ハイバイ「て」

17.おかあさん指だって男根には似ている(安田直彦)

 初めてハイバイを見た。芝居が終わって最初に思ったことは、「物足りない」だった。
 なにが物足りなかったのか。それは、母がおもしろすぎて、父が嫌なひとすぎる、と感じたからだ。劇評セミナーを通じて改めて言葉にするとすれば、母親は批判を受けないようキャラクターが作られており、逆に父親は暴力的で感情移入を避けるように作られている。この傾向が極端すぎる、という感覚だった。

 「て」では、前半と後半で舞台の前後を反転させ、視点人物を変える。そのことで、キャラクターの異なる面を見せる。たとえば前半の主人公でまったくの善人に見えた次男は後半、長男の言葉からだと軽い人間に見える。気遣い屋の姉は自分の理想を押し付けるところがより強く描かれる。皮肉屋の兄は、祖母のことを一途に思っていたことが示される。しかし、父と母はキャラクターの見え方が変わらない。母は前半からおもしろいキャラクターだ。そして家族のだれにも敵意を向けられていない。対照的に、父は最後まで嫌なひとに見える。

 確かに、違う角度から見ればまた違うのかもしれない。母を嫌いな人物もいるだろうし、父を慕う人物もいるだろう。事実、和夫は「パパのこと面倒とか思ったこと一度もない」と母の言葉で告げられている。
 また、前半後半で見え方が変わらないのは前田、和夫、そして菊枝もそうだ。

 それでも、父と母の描かれ方には私は疑問を持った。母にあれだけ罵倒され、しかし反論の機会を劇中で与えられることのない父という図が、なにかひとつ意図的なものを感じてしまったのだった。
 それは作者の岩井の家族への思いからくるものかもしれない。もしくは自身父母との関係で悩んできた私の思いなのかもしれない。どちらかはわからないが、私はあのシーンに、「父への反論の機会が与えられるべきだったのでは」と思ったのだった。また、母も同様に、嫌な人間であるという面をきちんと描かれるべきであるように思えた。

 おそらくこのような苛立ちや切なさを、見たひとがそれぞれのキャラクターに感じることができるのがこの作品の魅力なのだろう。舞台の反転はそのことをわかりやすく示してくれる装置だったのだろう。それでも、だからこそ、無限にある視点とシーンのなかから選び出されたあの1時間45分には、作者の、家族への視線が確かに入っていたのだと思う。はっきり言ってしまえば、父親を絶対悪とし、母親を完全に善いとする視点である。
 手品師が右手にコインを持ったときは左手を見ろという言葉がある。そこに手品師の意図の及ばない部分が見えるからだ。作品の前半と後半で視点が転換されたときこそ、転換「されなかったもの」に目を向けることで、この作品の仕組みがより一層見えてくるのではないか。
(2013年5月31日19:30の回 観劇)

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