キリンバズウカ「マチワビ」

9.それでもマチはワビしい(外行幸)

 鳥取県米子市は鳥取県西部にある人口14.83万 (2010年)の実在の都市です。高齢化率は24.2%。商店街にはシャッターを閉めたままの店も多く見られます。米子で手に入るものはたいてい東京で手に入るか代替が利きます。かつては若い人も多く映画館やゲームセンターも複数ありましたが今は郊外のイオンにしかありません。年配者の語るかつての輝きは今はありません。今後なにかミラクルが起きてピンチを脱するという見込みはありません。実はなにか素晴らしい資源があって、ありふれた街という評価を脱する見込みも今のところありません。最近は萌えを推した町おこしをしていました。目標動員は300万人でしたが、県は途中で目標を撤回しました。理由はお察しください。実動員を調べると悲しくなります。

 キリンバズウカ『マチワビ』はとてもいいファンタジーでした。
起承転結のしっかりしたストーリーに個性の立った登場人物(国分寺大人倶楽部の後藤剛範の、こわもてなのにかわいい先輩ぶりがとても素敵でした)、きれいなハッピーエンドで楽しく見ることができました。
ただ、同時にとてもせつないファンタジーだなと思いました。正確に言うとファンタジーでしかないからせつないのですが。

 この物語には「ありふれている」ということがひとつのキーとしてあります。かつては超能力少女として輝いていたが今は能力を失いありふれた女性の、次女マイコ。ありふれた自分にもやもやを感じ、東京で有名になりたい三女のチエ。本当は超能力を持つが、それを隠している長女のユミコ。この三人を主軸に、東京に挫折したマツウラやマイコに自身を取り戻して欲しいアキなどが絡んで物語は進んでいきます。これだけなら平和です。そういう人たちもいるかな、いるだろうな、と自分とは離して考えることができる。

しかしせつないポイントがここで現れます。ありふれているのはこの「街」もだということです。ありふれているという点で街と人は重ね合わされてしまう。

街がありふれているという問題は個人がありふれているというよりも重たい問題です。「少しずつ寂れゆく街で、抗いながら耐え忍んでいればいつかいいことがある」と個人が信じているのを舞台で観るのはまだいいですが、現実の街と重ねて考えるとこれはちょっと悲愴です。街と人を重ねながら見ると、ユミコに実は特別な能力があるというのも、チエがラストに奇跡を起こすというのも、どこか手放しで楽しめなくなってしまう。現実の街では特別な資源も、一発逆転の奇跡もたいてい望めませんし。実際、このマチワビ内でのお話が終わったあとも、舞台となった沼原の衰退は進んでいくのは変わりないはずです。マチワビでハッピーエンドを迎えるのは人々であって、街ではないのです。

そしてこうした衰退していく街を故郷に持つ自分にはこのお話を楽しいファンタジーとして切り離すのが難しくなります。「自分の街にはこんなふうな一発逆転はないだろうな」と思ってしまうからです。

本当の本当は、街の経済的な衰退と住む人の幸せは関係ないはずではあるのです。「能力があるとかないとか幸せになるためには全然関係ないんだってさ」とは公演フライヤーの裏に書かれたことではありますが、住む場所が東京だとかさびれゆく郊外だとかも本当は関係ない、かつて沼原グリーンランドが開園した日のことがすばらしかったことも「現在」の幸福とは関係ないのだ、と言えるときが来たらまた見方が変わるのかもしれません。

今の自分にはさびれゆく街のせつなさにとらわれた観劇になってしまったな、と思います。
(2013年9月19日19:30の回観劇)

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