城山羊の会「効率の優先」

11.ねぎらいの共犯関係(落雅季子)

 この世のどこも、死体だらけだ。おびただしい数のサラリーマンの死体によって富士山が描かれた会田誠の絵画『灰色の山』は決して、フィクションではない。だからと言って「サラリーマンなんてばかばかしいね、嫌だね」という話では、もちろんない。誰だって自分のいる場所は肯定したい。それはそこにいる自分を肯定したいということだからだ。少なくとも典型的オフィスワーカーである私はそうで、この『効率の優先』は、そういう自分の浅ましさを思い知らされる作品だった。

 舞台は、とある会社のとある部署、平日の一日。新婚ながら同僚女性に思いを寄せている男(金子岳憲)がいたり、部長補佐(鈴木浩介)の男と不倫している女(松本まりか)がいたり、総務部から異動してきたばかりの男(松澤匠)が場を引っかき回したり、どこの企業でもそこそこ見かける光景だ。頂点には、女性部長(石橋けい)が重厚な威圧感と色気、かしこさによって君臨している。

 あらすじについて、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をご存知の方にはこのように説明したい。たとえばネルフめがけて使徒が襲来している最中に、伊吹マヤが同僚によって突然殺されたら、リツコやミサトはどうするでしょう。使徒から第三東京市を守る事が最優先なので、マヤのことは間違いなく放置します。シンジ君は狼狽して騒ぐかもしれませんが、レイは落ち着いて対応するだろうし、アスカはやはり使徒迎撃を優先するでしょう。そういうことです。えっ、使徒襲来ほど大ごとじゃないでしょ? 同じじゃないでしょ?! と思われるかもしれませんが、同じです。

 部長の電話の最中にわめいた男がおり、口を押さえ込んだらあっけなく死んでしまったので、とりあえずB会議室に隠す。痴情のもつれから取っ組み合いになり、首を絞められて元総務部の男が死んでしまったので、これまたB会議室に隠す。部長は、打ち合わせに出席してこい、クライアントに会いに行け、と言い放つ。後から事態を知った専務も、差し当たって死体の隠蔽を指示する。部下たちは死んだ同僚を見捨てるだけではなく、自分の心をも半ば殺して仕事を続ける。それができない社員は、気も狂わんばかりに騒ぎ立てる。だいたい人が簡単に死にすぎだし、何とも悪趣味にデフォルメされたコメディである。

 組織の秩序というものは、外からはどんなに狂っているように見えても、内側にいる人々は喜んで従っているように見えることがある。本作は違う。社員たちは皆、部長の指示や起きた事態に対して拒否反応を示しはするのだが、自身を苛む違和感をうまく形にできない。部長には逆らえないし、社員としての自分の保身は図りたい。そこが面白い。かくして会社の一部署という設定は、ブラックコメディに向いているし、観客と登場人物との気まずい共犯関係のような意識の形成という意味での試みは成功していたと言えるだろう。舞台上の問題にどのような感想を持とうとも手出しが許されないという点で、観客も劇中の平社員たちと同じ立場だからである。

 やけにスタイリッシュなデスクとノートパソコンで彩られたオフィスではあるが、旧態依然とした事なかれ主義が染み付いて取れない。職場環境改善の手段だったはずの革新や効率推進の施策が、いつしか実体なき目的と化してしまう情景には覚えがある。この職場でもきっとそうなのだろうと思ったら、洗練された舞台美術が急に皮肉な光景に見えた。先送りや隠蔽の体質は本末転倒なプロセスを増やし、人々を疲弊させる。

 私は登場人物の誰にも愛着が持てないまま、何となく殺伐とした気持ちで観劇を終えた。唇の端っこで幾度となく笑ったにも拘らず愛着の持てなかったこの作品だが、それでも「つまらない」とは切り捨てられない気持ちを無視できなかった。自分が業務中に死んでもその日の仕事が片付くまでは同じように放っておかれるだろうな、というひねくれた共感に基づき、作品自体を悪い冗談としてとても楽しんだ。緻密に編まれた冗談は、ストーリーの運びだけでなくいつしか客席にいる私の日常にも手を伸ばし、シニカルに笑い飛ばしてくれたようでもあったのだ。作品の後味のやるせなさで自分の境遇を慰めるその心理は、やはり浅ましい。でも、そういう逆説的なねぎらいの効能を持つ演劇ではあった。

 なぜ登場人物はあんなにも自分の気持ちのプライオリティを下げて、意に添わないことをしていたのかという疑問は当然わく。人が二人死んでも警察に通報すらせず(使徒迎撃でもないのに!)仕事を優先しているのは、お金をもらっているから?みんな我慢してるから? 上司がやれって言ったから? どれもが少しずつ本当だ。「やらされている」ことには責任が生じないと人はどこかで思っていて、無責任な力学が絡み合うことでドラマが進行してゆく。

 主宰・山内ケンジは、本作のチラシで“「会社」ってなんだったんだろうって、震災後思ったりしています。”と書いている。東日本大震災の後、計画停電の中でも通常どおり出勤した勤勉なサラリーマンたちのことを念頭においているのだろう。非常事態なのに、どうして仕事を続けようと皆必死になっているのか、その切実さは同調圧力の恐怖と紙一重であった。また、あの時の私は大災害という現実の重さに、表現活動や演劇作品に対して没入することが難しくなっていたことも思い出した。作家の多くも圧倒的すぎる現実の悲しみを前にして、フィクションの持ちうる効能や創作活動の意義を見失っていた。演劇公演に限らず、楽しむことが目的の催し物はいくつも自粛された。しかし多くの会社員は、仕事を自粛することはなかった。通常通り仕事をする意味が、見出せなくても。

 震災から二年以上を経て、山内ケンジはあの違和感を舞台上に再び出現させようとしたのではないか。登場人物たちが自発的に責任を放棄したように見える行動は、自分でも正体のわかっていない仕事への強迫観念に駆られた結果だとすれば、その方がずっと根深い。そしてそういう作品によって自身の日常を笑い飛ばした私もじゅうぶん毒されている。でも、それに気づいたところで、明日も仕事には行かなければならない。満員電車に乗って同僚と机を並べて会議に出ることを繰り返し、そんな自分を慰めながらも、この違和感を思い出し続けるしかできることはないのだ。
(2013年6月10日19:30の回 観劇)

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