東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)

 私はストリップ小屋に行ったことがない。でも劇場に足を踏み入れ、客席の中に丸く突き出た小さなステージを見つけたとき、この劇場がストリップ小屋そのものを表していて、あの丸いステージの上ではやがて女が妖しく舞い、それを男達が四方八方から取り囲み、目をぎらぎらさせて彼女の肢体を見上げるだろうことは、容易に想像ができた。私は今日、初めてストリップ小屋を体験するんだ、それもこんな「かぶりつき」の場所から! 舞台装置が生んだ空気に、始まる前からドキドキした。

 予想通り、幕開きはストリップショーだった。しかしまさに最後の衣裳が滑り落ちなんとした瞬間、暗転。話は楽屋で踊り子たちを待つヒモたちの人間模様へと移っていく。
東京発の、ドサまわりの、うらぶれたストリップ一座に身を置く、もう若くない上に盲腸の痕がくっきりと腹に残る踊り子の明美と、彼女のヒモとして生きるシゲさんを中心とした物語である。

 東京芸術劇場による「Roots」という試みは、往年の名作戯曲を若い演出家の手で再演するという新たなマッチングによって、刺激的な舞台を生み出すとともに、日本の現代演劇の「ルーツ」といえる作品の魅力を再発見するというのが目的である。
そのシリーズの初回に選ばれた「ストリッパー物語」は、初演が1975年。当時、つかの舞台に魅せられ熱狂した人間は多い。やがて自らもとりこまれ、ついに演劇人となった人々も数知れない。

 脚本を使わず、稽古の中でつかが言った言葉がセリフとなり、しかも日々それらが変わっていくという「口立て」の手法は、出演者たちに緊張感を与え、また観客もその究極のライブ感に酔った。つかこうへいという人間のカリスマ性もあって、彼の作品や彼の演出はほとんど「神話」となって演劇人たちの心を支配し、今もさまざまに再演がなされている。

 ただ個人的なことを言えば、私はつかの存命中に、彼の舞台を生で体験したことがない。だからつか亡き後に上演されたつか作品を観ても、正面きって評することを避けてきた面がある。しかし今回は、「つか」の作品を「つか」の感覚ではなく、三浦大輔という若き演出家の感覚で演出することに意義があるのだから、「つかさんならどうしたか」とか「初演ではどうだったか」などの呪縛から解き放たれ、純粋にこの作品だけを観て評していきたいと思う。

 「草食系男子」とか「セックスレス」とかが流行語になり、他人の領域にはできるだけ踏み込まず、悶着やトラブルは可能な限り避けて生きようとする人間が増えた21世紀の日本社会で、大声でセックスを語り、因縁つけて人を罵倒し、逃げても後ろから背中をつかんで屁理屈言って、蹴って殴って泣いて笑ってが定番のつかこうへい作品は、若者たちにどう映るのか。

 ストリップ小屋の座長は、冒頭シゲさんを「ヒモのなかでも最低の、ひどい男」と断じる。明美を蹂躙し、見下し、利用して、シゲさんは何もかも絞りとっていくのである。ヒモとしてのシゲさんの生きざまはえげつないが、「ありえない」ものではない。舞台上に起きる出来事はすべて、現実の社会にも起こりうる事象の集積である。多少突拍子もないセリフも、舞台上にストリップ小屋の楽屋が写実的に作りこまれたことで、リアルに響いた。

 リリー・フランキーが自然体で優しさと残酷さを併せ持つ「ヒモ」を好演。これだけいい加減かつ人でなしな男はいないと頭ではわかっていても、彼の「愛」を信じたくなる。膝枕で耳掃除をするように楊枝で明美の歯の間を掃除する光景は忘れがたい。まったく無防備に心と心を擦り合わせる男女の、すでに彼我分かち難い関係が浮かび上がった。

 明美を演じた渡辺真起子は、ギリギリまで自分を痛めつける凄まじいまでの女の業を見せつける。たかられ、使われ、怒鳴られなだめられ、どんなに翻弄されてもシゲさんだけを求め続けるいじらしさ。それらすべてを、さめた瞳の奥におしこめて、ただ目の前の一日を生きていく。シゲさんの娘の留学資金を稼ぐために、本番まな板ショーをやり続ける。自分の体が汚されるたびに、「あの人が喜んでいる、あの人のためになっている!」というカタルシスに身をよじらせる。

 座長に「最低な男」と言われたシゲさんだが、明美が梅毒で精神を病んでも、シゲさんは明美を見捨てない。何ができるわけでもないが、ベッドの脇で所在なく寄り添っている。シゲさんがどんなにひどいことをしても、明美が彼の元へ戻っていくのは、彼女にこの光景が見えていたからに違いない。何より、明美には彼のほかに、自分のものだといえるものは、何もなかった。子どもを産んでいたら、子どもはきっと2つ目の所有物となったであろう。シゲさんとの関係も変わっていたかもしれない。しかし、子どもは、持てなかった。だから、他に失うものは何もない。シゲさんは、明美にとってたった一つの「所有物」なのである。

 「ストリッパー物語」が、ストリッパーとヒモというある意味最下層の、一般人の生活とはかけ離れた設定の話でありながら、観る者の心をわしづかみにして離さないのはなぜだろう。それは「やるせなさ」の共有にあると私は思う。どこかで自分の人生に絶望し、将来を見限りながらも自分にできる精一杯のことをやって輝きたいともがく明美の姿を、私は才能ある人に憧れつつ自分は凡人であることを受け入れねばならぬ自らの人生に重ね合わせて観ていた。何をやってもうまくいかず、シゲさんのような生き方もまた、現実から逃げてしまいたい男性にとっては、救いに思えるのかもしれない。

 何もかもうまくいかない、それでも生きていくために、人間がどん底で見出す希望と喜び。現実として「負け」を肯定しつつ、その救いようのない、あるいは気狂いじみた、ほかの人間にはとるに足らない生きざまを、つかは清濁のみこんだうえで舞台の上で美しく昇華させていく。

 しかし、このパターンは、決してつか独自のものではなく、これまで日本の演劇の中に、脈々と流れてきた典型的なパターンでもある。特に、歌舞伎ではこのテの男女がたくさん出てくる。

 「ストリッパー物語」の公演と同じ7月、東京の歌舞伎座では「加賀見山再岩藤(かがみやま・ごにちのいわふじ)」がかかっていた。ここでは、夫の野望のために殿様の愛妾になるお柳(りゅう)と、思いを寄せる主人の病気を治すための朝鮮人参を買うため、すすんで遊女に売られるおつゆの2人の女性が描かれている。また、同月の大阪・松竹座の出し物は「柳影澤蛍火(やなぎかげ・さわのほたるび)」で、こちらは柳沢吉保が出世のために妻・おさめを将軍・綱吉に差し出す話だ。

 それらは客観的に見れば男の身勝手でしかない。しかし、彼女たちが一方的な被害者であるかといえば、それも違う。よく、歌舞伎は「忠義の物語」と言われるが、それは男社会から観た大義名分である。その「忠義」に巻き込まれた女たちは、いとしい男のため、愛のため、と割り切って、覚悟を決めて遊女に売られ、美人局の片棒を担ぐ。好いた男の夢のためになら、よろこんで捨石になろうとするのが、歌舞伎の中の女たちの生きる道だ。その喜びと、いいようのない悲しみのどちらもが描かれているところまで、「ストリッパー物語」と共通しているといえよう。

 日本人は今も昔も「結果より過程が大事」な民族なのである。成功話より苦労話が好き。そして、「お気楽ハッピーエンド」には、どこかうさんくささを感じる。人生には、きっとどこかに落とし穴があるもので、善人ほどその穴に落ちてしまいやすいことを、私たちは本能的に知っている。もっといえば、そうでなくてはどんな物語も「絵空事」や「おとぎ話」としてしか存在しえないのだ。

 「浪花節」は決してハッピーエンドにならない。手向けられた一輪の花があるだけである。そこにある諦観やウェットな手触りは、一見若者文化とは相入れない。
しかし1970年代の若者は、つかの舞台に「新しい演劇の到来」を感じ、熱狂した。新劇とは違う、村芝居とは違う、伝統芸能とは違う、「彼ら」の演劇として、つかは華々しく登場した。

 だが、当のつかは、確信犯である。「浪花節なんだよ」と、彼はちゃんと言っている。「おれは、弱いものにはやさしい」と。彼は自分が、江戸時代から続く「御正道の裏で、名もなく散って行ったちっぽけな存在、市井の人々にスポットライトをあて、お前にも人生はあった、輝く一瞬があった、死んで泣いてくれる人はいた」を証明する系譜に連なる作家であることを、自覚していたのである。

 その上で、劇画チックな暴力シーンや笑い、絶叫、奇想天外な意識の飛躍、これでもかというほどの差別用語や自虐ネタで過剰に装飾することにより、若者に「浪花節」と気づかせずに、1970年代の若者たちにとっての「僕たちの浪花節」を形成した。

 逆にいえば、歌舞伎の世界でも新作が次々と生まれた江戸時代には、鶴屋南北など、江戸版つかこうへいか、江戸版唐十郎、あるいは江戸版野田秀樹だったかもしれない。歌舞伎が演者の「入れ事(アドリブ)」によって様々に変化し、今の形に定着していることを考えれば、つかの舞台はその観点からも「伝統芝居」を受けついているとさえいえよう。

 つかの舞台の魅力を語るとき、私たちはどうしてもこうした過剰な演出部分や「口立て」という即興性にばかり目を向けがちだ。しかしそれは「演出者・つかこうへい」の遺したものである。ほとんど不可分と思われていた「作家・つかこうへい」が遺したものは何だったのか。今回三浦が演出することで過剰な「つか演出」が取り払われ、本質的な部分がより浮き彫りになったのだと思う。その意味で、三浦大輔は、まことに素直に、直球勝負の演出をしたと思う。

 「Roots」の試みは、「つか演出」と「つか作品」を切り離す絶好の機会となったが、この「ストリッパー物語」自身にも、それを引き出す力があったと思う。つかの、特に初期の作品は、口立てゆえにさまざまに変容し、たくさんのバージョンで演じられたが脚本が残っていないものが多い。そうした中で、これは初期の台本から「ヒモのはなし」などさまざまなバージョンを経て、エッセンスが定番となって積み上がった「改訂版」として一つの形を成してきた。それを考えれば、この作品はその精神性において、つかの手によってすでに普遍性を獲得していたと考えられる。

 もっと踏み込んで言えば、つか作品は、「古典」になったのかもしれない。だからこそ、他の人が演出しても「見た目のつからしさ」を真似ることに汲々とならずともよくなった。今回「Roots」というシリーズの俎上に載り、三浦大輔が先鞭をつけたことで、これからのつか作品は「つかさんみたいに」演出しなければならないという呪縛からようやく解き放たれた。いよいよ、古典への道まっしぐらである。
(2013年7月11日19:00の回観劇)


10.傷つくことが好きな男と女(平井千世)

「東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)」への2件のフィードバック

    1. 早い話が、
      チケットを
      Getするには‼️
      どうしたら
      良い、
      ので、しょうか?
      ちなみにポストを、
      足蹴にした
      ポスターでした。
      が、
      間違いないですか?
      以上。

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