FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

6.翻弄される遺伝子(中村直樹)

サロメの聲
あゝ! あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。お前の唇は苦い味がする。血の味なのかい、これは?…いゝえ、さうではなうて、たぶんそれは戀の味なのだよ。戀は苦い味がするとか…でも、それがどうしたのだい? どうしたといふのだい? あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたのだよ」
  一條の月の光がサロメを照らしだす。
エロド 振り返ってサロメを見
殺せ、あの女を!

  兵士たちは突き進み、
  楯の下に、エロディアスの娘、ユダヤの王女、
  サロメを押し殺す。
(『サロメ』ワイルド作 福田恆存訳 岩波文庫より)

 オスカー・ワイルドの戯曲では、このようにサロメが終わります。元となった新約聖書のエピソードではエロディアスの娘(サロメ)は死にません。悲劇で終わるのはオスカー・ワイルドの創作です。糸井幸之介はその戯曲をミキサーにかけたように粉々に解体します。目に見えない遺伝子だけが残るぐらい粉々にです。それにいろいろなものを混ぜ込んで、練り上げて、妙ージカル「サロメvsヨカナーン」を作り上げました。

 劇場に入ると、大量のチュッパチャップスが目に飛び込んできます。釣り糸で繋がった大量のチュッパチャップスが天井から吊り下がっています。その飴は水中の泡のような印象を受けます。そして舞台の中央の上の方にミラーボールが七つ存在しています。戯曲のサロメでは、銀の月というものが効果的に登場しているので、おそらく月なのでしょう。他には何もありません。とても簡素な舞台です。後ろの方がオススメということなので、後ろの席に座りました。そして入り口でもらったパンフレットを読みました。
「えぇぇぇぇぇ」
登場人物にサロメ1~7、ヨカナーン1~7、タクシーの運転手エロド、ワイルド系の男と書いてあります。なんとサロメとヨカナーンが7人づついるのです。さてさてどのようなことが行われるのか、本当にワクワクします。

 ホストのようなスーツを着た男(ゴールド☆ユスリッチ)と青いワンピースを着た女(浅川千絵)が相合傘をしながら現れます。女の足は血で汚れています。
「ねえ、サロメ」
「ねぇ、ヨカナーン」
彼女はサロメ、そして彼はヨカナーン。二人は仲睦まじく舞台にはけていきます。そして傘を差した6人の女たち(深井順子、西田夏奈子、鯉和鮎美、大西玲子、伊藤昌子、中林舞)が現れます。舞台袖に立っている男たち(岡本陽介、日高啓介、代田正彦、高橋義和、澤田慎司、加藤靖久)が彼女たちに向かって呼びかけます。
「サロメ」
それに対して彼女たちは彼に呼びかけます。
「ヨカナーン」
彼女たちもサロメ、そして彼らもヨカナーン。舞台上はサロメとヨカナーンであふれています。エロドはタクシーの運転手となり狂言回しのように登場し、エロディアスは登場すらしません。サロメとヨカナーンの二人だけの世界が展開されます。

 戯曲のサロメでは、エロド王の求めに応じて「7つのヴェールの踊り」という踊りを披露します。オペラではサロメを演じるソプラノ歌手は踊りながら裸になってしまうんだそうな。7人のサロメはそのヴェールの一枚一枚を表しているのでしょう。サロメの一人一人は淫乱で純粋です。銀の月の光に打ち消されることのない光を彼女たちは放っています。ヨカナーンたちはその光の中に神を見出して、惚れ込むのです。

 サロメ1(深井順子)とヨカナーン1(岡本陽介)は、ホステスと恋人(もしかするとセックスフレンド)の関係です。いろんな地域の男の相手をするのにほとほと疲れているサロメ1は、自分を癒してくれる恋人を欲しがっています。その時に現れたヨカナーン1。二人は恋人同士となり、体の交遊を繰り返していきます。そこには心の交遊があるのだろうか。サロメ1はこのようなことを言います。
「愛のないセックスはよくないっていうけど、笑顔のないセックスよりましね」
それに対し、ヨカナーン1はこのようなことを言います。
「でも、君の笑顔に触れたら、誰だって、愛さずにはいられない」
ヨカナーン1が一方的に愛しているだけなのかもしれません。そしてサロメ1はヨカナーン1が死ぬまでセックスを求めます。そしてヨカナーン1は焦点してしまうのです。これはヨカナーンを知り、実際に出会おうとするまでのサロメとシリア人の若者なのです。シリア人の若者はこのような関係になることを望んでいるのだから。

 サロメ2(西田夏奈子)とヨカナーン2(日高啓介)は、街のスターと彼女を支える内縁の夫の関係です。場末のバーで観客相手に歌を歌っているサロメ2。それを黙って見守るヨカナーン1。ショーを終えて家に帰ってきた二人はベッドでブランデーを傾けながら心の交遊をするのです。二人だけの世界はとても穏やか。他のヨカナーン達といる時には見せないヨカナーン2の優しさが溢れています。サロメ2はエロディアス、ヨカナーン2はエロディアスの望むエロドなのでしょう。戯曲のエロディアスは自分のことを想ってくれる存在を求めているのだから。

 サロメ3(鯉和鮎美)とヨカナーン3(代田正彦)は、家出娘とモテない中年男の関係です。店の前に立っているサロメ3に一目惚れしたヨカナーン3は、彼女に声をかけてボーリングに行きます。そこで二人でボーリングを楽しみます。それはとても楽しい時間。しかし二人の関係は変な方向に。
「お礼、おじさんのこと気持ちよくしてあげよっか?」
サロメ3はお礼の仕方をそれしか知らない。そしてヨカナーン3はそのことに衝撃を受ける。ヨカナーン3の思っていたサロメとは違うサロメだったから。トイレに駆け込んだヨカナーン3は口笛を吹きます。それは無様で音になっていません。
「ヒューヒューヒュー」
それは動揺からなのでしょうか、葛藤からなのでしょうか、それともヨカナーン3のうだつの上がらなさなのでしょうか。
「トイレ、行こう。口で頼んます」
とうとうヨカナーン3は決断します。それは快楽というよりも、サロメ3を受け入れるということ。お互いの不器用な愛情表現は相手に伝わることはありません。すれ違ったままサロメ3とヨカナーン3は分かれていきます。サロメ3はヨカナーンを知ったあとのサロメでヨカナーン3はそんなサロメを知ってしまったシリア人の若者なのでしょう。他の男に女として迫るサロメを受け入れることが出来れば、このように分かれることが出来たのかもしれません。

 サロメ4(大西玲子)とヨカナーン4(高橋義和)は、苦労をしている妻と働かない夫の関係です。働かない夫を尻に敷き、妻は子供のために奔走します。しかし、そこは男と女。そこまで子供を大切にしているのに、ホテルへと入ってしまう二人。そして久々の行為に燃えてしまう二人。それにより、男と女は夫と妻になり、父と母になっていきます。これはエロドの兄とエロディアスなのではないでしょうか。戯曲で子供がいるのはこの夫婦だけです。そこにはなんの罪もありません。理想的な夫婦を表しているのではないでしょうか。

 サロメ5(伊藤昌子)とヨカナーン5(澤田慎司)は、肉食系の年上の女と草食系の年下の男の関係です。サロメ7に敵愾心を持つサロメ5は、ヨカナーン5の献身的な愛によって溺れていきます。現状に満足できないサロメ5はとうとうワイルド系の街まで飛び出していきます。タブーなど関係ないサロメ5に必死についていく善良なヨカナーン5。サロメ5もエロディアスで、ヨカナーン5はエロディアスのお小姓。ヨカナーン1とヨカナーン5は友達同士。一緒にボーリングにダブルデートをしてしまうほど。戯曲のサロメで友達同士の関係はシリア人の若者とエロディアスのお小姓のみです。ヨカナーン5の献身ぶりは、近親相姦の罪すら置かしてしまう主人に必死に使える、ある意味崇拝のようにみえます。エロディアスについていく。エロディアスのお小姓の望みはそれだけなのでしょうか。

 サロメ6(中林舞)とヨカナーン6(加藤靖久)は、三十路女と妻のある金持ちの男の関係です。ワイルド系の街にやってきた二人は別々に街を楽しんでいます。そして日も落ちた後、フランス料理を二人で食べます。しかしその姿は優雅ではない。とても品がないのです。その後にニンニクたっぷりの豚骨ラーメンまで食べに行ってしまう。そして嘔吐してしまうサロメ6を懐抱し、ヨカナーン6はキスをします。これは、エロド王とエロド王を受け入れたサロメなのではないでしょうか。戯曲では近親相姦の罪に怯えているエロドは、不倫に罪悪感を感じるのでしょう。エロド王もヨカナーン同様に誠実な男なのかもしれない。だから、悪魔の羽ばたきを聞くことができたのです。それでも恋から逃れる事ができない。そんなエロドに対して不倫を続けるサロメも30歳となってしまった。道ならぬ恋のため、身も定まらない。ただ堕ちていくだけ。理由をつけて別れようとするも、その苦さがから逃れることができない。しかし二人はその苦さを心の奥では望んでいるのではないでしょうか。

 サロメ7(浅川千絵)とヨカナーン7(ゴールド☆ユスリッチ)は、貢ぐ女と貢がれるホストの関係です。サロメ7は甲斐甲斐しくヨカナーン7の望むことを叶えていきます。ヨカナーン7の靴を買ってやり、読みたいといえば漫画喫茶に連れて行く。ひたすらヨカナーン7と一緒にいることだけが幸せという雰囲気を表します。その結果、彼女は周りが見えなくなっていく。そしてとうとう何も見えなくなってしまう。暗闇の中でお互いの声と感触だけで確かめあうのです。サロメ7は裸足であるうえに、血で汚れています。7つのヴェールの踊りを踊り終えたサロメなのでしょう。彼女は欲しいものを手に入れて幸せいっぱい。「今」というものの幸福に溢れているのです。先の不安が消し飛んでしまうほどに。

 7組のサロメとヨカナーンの間をタクシードライバーのエロドと乗客のワイルド系の男が狂言回しのように間をすり抜けて行きます。エロドの運転するタクシーは無色透明。外から丸見えです。しかし、見えない壁は存在しているのです。それはあたかも水槽のよう。そのタクシーには乗客が一人乗っています。名前は呼ばれません。エロドに「ワイルド系だね」といわれる男です。彼は郊外に住んでいるので、街の住人ではありません。そして最後まで水槽のようなタクシーから降ろされることはありません。戯曲でエロドによって水槽に閉じ込められていた存在はヨカナーンです。ワイルド系の男は本物のヨカナーンなのでしょう。本物のヨカナーンも水槽の中で首切り役人によって首を刎ねられてしまいます。死によって水槽から出ることができたのです。水槽からでたヨカナーンは誰の目にも見えない存在に出会います。それは彼の死の先を予言しているようにも見えるのです。

 「サロメvsヨカナーン」は大団円を迎えました。そのことが戯曲のサロメの悲劇性を際立てます。戯曲では、銀の月の下で本物のサロメとヨカナーンは出会ったことで周囲を巻き込んで死んで行きます。
「君の名前はサロメ」
「あなたの名前はヨカナーン」
そう呼びあうサロメとヨカナーンは戯曲には実在しません。お互い見ているものが違うのです。「サロメvsヨカナーン」の舞台は、銀の盾に押しつぶされてしまったサロメが死ぬまでに観た一瞬の夢なのかもしれません。飴のように甘い夢は、泡のように弾けて消えてしまう儚い存在。弾けてしまえば、さらに辛味の増した世界がみえるようです。

 でも、知ったこっちゃないよね!

 そのように読み取れるというだけで、全然FUKAIPRODUCE羽衣らしくない。もうちょっと気楽に考えてみることにしましょう。サロメ7が最終的に目が見えなくなるのも「恋は盲目」というものとしちゃいましょう。チュッパチャプスが降るワイルド系な街だもの、真剣に論ずるだけ損なのです。とことんハッピーに語っちゃいます。

 サロメ、ヨカナーンと呼ばれているけど、ヨカナーン1が自殺するシリア人、サロメ2がエロディアス、ヨカナーン5はエロディアスのお小姓など他の人物を描いているのは間違いないでしょう。でも、それは悲劇に巻き込まれた人達を救ってあげようという糸井幸之助の愛から。だからサロメとヨカナーン達は二人だけの世界で幸せ一杯なのです。

 舞台上には存在するチュッパチャプス。これを精子みたいだという人がいました。そうであるなら7つのミラーボールは卵子です。サロメ7が言っていた乱視は卵子なのかもしれない。それどういうこと?わかんね。目が見えなくなるのも卵子が精子を受け入れて、表面を波立たせるほどの快感ということでいいんじゃね?で、卵子と精子が出会う場所。それは子宮の中です。サロメとヨカナーンの二人は差していた傘を逆さまにして吊り下げます。それは受精卵の着床を表しています。新たな命が生まれる瞬間を目撃したのです。その神秘性は感動的です。いくら否定しようとも私たちはこのようにして生まれてきました。そしてそのことを改めて目撃することで、私たち観客は生まれ変わるのです。そして観劇後、劇場という子宮から生み出されていくのです。あまりに壮大になってしまいました。せっかくなので、さらに壮大にしてみましょう。

 「君の名前はサロメ、あなたの名前はヨカナーン」
こう言い合う7人のサロメと7人のヨカナーンは
「あなにやし、えをとめを(ああ、なんていい女)」
「あなにやし、えをとこを(ああ、なんていい男)」
と言い合うイザナギとイザナミの神々しさを発しています。イザナギとイザナミの二柱は、成長が足らない部分と成長しすぎた部分をお互いに重ね合わせます。それはまぐあいです。そのまぐあいによって、日本国土を生み出しました。同じような行為に励むサロメとヨカナーンも神となり国生みをしているといってもいいのかもしれません。

 「ひとりぼっちよりもマシだから愛してるぅ」
イザナギとイザナミはそのあともまぐあいによって多くの神を生み出します。しかし火の神を産んだことで、イザナミは死んでしまいます。嘆き悲しんでしまうイザナギはイザナミを探しに死の国へと向かってしまいます。寂しさの前では神と人は等しく無力なのです。

 ラストで本物の「ヨカナーン」と思われるワイルド系の男がサロメとヨカナーンの子供に出会います。その子供はサロメとヨカナーンの間に生まれた人の子です。そして神も行うような神聖な行為によって生み出された神の子です。その上、聖霊のように目に見えません。
OH!ジーザス!
ワイルド系の男は迷えるその子供の手を握り導くのです。その光景はなんと神々しいのでしょうか。

 でも、知ったこっちゃないよね!

 いくらなんでも壮大すぎますね。でも、FUKAIPRODUCE羽衣の「サロメvsヨカナーン」をいくら論じてみても、いくら語ってみても
「ふわふわしていて、なんか心地よかったよねぇ」
という一言以上に表現することができません。でも、それだけではやはり面白くない。もうちょっと考えてみることにします。

 劇評セミナーで演劇ジャーナリストの徳永京子はこのようなことを言っていました。
「サロメvsヨカナーンは一枚のアルバムのように構成されている。CDで聴きたいぐらい」
そして、FUKAIPRODUCE羽衣の特徴はしつこく繰り返すものだと言っていました。ここで私はEテレで放映された亀田音楽専門学校を思い出しました。

 その番組では、名ベーシストで名プロデューサーである亀田誠治が大抵のJPOPの構造は以下のものであると解説していました。

1.クリシェ
安定した音から半音ずつ落としていき、不安定な状態にしていく。その結果、聞いている人はドキドキしながら次の安定した音を求めるようになる。そして安定した音が現れた時、待ってましたと感情が高まる。

2.リフレイン
同じフレーズを何度も何度も繰り返すことで、次の音を爆発的に印象付けるものにする。

 戯曲のサロメは悲劇です。詳しい内容を知らなくても、そのことは頭にあるでしょう。そしてそれぞれのサロメとヨカナーンは戯曲から引用されたセリフを適宜にしゃべります。そして戯曲のサロメを連想させるようなものを表現しています。それを演じる役者達はどこか泥臭い、生々しさを放っています。不安定なのです。その不安定さをそれぞれのサロメとヨカナーンが入れ替わって繰り返していくのです。
「君の名前はサロメ、あなたの名前はヨカナーン」
「ひとりぼっちよりも、ましだから愛してるぅ」
クライマックスで7人のサロメとヨカナーンが揃って仲睦まじく歌っていきます。溜めに溜めた不安定さがここで爆発します。そしてそれまでの不安定さも容認してしまうのです。なんとサロメvsヨカナーンは音楽そのものだったのです。

 「一体なんだったのだろう」
「サロメvsヨカナーン」に対して、このような発言を多く聞きました。舞台上に展開されている物語から何かを見出そう。私も含めてそういう気持ちで観ているからでしょう。しかし、妙ージカルとは演じられている物語にあまり意味がない。つまり舞台上に答えはないのです。役者や音楽や言葉は観客の遺伝子を直接的に響かせます。そして遺伝子の中に潜むサロメ、またはヨカナーンが反応するのです。そのサロメ、またはヨカナーンが物語を紡ぎ出すのです。

 「ボク、眠くないの?…ん、どうしたぁ…手繋ぐ?…いいよ」
二人、手を繋いで雨を見ている…

 糸井幸之介の戯曲では、このようにサロメが終わりました。元となった戯曲のエピソードではサロメもヨカナーンも死んでしまいます。悲劇で終わらせないのは糸井幸之介の創作です。観客はその妙ージカルを遺伝子で受け取ります。目に見えない意識の外まで含むありのままをです。それにより観客はサロメ、ヨカナーンに変身し、観客固有の「サロメvsヨカナーン」の物語を生み出します。つまり「サロメvsヨカナーン」は、観客自身の「男と女」の物語だったのです。
(2013年02月11日、マチネ観劇)

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