2.檻に入った余所行き顔の珍獣たち(小泉うめ)
例えば、どこかの国の密林や山奥でプリミティブな生活をしている少数民族に関心を持ったならば、彼らを知るために最も優れた方法は、その現地に赴いて実際の彼らの暮らしに触れさせてもらうことであろう。
決して先方の日常を乱すことなく、こちらの習慣を押しつけることもなく、ありのままの姿を見せてもらうのが良いだろう。そのためには、あまり大勢で押し掛けることも良くはない。
「城山羊の会」の作品には、しばしば非現実的な世界が出現する。
理由も良く分からないままに人が殺されたり、愛情の前触れもないままに男女が情事を始めたり、場面も一体どこのなのかよく分からない所へさらわれて行ったりする。それは、とても不思議な体験で、彼らだけの秘めやかな世界を感じつつ、そのような刺激と妄想を求めて、これまでも「城山羊の会」に足を運んできた。
「面白いと感じた時は、我慢せずに声を出して笑っても良い」ということは、観劇のルールだと考えているが、「城山羊の会」が引き出す笑いには「こんなシーンで笑って良いの」と思うようなシュールなものも多く、つい他の客の様子も伺ってしまう。
「周りにも客がいて、それが意識に入る」ということも、劇場体験の特殊性だが、そういうことを感じさせてくれることも、「城山羊の会」の妙味であろう。
また、例えば、写真を撮る時に遠くの被写体を大きく表現したいならば、今日のカメラの性能があれば少々の被写体との距離は望遠レンズによって解決することができる。
しかし、カメラマンがそれ以前に大切にしていることは、カメラのレンズを交換する前に、一歩前に出てカメラを構えてみることである。同じサイズのフレームに収まった景色であっても、見比べればその鮮度や趣きに大きな差異が生じることがあり、リアル感も数段違いになる。
「城山羊の会」の演出は、極めて細部に至っており、よく見ていないと見逃してしまいそうな小さな演技をふんだんに盛り込んでいる。ささやくような会話も多いし、本編とは別の所でも色々な人間関係を複合的に描いたりする。
さらりと何気ない会話や動きで演技を進めるが、その決めごとは緻密に計算されていることを、これまでの作品でも感じている。上手い役者がアドリブで演じているように見えることもしばしばあるが、決してそうではない。何度か見ると、その演技の再現性がとても高いものであることに気付く。
そのような理由で、可能ならば「城山羊の会」は小さめの劇場で観たいと思っている。
映像の世界で活躍している山内が、あえて演劇という方法で行っている表現としては、もう少しその提示方法を検討して欲しかった。回ごとに動員数も増えてはいるが、だからといって劇場を安易に大きくしたことは、いささか残念だった。
今回の舞台は三方からの囲み舞台だったが、やはり広々し過ぎていて接触感が薄い。客席にいても客観的に見え過ぎてしまって、巻き込まれていく感じがしない。
演劇の世界に、「下北沢の劇場すごろく」という言葉がある。人気を博した劇団は、徐々に劇場を大きくしていく。下北沢ならば、小劇場楽園から、「劇」小劇場、OFF-OFFシアター、駅前劇場、ザ・スズナリ、そして本多劇場で公演すれば、上がりになる。
この感覚があるので、どうしても人気ユニットは大きな所に出したいという気持ちがついてまわる。
しかし、ここが演劇という表現の難しいところで、あるユニットに観客の需要が増えた場合には、2つの選択肢を考えるべきだ。1つは劇場のサイズアップであり、もう1つはロングランという手段である。
もちろん、劇場の確保やキャストやスタッフのスケジュールの問題もあるので、分かっていてもなかなかそうは出来ないものである。
ただ、願わくば「城山羊の会」は後者の方法で、今後更に多くの観客の目に触れる方が望ましいと改めて感じる東京芸術劇場公演だった。
今回の舞台は、ある会社のオフィスである。サラリーマン経験もある山内が本公演のために選んだ場所設定である。
しかし、今回はこれも「城山羊の会」の独自性を薄めてしまった。確かに、会社を舞台にした作品は少ないかもしれないが、逆に世の多くの観客は何らかの企業団体の被雇用者が圧倒的に多い。これで得意の異次元の世界への旅も、ほぼ封印された。
物語の中では、実際のオフィスでは起こらないようなことが次々と起こる。しかし、いずれも分かりやすい原因があって、導かれたのは大袈裟ではあるが必然的な結果である。自分の会社では起こらないが、事件としてはそういうこともありえるだろうと思える範疇のものであった。物語としてはとてもシンプルで、会社を舞台にしたコントとしては笑えたが、そのエピソードに翻弄されるような混乱の愉楽はほとんどなかった。
シアターイーストで広々と快適に眺める「城山羊の会」は、得体も生態も知れない謎の珍獣「城山羊」を、遠巻きに檻の中に入れて眺めるような物足りなさを感じてしまった。
セットは、1 番奥に部長席、その隣りに小さな課長席、そして室員用のミスシェイプのデスクが4卓配置されている。その上にはそれぞれにPCや書類が拡げられている。キャビネットなどはないので、今風のフリーデスクを想わせる。自然なメンバーの交流を促して、新しいアイデアを生み出したり、OJTを円滑にすることにも適している。オシャレなようで、実はこのフロア・デザインこそ、効率至上主義が凝縮されて詰まっている。
そして次々に会社としては都合の悪いことが起こるが、その対応は個々の問題の根本的な解決はしないで、ただひたすら業務の遂行を優先していく。
問題は、セクハラ・パワハラといった会社勤めをしていたら時折耳にするような問題からはじまり、それに我慢しきれなくなった社員が暴力を振るう。それが上司に知れそうになると、その事実は揉み消される。納得できない者もいる中で、被害者当人が泣き寝入りして、何もなかったことで済まされる。それでも蓄積される鬱憤は、挙句の果てに殺人にまでエスカレートするが、確固として揺るがないヒエラルキーの中で、その遺体も会議室に隠されて業務は進む。
ラストシーンの前に、社内で起こった殺人事件について、専務は「いや、でも、ほんと驚いたけど。とにかく今、会社、忙しいからね。とりあえず、色々、動かない方がいいから。しばらくあのままにして。」と言って、とりあえず事態を収拾して、仕事を進めようとする。この会社の姿勢を示す象徴的な台詞だった。
ところで、この会社は何の会社なのか。おそらくメーカー系の企業のようだが、会社が目指しているところが良く分からない。実際の会社にも、会社の目標が分かっていない社員はいるかもしれないし、全体がそのように陥っている会社もあるかもしれない。何が起ころうとも「仕事、仕事」と仕事を優先するが、実際の仕事らしいことはほとんどすることもなく、そして、その仕事が何なのかということも、とうとう最後まで明らかにされないまま舞台は終わる。
もちろん、業務の効率はその会社にとって生命線であるが、世のサラリーマンが、常に慌ただしく「仕事、仕事」と言って勤しんでいるものが、果たして「どれくらい重要なのか」また「どれくらい緊急なのか」ということを考えさせて、客席を笑わせていた。
だが、昨今の企業は、どこもかしこもコンプライアンスにもっとウエイトを高くおいてている。もちろん業績向上は企業の使命であるし、その目標達成のためには躍起であり必死である。それが果たされなかった時には、ステークホルダーも決して優しくはない。
しかし、他方で利益追求のあまり、倫理的なところを踏み外すと、すぐに訴訟に巻き込まれたり、社会的な不信も含めて思わぬ大きな損失を被っていることも少なくない。
また、トラブルは直接その企業活動とは関係ないものが会社の内外で発生することもある。そのような会社に関する小さな綻びに目を背けていると、仕事と直接関係のないところで起こる問題により、会社が傾いたり、時には存続できなくなるようなことも起こっている。
そして、「全ての社員が会社のために常にその心血を注いでいるか」というと、それも様変わりしている。ワーク・ライフ・バランスということも謳われるようになり、「会社のために命がけで働きます」というような人材は、もはや化石のような存在である。テレビドラマで見るような熱血社員が、実社会で誰からも賞賛されるような時代でも最早なくなっている。
高度成長期が終わり、ゆとり世代が社会の仲間入りをして、倫理も世界基準のものが求められる中で、企業の運営は随分様変わりしていると言えるだろう。現代の「会社」は、もっと複雑な規範により動いていて、その中で推進する利益追求においても、社員には個々の立場がダイバーシティとして認知されている。そのため、そこで発生する駆け引きは、もっと繊細で、もっとシビアで、だからこそ、もっと笑える要素をも孕んでいるように感じている。
常に時代をリードしている山内ではあるが、ここに描いた「会社」は、彼がサラリーマンだった10年以上前のそれのデフォルメであって、少々古臭い感じもして「らしくない」印象を受けたと言わざるを得ない。
これも、東京芸術劇場という「城山羊の会」には不似合いな場所が、彼らにさせてしまった「余所行き顔」だと言えるだろう。
奇しくも、劇場の外で無料で観たカナダの劇団コープスの「ひつじ」の、羊たちの自由奔放っぷりが、対象的で羨ましく輝いて見えた。
きっと秋には、そのような「城山羊の会」に再会出来ることだろう。
最後に、念のため、宣言しておきます。
私が勤めている会社では、決してこんなことは起こっていません。絶対に、絶対に、起こりません。起こるはずがありません。
(2013年6月8日19:30の回 観劇)