マームとジプシー「cocoon」

4.記憶のメディア・自分の慟哭 (鉢村優)

 生成りのリネン、白い砂。舞台にかかる白布。厚地の黒が真っ白な世界へ斑に混じる。少女たちは皆、白である。黒は男、そして暴力。あるいは、運命。

 テクノ音楽のように無機質で均等な、しかし淡々と躍動する言葉のリズムに乗せて少女たちの日常が始まる。女学生の人柄や関係性を紹介するシーンが複数の視点から無限に繰りかえされ、舞台上に敷き詰められた白砂の上を登場人物が規則正しく整理された動きで錯綜する。

 無限ループの中で次第に混乱していく時間軸。言葉と動きのテクノミュージックが生み出す「無機質な生命感」は、演出における最も重要な意図の表れである。役者はいまにも血が出るばかりの、リアルな苦しみを生きているのに、不思議な浮遊感が全篇を占める。

 cocoonが包んだ戦争の記憶は、時間も場所も不連続な、完全に独立した時空に再生されている。日本、南の島、季節は夏。戦争の影、そして海。物語の設定すべてが「あの夏」、1945年の沖縄を示していても、夢の中という物語の始まり、無機質な生命感、そして第三者に向けて語られる文体によってcocoonはリアリティに御簾をかけ、普遍性を強く指向している。

 作品の持つ雰囲気がすぐれて洗練され、現代的なことも特筆に価するだろう。軽妙な言葉と動きのリズムはテレビゲームやデジタル映像の動きに通ずるところがあり、平成の雰囲気を湛えている。それはおそらく、浮遊する感覚、実体の不思議な希薄さを提供したひとつの源泉である。

 無機質な生命感と時空の匿名性は、本作が「記憶を運ぶメディア」という在り方を指向したために生まれた特徴であろうか。普遍性、抽象的なアプローチの対極として映画「Passion」を取り上げる前に、この記憶のメディアという概念について整理しておこう。

 Mediaは複数形で、単数形ではmediumである。美術ではアクリルや油といった、顔料の展色材を「メディウム」と称することから推察されるように、何かを媒介するもの、がその原義である。記憶のメディアとは、記憶を媒介するもの。簡便にそのように定義するならば、記憶のメディアは紙やデータ保存用ディスクといったモノに留まらない。

 かつて歴史は国家的な歴史書や公文書に存在するものであった。しかしフランスの歴史学者P・ノラらがその編書「記憶の場」で説くところによれば、歴史の居場所は人間の記憶にこそあるという。脳という人間のデータ保存領域の外にも記憶が存在しうることを指摘した上で、「媒介され、継承される、生きた表象としての集合的な『記憶』にこそ歴史の本体がある」と言う。

 媒介され、継承される、生きた記憶とは何か。それは人から人へ口伝される過去の事柄である。伝達する相手が一人ではなく多数になったものが演劇、音楽、踊りといった再現芸術であると言えよう。記憶を保存した作品は、人を変え、場所を変え上演されることによって、原本である記憶を伝え、再演により新たな記憶を纏う。作品が包んだ記憶は過去に固定されたものではなく、再演されながら不断に時代の空気を吸い込み、普遍性が現代の問題意識とつながる。

 では、cocoonを「記憶のメディア」として読み解くために比較対象を検討しよう。メル・ギブソン監督2004年公開の映画「Passion」はイエス・キリストの磔刑までの12時間を描いた作品である。受難の描写は凄惨を極め、観客の死亡事故まで引き起こしたという。

 カトリックの信者であるメル・ギブソンは受難の実際を描くことでキリストの犠牲のすさまじさ、十字架の救いの圧倒的な大きさを伝えようとした。2000年もの時を隔てて、十字架の救いで自分自身の罪が贖われたと実感することは難しい。聖書が言葉少なに語る受難は、現代にいたるまで、一人ひとりに向けられた犠牲であるとメル・ギブソンは考えた。観客が目撃者として、擬似的に苦しみのときを共体験することによって、「わたし」に向けられたリアリティを掴み、受難と救いに向き合うことを目指したのである。

 制作は徹底してリアリティの実現が目指された。厳しい時代考証と演技指導はもちろん、台本はラテン語で書かれ、役者はアラム語とヘブライ語で語った。公開に際して、英語や他の言語への音声の吹き替えは決して認められなかったという。

 公開当時Passionは教皇庁を含めた大論争を巻き起こし、賛否も大きく分かれた。既に述べたような制作上の志を評価するもの、凄惨すぎる表現が人々に対し有害であるというもの、果ては反ユダヤ主義の問題さえも議論されることとなった。日本においては12歳以下の鑑賞には保護者の同意を求めるというR-12指定で公開された。

 ここで検討したいのはリアリティの表現である。cocoonとPassionは記憶のメディアとしてそれぞれ同じ方向を目指しながら、取った手法は対照的である。

 cocoonは既に述べたように、白黒やイラストを多用した抽象的な舞台美術、平板な言葉のイントネーション、全篇を通して行われる台詞の復唱、第三者への語りという手法によって直接的な生々しさを消すことを狙った。演劇は観客の想像力を引き出す媒介として位置づけられ、記憶の再生は観客のイメージの中で行われているのだ。cocoonは観客の想像力にゆだね、受け手の中で膨らむイメージに雄弁に語らせている。

 例を挙げよう。「がま」と呼ばれる防空壕の中に作られた病院で、女学生は看護の仕事を担うことになる。まず行われるのが負傷した兵士の脚の切断である。医師と思しき男性の緊迫した声が、麻酔なしの処置を告げる。声は戸惑う少女たちを叱りつけ、次の瞬間、チェーンソーの騒音が劇場中に響き渡る。スクリーンには糸ノコギリのイラストが写り、がまのように真っ暗で、冷え切った劇場にはチェーンソーの稼動音、何かを切る鋭く重い音。処置自体のビジュアルな表現や人間の叫び声は無いにも関わらず、あまりにも恐ろしい描写である。

 一方、Passionは2時間もの間ひたすらイエスへの拷問を描く、血も、傷も、何もかもが生々しい。キリスト者ならずとも、目を背けずに観ることは難しいだろう。映像の持つ力が残虐性を強烈に印象付け、ただただ苦しい痛みの印象しか残らない、と観る人もいる。

 この映画を観れば、信仰を持つものは、重い罪の意識と、救いの大きさにひざまずかずにはいられないはずである。しかし、そうでない人々にとっては、残虐性がその印象の大半を占め、作品の本質の受容にまで至らないかもしれない。作品が記憶のメディアとして、過去の出来事とその本質を人に伝え、受け手に何かの作用が起こることを望むならば、あまりにも強すぎる作品の存在感は、かえって作品の主旨をそぐ可能性がある。Passionを巡る論争はそのことを示唆している。

* * * 

 芸術は美しい哲学である。人間とは何か、世界とは何か、生きるとは、愛とは、憎しみとは何か。明確に言葉に同定できない問い、名状しがたい、しかし確信に満ちた答え。もやもやとした問いと、もやもやとした答えを、struggleの過程まで含めて表現するのが芸術である。問いもプロセスも答えも、明晰に言語で記述できるならば、それは学問である。

 芸術が体現する問い、プロセス、答えは極めて多様な姿をとるが、それらは絶対的に美しい。なぜなら問い、思考し、立ち向かうのは人間のみが持つ崇高さそのものだからである。

 その第一義を越えて芸術は多くの力を秘める。そのひとつがこれまで検討してきた記憶のメディアという側面である。記憶を人々のイメージの中で呼吸させ、不断に現代を生きさせること。記憶のメディアとしての在り方は、芸術が社会に負うたひとつの責務でもある。

 cocoonを観て戦争を否定せずにいられる人はいるのだろうか。

 具象性をそぎ落とした演劇は、純粋に受け手の想像力によって発芽し、受け手のイメージの中に、想像力によって育つ。戦争におけるすべての苦しみ、悲しみ、悔しさ、痛み。受け手が想像力をもって実体を与えた「記憶」は、主体的な痛みとして観客の中に根付き、自分自身の慟哭をもたらすのである。
(2013年8月6日19:00の回観劇)

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