなっている。
 日本では『サロメ』の受容は演劇から始まったが、上記の井村氏の著作の記述によると大大正7(1918)年ごろから関東大震災のあった大正12(1923)年ごろまでの浅草の劇場では、舞踊や音楽を付けて大幅に改作されたサロメが頻繁に上演されたとのことである。当時は浅草オペラの全盛期だった。井村によると浅草で当時演じられ、踊られていた多くのサロメ劇、そしてサロメ・ダンスは、原作とはかなりへだたった、いわばエロチックなオリエント・ダンスを見せる際物だった。花柳界でも、一枚ずつ着物をぬぎながら「ヨカナーンの首を下さい」といって踊るサロメ・ダンスが当時、流行していたという(3)。通俗的見世物劇へと翻案された音楽舞踊劇サロメの浅草界隈での流行は、大正12年の関東大震災によって終焉した。原作との距離、そしてその劇形式の面で、FUKAIPRODUCE羽衣の『サロメ vs ヨカナーン』は、官能性が強調された喜劇仕立ての浅草オペラのサロメを連想させる作品となっていることは非常に興味深い(4)。

IV. 《愛の讃歌》のリアリティ:孤独と切なさと幻影と
 世紀末の《運命の女(ファム・ファタール)》を代表する存在となったワイルドのサロメは、ビアズリーの絵画から連想されるような妖艶な退廃的な魅力を備えた美女としてイメージされることもあれば、未成熟で可憐な少女としてイメージされることもある。
 現代の日本の繁華街に舞台を移した『サロメ vs ヨカナーン』では、官能性という属性を引き継ぎつつもサロメの原型的イメージは解体され、ワイルドの原作へのレファレンスは断片的な引用を通してぼんやりと想起される。サロメとヨカナーンは7組のカップルに分裂し、その名前は愛し合う男女を示す普通名詞と化し、固有名詞としての役割は希薄になっている。薄い絶望に覆われた「ワイルド系の街」で、この7組の男女は社会のメインストリートからは少し外れた場所で生活し、それぞれの愛に浸っている。この7組のサロメとヨカナーンの愛の情景を核に作品は構成されているが、各エピソードの内容に連関は薄く、一貫した筋立てはない。独立した7つの愛のエピソードは、三度にわたって登場するタクシー運転手エロデと「ワイルド系な男」による〈硝子のtaxi〉の場面によって接合されることで一つの作品としての大きなまとまりを形成し、さらに人物名のつながりやワイルドの原作への控え目なレファレンスが作中で仄めかされることによって、普遍的な広がりを獲得している。
 中盤に置かれた長大な楽曲、《サロメ vs ヨカナーン》はこの作品のクライマックスをなす。歌詞の内容は定型的な年齢ソングで「○歳のとき、○をした」というパターンの歌詞を、女性グループと男性グループが交互に歌うことによって、一組の男女の誕生から死までのライフストーリーを歌い上げる。年齢が11、22、33、44などのゾロ目となったときに、「ゾロ目」が「サロメ」と韻を踏み、「君の名はサロメ/あなたの名前はヨカナーン/ひとりぼっちよりも ましだから愛している」という印象的なリフレインが導き出される。「ひとりぼっちよりも ましだから愛している」という歌詞には、何とも身も蓋もない愛のリアリティが表現されているが、そのリアリティゆえに大いに共感を覚えずにはいられない。このリフレインは「なぜ人は誰かを好きになってしまうのだろう?」という極めて素朴な問いかけに対する誠実で率直な回答となっている。若干なげやりで屈折した言い回しであるが、その裏返しには寄り添い、孤独を慰める相手がいることの幸福と喜びが、はにかみとともに表明されている。この愛の賛歌は、最後はディミヌエンドしていき、「サロメ」、「ヨカナーン」という互いの名前の交換のなかで消えていく。愛する人の名前を最後につぶやくことで人生を終えることができるならば、それはどんなに幸せなことだろうか。《サロメ vs ヨカナーン》は愛についての願望で締め括られているのである。
 7つの愛のエピソードはいずれも甘美で繊細はあるが、その愛を引き下がった位置から見る冷静で客観的な視点も常に示されている。性行為そのものを描写したようなエピソードもあるが、そうしたエピソードにおいてさえ、そこで描き出される恋愛の情景は切なく、悲壮な雰囲気が漂っている。歌と所作によって表現されるプライベートな愛の風景はフェリーニの映画を連想させるような濃厚な叙情性をたたえている。
 愛のエピソードは暗闇のなかに消えていく。台本で〈暗いMAX〉と題されている最後から二番目のエピソードはとりわけ象徴的だ。漫画喫茶のブースで寄り添うサロメとヨカナーン。サロメの目がだんだん見えなくなっていくことが会話のなかで示される。しかし二人はその深刻さに向き合おうとはせず、徐々に暗くなっていく舞台のなかで若い恋人らしい無邪気で微笑ましいやりとりを続けていく。『サロメ vs ヨカナーン』では愛に対する希望とともに、その背中合わせにある絶望も歌われており、それが各エピソードに深い余韻をもたらしている。
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 冒頭で紹介した幕切れの場面、「ワイルド系の男」によって劇が締め括られることで、この作品の枠構造は強調される。古代の聖書の神話的世界で誕生し、19世紀末のワイルドの劇作品を介して、現代の日本の場末の街にやってきたサロメは、詩人の描き出した幻影により7人の女性に分身し、官能の愛にすがる切ない7つの愛の類型となって現れた。語呂合わせの連想によって劇中世界は拡大され、作品に組み込まれた絶妙の空白感が観客の想像力を刺戟する。FUKAIPRODUCE羽衣『サロメ vs ヨカナーン』は観客がその空白におのれの記憶と感情を自由に投影できる舞台となった。 そこで描きだされる孤独感を伴う愛の情景に共感することができた観客は、終演後、劇中のエピソードと音楽を反芻しつつ、それぞれが自分のサロメ、自分のヨカナーンを思い浮かべたのではないだろうか。

[2013年2月2日19時、4日19時観劇]

(1) 糸井幸之介(@itonosuke)のツィートによると「50年前のロンドンと、20年前の歌舞伎町を、足して2で割ったイメージ」とのこと。[2013年1月29日 – 1:41]
(2) 井村君江「大正期の舞台─松井須磨子から浅草へ」、『「サロメ」の変容:翻訳・舞台』東京:新書館、1990年、89-154。
(3) 同書128ページ。
(4) なおFUKAIPRODUCE羽衣『サロメ vs ヨカナーン』と戦前の浅草喜劇との類縁性については、日比野啓氏(@hbnk)もツィッター上で言及していた。興味深い指摘なのでここで引用しておく。「@blankimai これも戦前の浅草喜劇と同じ匂いがするのです。古典のタイトルと有名な台詞を借りるだけであとは全く関係ない展開。「お染vs久松」でもよかったのではないか(「ロミオvsジュリエット」だと「つきすぎて」面白くないけれど)、というようないい加減さ。」(2013年2月9日- 01:33)

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