東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)

はじめに

 つかこうへいの没後、上演されるつか作品のほとんどは、つかこうへいなら今の時代と舞台をこう切り結んだだろうという、つか本人や、つかファンに向けてのラブレターのような側面を持っていた。
今回の「ストリッパー物語」は、これまでつか舞台と相性の悪かっただろう2000年代以降の小劇場の観客に向けて、三浦大輔自身が“自分の舞台”として敢えて表現した、若い(と言うべきだろう)演劇人からの、つか作品への珍しいアプローチだ。
その覚悟と自信が巻き起こす熱のようなものは、小さな劇場に確かに存在していた。

 つかこうへいという異才は、その簡素な裸舞台、熱情ともいうべき役者の身体の状態、口立てで紡がれる破天荒な物語、差別構造とその先の希望、ひたすら力技のギャグ、60年代アングラ演劇の後半と交差するように現れたその時代性、後の演劇人へ与えた影響など、とにかく特徴がありすぎて、つい、三浦大輔ではなく、つかについての言葉を重ねてしまう。つか本人やその演出舞台を知っていれば、なおさらだろう。つか没後の作品が、本人へのラブレターのようになる所以だ。

 今回、三浦大輔が慎重に考えたであろう、つかこうへい作品であっても変えるべき点(演出家の解釈を打ち出すところ)、変えてはいけない点(変えるとつか作品でなくなる本質的なところ)は、それぞれどこだったのか、私なりに考察していくことで劇評としたい。
つか本人演出「ストリッパー物語」を私が未見のため、ストーリーについての比較は控えて、主にその構成・演出面、とりわけ舞台上の身体に着目する。

三浦大輔が変えた点

 まず驚いたのが、つか作品なのに声を張らない、観客席に向かっての長台詞が少ない、台詞に間がある、など、一言で言うなら、役者の見かけ上の身体のテンションが低いことだ。
これまで、つか作品は誰が演出しても、あの独特の台詞量と熱のある言葉に導かれるように、役者の身体と発声はきわめて高い緊張度を要求されてきた。
まずはっきりと、“非つか”テンションで構成します、という宣言が為される。
ただ、これは、つか作品だと思って観に行った観客にとっては、なんだこの小さな声はと驚きだったかもしれないが、ポツドールの三浦演出だと思って観た人間にとっては実は馴染みのある、三浦得意の身体表出が採用されていたともいえる。詳しくは後述する。

 次に、舞台上のヒモやストリッパーたちのテンションの低い身体を支えるように、比較的リアリティ度の高い舞台セットが組まれる。従来のつか作品がほぼ裸舞台であったことを考えると、これも異色だ。
観客席に向かって長台詞をぶつけるあの“つか節”がほぼなかったことが、装置の理由の一つだろう。
板の上に、生身の人間が、自分の生活史を背負って、立つ。
劇場入口から並びに並んだ生身の観客の熱狂が、それに向き合う。

 理論立てて演出論を書かなかったつかこうへいだが、つか舞台の根本は、熱と熱との交換ともいうべき、役者と観客席の間のエネルギーのやりとりにある。舞台から客席、客席から舞台の2つしかベクトルがないようなつかの舞台は、現代の小劇場観劇中心の観客にとっては物足りないかもしれない。
その、小劇場中心の観客である私が多少アイロニカルに言うなら、つかの饒舌で過剰な戯曲は、頼る装置も小道具も演劇理論もなく、2時間強、ほぼ裸の状態で生の役者が立ち続けるという緊張感によってぎりぎり成立していたとも言える。
このスリリングな構造がなくても、つか作品が成立すると踏んだ三浦は、慧眼であるという他ない。

 他に三浦演出によって変わった点を付け加えると、劇中で演歌を歌わない。全員での唐突なダンスがない。ここはギャグなのですよというシーンがない。

 まとめると、こう言えるだろう。
構成・演出面でのつかこうへい要素は、ほとんどすべて三浦は変えたのだと。
それはなぜか。
その答えを、私は、つかこうへい自身がかつてインタビューで語っていた言葉から推測したい。
1960年代後半に演劇活動を始め、先行する唐十郎や寺山修二、鈴木忠志をはじめとする60年代アングラ演劇について、つかは後のインタビューでこう語っている。

「(前略)いや、なにも地下にこもることもなければ、そんな苦しいことを観る必要もない、本来演劇というのは、わかりやすく、面白く、楽しいはずのものだったんじゃないのかと思い、自分が観客として、もう、なんの気取りも、見栄もなく、客席に座って素直に喜べる芝居を作ろうと思ったんだよね。説教を聞いているみたいな芝居はやめよう。『芝居は趣向である』『芝居はまず面白くなきゃいけない、楽しくなきゃいけない』と思ったんだ。(後略)」(出典「つかこうへいの新世界」P75メディアート出版)

 今回、三浦大輔もまた、この志向性で作った舞台だったのではないか。
私なりに言えば、“評価を捨てて人気を目指した”つかが、結果的に日本の演劇界の一つの転換点となったように、三浦も今回ストリッパー物語に取り組むとき、つかのそうした志向性を取り入れ、現在の観客の人気を目指したキャスティング、構成・演出にしたのだろう。
一回性の芸術である演劇は、他ジャンル以上に、その生きている時代と呼吸している。
つかこうへいと聞くと連想してしまう舞台演出を模倣する必要はない。本来演劇は、現在の観客が、客席に座って素直に喜べる芝居(ヒモの哀しい話ではあるが)を作ればよいのだ。つかこうへいが先行世代の舞台に対して、そう決意したように。
だからこそ、三浦の演出は不思議と、力みも奇をてらった印象もなく、ただ私たちが見やすい作りになっている。

 壮大なモノローグの連続であるつかの戯曲を、会話体を取り入れながら緻密にひとりずつの人物の人生の機微を描き、あれだけの倒錯した物語を、現在の観客に感情移入させる演出に感心する。
その秘密は何か。
それが、つか演出を捨てたときに代わりに三浦が選択した“刹那的身体”だったのではないか。

脆かった刹那的身体

 ポツドール公演「愛の渦」や「夢の城」などで若者のリアルな生態を描き出すと評判の三浦の演出は、寝転がりながら、や、膝立ちで、という形で移動する身体を舞台上に頻繁に置く。
ダンスとも異なり、その身体表現自体が何かしらの抽象的な概念を含んでいるわけでもなく、ちょっとそこの服を取りに行くというような、単なるだらしのない移動だ。
今作品でも、ヒモの若い二人は楽屋の畳の上に、だらだらと存在し、移動する。
ただ、ぞんざいにそこに存在する身体、仮にそれを刹那的身体、と呼ぶ。
三浦大輔の“刹那的身体”は、そのだらしなさ、寄る辺なさをもってヒモを描くことに成功する。若いヒモが終盤その場所から巣立っていくのも、文字通り、とりあえずの身体だったからだ。

 だからこそ、私が記憶する限り、シゲさんは楽屋の畳の上には上がらなかった。
殴られたり、学生をけしかけたり、肩車の上で覗いたり、水たまりで水泳してみたり、パチンコに逃避したり、市会議員の尻を押したり、ベッド横で付き添ったり、だらしのないはずのシゲさんの身体は舞台上で実は忙しい。行き当たりばったりの生活に見えて、それを維持していくには刹那的な身体では難しい。ヒモ道と彼が称していたのは、その自分の身体の状態のことだったのかもしれない。
貯金箱に小銭を貯めて、いつか明美にこれで小料理屋でも開けと言う、という小さな目的もあった。
だからこそ、シゲさんだけが、明美のヒモでいられた。
それが幸か不幸かはさておき、ヒモ道を貫くシゲさんだけが、刹那的身体とささやかな希望の間でずっと悲鳴を上げていた。

 ストリッパーの身体もまた、三浦の得意な刹那的身体である。
ヒモの身体はまだいいのだ。刹那的である代わりに、美しくある必要も、規範もないからだ。
ストリッパーの身体はまず、直接的にストリップ小屋の客たちを興奮させるという目的を明確に持っている。年をとっても美しく踊る、ということにこだわるが、でもそれはストリップ小屋の客にとって美しいかどうか、なのだ。“本番”の有無ひとつで消し飛んでしまう、あまりにも脆い美しさだ。
そして、踊るダンスの美しさに規範がある。だからこそ、レッスンを重ねてきた若いシゲさんの娘美智子の踊りを目の前にして、その残酷な美の差に、明美も私たち観客も絶句してしまう。

 余談かもしれないが、ストリップ盆踊りなら、まだ救われたのだと思う。
そこには、明確な美の基準がないから。どうせ場末のストリップ小屋を回るのなら、踊り子も観に来る客も、勝ち負けや美醜の境界があやふやなエロスのほうが皆、救われるのではないか。
ヒモだけでなく、美しいのは一瞬であるという意味で、ストリッパーの身体もまた刹那的身体なのだ。
美智子との踊りの対比は、明美の身体の刹那さ、切なさを鮮やかに表現していた。

三浦が変えなかったところ

 では最後に、三浦大輔が、つかこうへいの本質だとみて変えなかった点はどこだろうか。
一言で言うなら、今も、初演の約40年前も変わらぬ、人間が生きていくことの生々しさなのだと思う。
明美が売春へと堕ちていった事実ではなく、その行為中にその市会議員だかの尻をシゲさんがワッセワッセと押すこと、それを笑顔で語ることが生々しいのだ。俺、故郷で結婚しますよ、やっぱシゲさんおかしいですよと啖呵をきったヒモが、数年後あっさりと別れて子供の行方も分からない、という現実が生々しいのだ。

 その意味では、つかの舞台が、その時代の不条理や差別構造から跳躍したファンタジーだったとすれば、三浦の舞台は、つかというファンタジーの中にあった現実の生々しさだけを取り出して、現在の観客につなげる確かな現代劇になっていた。
(2013年7月11日19:00の回観劇)


4.「なるようになる」美学(山田紗希)

「東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)」への2件のフィードバック

    1. 早い話が、
      チケットを
      Getするには‼️
      どうしたら
      良い、
      ので、しょうか?
      ちなみにポストを、
      足蹴にした
      ポスターでした。
      が、
      間違いないですか?
      以上。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください