城山羊の会「効率の優先」

13.オフィスという名の教室で(山田紗希)

 オフィスとは、概して何も起こらないところである。否、何も起きてはいけないところである。会社員になって、まだ日の浅い私にも当たり前に感じられるくらい、それはもはや、現代社会における自明の理になっていると言ってもいい。自分勝手な人は、疎まれる。空気の読めない人は、白い目で見られる。それが嫌なら、大人しく、デスクで与えられた仕事だけをこなしていればいい、というわけだ。

 この芝居の舞台となっているオフィスでは、このように日々抑圧され、押さえ込まれている感情や他者との関係性を、各人が少しずつ表に出していくと、多分こういう感じになるのだろう、と思われるような出来事が、連鎖反応のように次から次へと、それはもう目まぐるしく展開されていく。
 発端となるのは、たとえば上司に対する嫌悪や怒り、同僚に対する好意など、会社に勤めた経験があれば誰もが、あるある、とうなずけるような、ごくありふれたものばかりだ。しかし、それらは次第に私たちが共感できる範囲を超えて、徐々にエスカレートしていき、しまいには殴り合いの大喧嘩、事故死、責任のなすりつけ合い等、いやいや、それはさすがにないでしょう、と突っ込みたくなるような悲喜劇へと発展していく。

 端的に言ってしまえば、それは、秩序の崩壊である。さながら、小学校の教室にでもいるような感覚だ。思い出されるのは、たとえば自習時間。初めのうちは、監視する者がいないにも関わらず、何か得体の知れぬ力の働きによって、静けさが保たれているのだが、ふとしたきっかけでそれが破られると、ざわめきは瞬く間にクラス全体に波及し、そうなるともう歯止めが効かない。劇中のオフィスで生じていたのは、まさにあのときの混乱そのものだった。
 また、そうした混乱の中で、社員たちが互いに衝突し合い、必死に自己防衛を試みる様子も、実に子供じみている。都合が悪くなった途端、自らの過去の発言を否定したり、暴力行為を咎められて、誰々の方がもっとひどいことをしていた、と告げ口をしたりする彼らを眺めていると、人間、いくら思いやりや譲り合いの大切さを主張しても、それは単に、表面を取り繕っただけの仮相にすぎないのだ、と思わずにはいられない。

 一方で、そんな社員たちを厳しく律し、何とか混乱を治めようとするのが、石橋けい演じる女性部長であるが、私は彼女とて、この「教室」の外側に君臨する、絶対的存在ではないと思っている。
 部下がオフィスに私情を持ち込むことを極度に嫌い、いいからとにかく仕事に集中しろとうるさく注意する部長は、小学校の頃、クラスに必ず一人はいた、「静かにしてください」を連発する生徒を連想させる。優等生で、かつ自分はこの集団のためになることをしているのだと信じて疑わない彼女は、それゆえに高慢で、自分に対する批判や陰口は、決して放っておかない。聞き流していればよいものを、わざわざ真正面から問いただし、表面化させ、事態を悪化させてしまう。
 つまり、いわゆる「大人の対応」ができないのは、彼女もほかの社員たちと同じなのだ。むしろ、部長も含めたオフィス全体こそが、学校の教室と、ほぼ同じ構造を有していると言えよう。

 もちろん、オフィスが小学校の教室に似ていたとして、それが何だと思う人もいるだろう。しかし私は、これら舞台上で繰り広げられる一見突拍子もない出来事を、私たちがまったくのフィクションとして笑い飛ばすことができないのは、同じような出来事の記憶が、頭の片隅のどこかに残っているからではないかと思う。
 私たちは、他者との基本的な関わり方を、学校生活を通じて学ぶが、そこでは経験の浅さゆえ、本音が建前を突き破って飛び出してしまうような事態が、往々にして起こる。それは、年を追うごとに徐々に減ってはいくが、しかし、だからこそ私たちは、いま目の前で行儀良くすましている人間が、ふとしたきっかけによってすべてを崩壊に導く可能性を有していることを指摘できるし、事実、芝居の中でそうした状況を提示されたときに、一抹の不安を覚えるのだ。

 とはいえ、私がこのオフィスを教室のようだと評する理由は、その無秩序な混乱ぶりだけにあるのではない。クラスが成立する上で決して見逃すことのできないもの、それは教師、すなわち専務の存在である。社員たちは皆、部長も含め、専務の前では自分を良く見せようと必死になり、うしろめたいことは隠そうとする。もちろん、告げ口は許されない。課長の暴力を告発しようとした社員は、その場にいた全員に取り押さえられ、不運な死を遂げた。
 小学校の教師には、担当するクラス全体を監視し、適切に取り締まる責務があるが、ここでの専務も、オフィス内で道義に反する行いを発見したら、程度の差こそあれ、それなりの処分をもって対応するものと考えられているわけだ。

 ところが劇中では、真実が露呈した瞬間、それまでの物語の流れのすべてを、一瞬にして裏切るような事態が生じる。会議室で隠された遺体を目撃し、部長のいるオフィスに戻ってきた専務は、この不祥事を、しばらくのあいだ隠蔽しようという提案をするのだ。業績が上向いているいまが、会社にとって一番大事な時期であり、ここで失速するわけにはいかないから、という理由でだ。
 もしこれが本当に、小学校のクラス担任の先生だったら、事態を決してうやむやにはしない、というかできないだろうし、これがクラス内だけの問題にとどまることはないだろう。職員会議が開かれ、PTAや教育委員会にも報告がなされるのが常識的な対応であり、本来の姿でもある。

 おそらく私は、知らず知らずのうちに、その役割を専務に期待していたのだ。目を背けたくなるような混沌の中で、専務が戻ってくるという知らせに一縷の望みを託し、どうか早く帰ってきて、遺体が隠してある会議室に行け、行ってくれ、そしてこの惨劇に終止符を打ってくれと願わずにはいられなかった。
 しかし、彼が正義の味方ではなかったことが暴露され、部長との過去の関係までもが表面化してくる。彼らは、個別の騒動を収めるのではなく、それらすべてを覆い隠し、会社全体としては、何事もなかったかのように振る舞おうとする。
 つまり会社とは、これまで論じてきた人やもの、これらのさらに一段上のレベルで、何も起きてはいけないところなのだ。一会社員として、そのことはある程度理解していたつもりだったが、やはりこの結末にはどうしても、失意や虚無感を覚えずにはいられない。

 否、もしかすると、会社だからこうなってしまった、という認識さえ甘いのかもしれない。いまや教育の現場をはじめ、会社以外のあらゆる組織においても、内部の問題をもみ消そうとしたり、責任を回避しようとしたりとする言動は後を絶たない。会社だろうとなかろうと、組織の自律的な統制など、期待するだけ無駄だという皮肉だろうか。
 そう考えると、この芝居の、どぎつい、ブラックユーモアにあふれた演出には、これらすべてに対する、冷笑的な諦めの念が表れているようにも思われる。

 しかし、確かにそういう事実があることを一方では理解していながら、それでも私たちは、少なくとも私は、人間を信じようとしている。芝居がこういう結末を迎えたことに深く納得しながらも、やはりどこかで、現実の瞬間には、誰かが待ったをかけてくれることを期待している。なぜかはわからない。しかし私は、この点こそ、見逃してはいけない事実なのだと思う。
 この物語に救いがあるとすれば、それはこうして、観客である私たちに託されていると考えることはできないだろうか。もちろん、見方によっては、根拠のない希望的観測かもしれない。しかし、あの血も涙もない、仕事人間の部長にさえ、人間らしさ、女性らしさが残されていたことを思えば、あながちそれも、ただの楽観主義とは言い切れないのではないだろうか。
(2013年6月10日19:30の回 観劇)

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