東京芸術劇場「マシーン日記」

03. 救われない「悪」(竹之内葉子)

 約2時間の舞台を見終え帰路についた私は、ひどくスッキリとした顔をしていた。実際気分は晴れやかで仕事帰りに舞台を1本見た後とは思えないような爽快感があった。ただ、頭に思い浮かぶシーンは、弟、ミチオが閉じ込められたプレハブに、殺されかけた兄、アキトシが灯油を撒くシーン。普通に考えればスッキリ爽快な気分にさせられるようなシーンでは全くなかった。

 このマシーン日記という作品はそもそも1996年に初演されたもので、その後も97、01年にも再演されている松尾スズキの人気作である。4度目の公演となる本公演は新潟、福岡など国内はもちろん、パリでの公演も決まっている。今回のキャストはサチコ/鈴木杏、ミチオ/少路勇介、アキトシ/オクイシュージ、ケイコ/峯村リエであるが、初演の際はサチコ/加藤直美、ミチオ/有薗芳記、アキトシ/加地竜也、ケイコ/片桐はいりで上演されており、片桐はいりの舞台を、と頼まれて書いたと松尾スズキからのコメントにある。

 ストーリーは小さな町工場を営むアキトシとその妻サチコ、そしてアキトシにプレハブに監禁されているアキトシの弟ミチオが生活しているところに元サチコの中学の担任ケイコがパートとして勤めるようになることで展開する。ケイコは機械に異常な執着を持っており、教師の仕事の曖昧さが気に入らず、はっきりとした規則を持った工場の仕事に就くことにしたという。そして、ミチオとケイコは夫婦となり子供ができる。そのことをきっかけにしてギリギリの表面張力で保たれていた生活の均衡が崩れ、救いようのない事態になっていく。

 「物の見方に刺激を受ける」この舞台を見ていて思い出したのは自身の作品について語る際にこう述べた、映画監督:松本俊夫の作品だった。松本俊夫の実験映画というと、言葉・映像・音が、断片的にアップで無機質に表現され、大量のイメージが画面に現れては消える印象がある。そしてそのイメージが重なり合い、反転に次ぐ反転を繰り返すことによりそれぞれのイメージが持つ記号的意味は消滅し、抽象化される。このシーンの高速の点滅・重なり・変容により、見ている者の頭に残る記憶痕跡は侵蝕し合い別の文脈を紡いでゆく。それによって今まで見ていたものから別の見方への入り口が開かれる、ということが言える。

 このマシーン日記という作品も、もちろん核となるストーリーがあり、その流れに沿って話が展開する。しかし、その物語のプロットとそれに連なる言葉の他に、はみ出していくかのような言葉が大量に発せられる。それは丁度舞台中にサチコの話し方を揶揄して述べられた「10を3で割るような会話」のような展開の仕方である。話の展開として3というストーリーの本筋の流れに沿う言葉(答え)は確かにあるのだが、必ず1言葉が余るような過剰さがあるのだ。その余り1の言葉は話が進むごとにレイヤーのように記憶に積み重なっていき、侵蝕し合い、それぞれの言葉が持つイメージ・意味は消滅し抽象化され、普段頭に浮かんでいる様々なノイズを取り去る。そして今まで見ていた世界とは違う風景の入り口を作り出す。それによって話の本筋だけを追っていた気でいたにも関わらず、気づけばイメージと現実の間で今まで見ていた景色と違う場所に私はいた。そしてラストに向かい自分自身の無意識の底まで感覚が冴えていくのだった。

 また、もう1つ松本俊夫作品を挙げるとするなら、1980年に「日本の時空間<間>」展の上映作品として制作された『気=Breathing』の「霧」、「風」、「波」の3部構成のうちの「波」という作品がある。この作品はまず、画面に4面の屏風が現れ、その屏風に違い合わせにして2種類の波の映像が映し出される。波の映像は断片的に、機械的に切り取られ、つなぎ合わされ、見ている者自身のイメージを喚起する。さらにそのシンメトリーな構成から人は何も言わずとも様々な事を個々に認識し、意味を生み出し思考し続けることになる。

 その形態を思い浮かべこの作品を見た時、登場人物4人は1まとまりになっていながらも人物の関係性、状態、性質などの分け方によってどのような読み取り方もできるようになっている。またその分けられたことによって見える断面は鮮やかに様々なイメージを感じさせる。そして見ているうちに舞台の世界観に1本、また1本と線が引かれていき、そこからイメージが溢れる。それがこの作品の過剰な感覚を生み出しているもう1つの要因でもあるだろう。

 そして、問題の最後のシーンである。そもそもこの舞台に溢れる毒と笑い、救いを求める人々の姿。これらはかなりの濃度で語られていく訳だが、一般的に考えて毒の溢れるものというのは敬遠されがちであることも事実だ。吉本隆明の『真贋』における、[善悪二次元論の限界]にも「世間一般では、物事の毒がどこにあるかわからない、あるいはそれが存在することすらもわからない、という人が多いのではないかと思います。」とある。そのような人にとっては毒の出し方はあまり関係がなく、毒の成分というもの全てを受け付けない場合が多い。そして受け付けない理由として「かわいそうだから」や「見ていて嫌な気分になる」という声をよく聞く。それはさも、自分の中には「毒」の成分が存在すらしないかのような距離感の取り方が感じられる意見である。しかし、全く毒の成分を持っていない人間はいるのだろうか。それは自覚があるかないかの差のようにも思える。もちろんそれだけになってしまえばそれは問題であるが、人間は一つの側面ではできていない。善悪両面がバランス良く存在することが大事である。また、その「毒」にも種類があるということについても『真贋』では「人間、救いを必要としているとすれば、それはどこかに悪を持っている」とある。作り物、故意に作り出された悪は憎むべきものかもしれない。しかし、救いを求めるあまりにいつのまにか存在してしまっていた「悪」の部分があるとするのならば、それは本来、一番に手を差し伸べられるべき部分のはずではないだろうか。しかし、現実ではそれが必ず解消される、ということはない。圧倒的に報われない事の方が多いだろう。その世界のあり方というものを無意識の底の底まで感覚が落ちた状態で鮮やかに私は見せつけられた。

 結局アキトシは殺されかけ、どこまで正気かもわからない状態にありながらみんなで家族写真を撮ろうと言い、カメラを取り戻って来たときにはミチオが繋がれたままのプレハプに火をつけ写真を撮ろうとした。このシーンを狂気と呼び、済ましてしまうのは簡単だ。しかし、救われようとするも救われず悪を見せびらかす訳でも自らを偽る訳でもなくただ1人で抱え続け、結果最悪の結果を生み出し「笑い」を浮かべるその姿は、やっていることは決して許されるものではないが、「かわいそう」でも「見ていて嫌な気分になる」ものではなかった。これもまた1つの世界の姿であり、それでも自ら死を選ぶような影を感じさせないその姿はある種の人間の生きる強さを感じた。そして私は妙に納得し、奇妙に明るいその姿を笑ってしまった。その感覚は劇場を後にしても続いた。私の日常にも新しい風景の記憶が侵蝕し、今までと違った生活のイメージがもたらされていたのだった。
(3月14日 19:00の回観劇)

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