9.スグル舞台に立つ!!(中村直樹)
みんなしんでしまった
やさしいやつも
わるいやつも
やさしくてわるいやつも
わるくてやさしいやつも
みんなみんなしんでしまった
2014年4月19日から4月27日まで、東京芸術劇場のシアターイーストで、範宙遊泳の「うまれてないからまだしねない」が上演された。範宙遊泳は2011年の「20年安泰。」で、2012年の「東京福袋」で上演の機会を得ている。そして、ようやく東京芸術劇場で劇団単体での公演となったのだ。
劇場には凸型の黒い舞台が客席から見てT字になるように設置されている。そして大きな白いスクリーンが設置されていて、スクリーンと同じ横幅の白いステージのようなものがしつらえてある。黒と白のコントラストが美しい。そして舞台の凸の上辺辺りに白いプロジェクターが置かれている。そのプロジェクターからスクリーンの底辺の右端、左端に向かって銀色の線が伸びている。それはプロジェクターの光が届く範囲を視覚的に明示しているようである。
客入れの時間はそのスクリーンは二重螺旋や超新星爆発のようなイメージが映し出されている。それは光沢のある舞台にも映り込んで、より広い宇宙的な広がりすら感じさせるのだ。
しばらくして冒頭の言葉がスクリーンに投影された。そしてGoogleMapの目的地を記すようなマークが現れる。それはまるで人間の魂そのものを表しているように感じられた。
あるところに、黒山羊荘というアパートがある。そのアパートには、消防職員の鉄(大橋一輝)と男(福原間)が、女(椎橋綾那)とあいつ(埜本幸良)が、レズビアンのカップルのカオ(伊東沙保)とミサ(熊川ふみ)が、丸山という老人(スクリーン上に老人という文字で表現)と娘(田中美希恵)が住んでいる。そんな黒山羊荘にはゴキブリ(大石将弘)が住み着いている。
なんの変哲もないある日の夜。彼らは彼らの生活を送っている。そんな中、事件が起きた。ポムポ座のランボレーという恒星が急に超新星爆発を起こしたのだ。史上初の天体ショー。人々はそれに酔いしれる。その後、丸山父が丸くなってプカプカと浮かび出したのだ。そしてあいつを追い出した女も急に足から力が抜けて立てなくなる。翌朝、ザァァと雨は降りだした。黒山羊荘の近くの川は水位が危険水域に。消防署に出勤している鉄と出ていったあいつ以外の住人は近くの避難所に逃げる事になった。
出ていったあいつは鉄と出会う。鉄の言う事によると、現実を簡単にねじ曲げる鬼が実在しているらしい。その鬼を倒すため、鉄は活動しているという事だった。そこに現れたゴキブリを鉄は鬼の手先だと決めつけて攻撃する。その行為にあいつは鉄に哀れみを持った。そして状況に流され、鉄の鬼退治に協力する事にした。
避難所にたどり着いた面々は配給に並んでいる。そこに逃げ延びたゴキブリが現れた。鉄はゴキブリを倒そうとするがミサがゴキブリを匿う。ゴキブリを倒そうとするあまり、あいつは避難所の布団に火をつけた。火は消し止められたが、鉄とあいつは追い出されてしまった。
黒山羊荘の面々は死んでいく。その中で鉄はでかい鬼だと言ってトラックに突っ込んでいく。大けがするも、一命を取り留める。あいつは戦車に突っ込んで行き轢かれて死んだ。そこに現れたゴキブリを鉄は叩きのめす。ゴキブリは絶命の寸前、鉄に襲いかかり殴り殺す。丸山は直射日光から逃げようと舞台中央に開いた穴から下へ降りて行こうとする。しかしその手から父親は離れ、どんどんと空を上って行く。
「みさ、ありがとね!」
という言葉を残して。
その物語の合間合間に25年前の世界が挟まれる。夫(波佐谷聡)と妻(名児耶ゆり)が家の中で暮らしている。夫は暗いニュースで気分が暗くなっている。妻は動かなくなったお腹の中の子を心配している。名前はすでに決まっている。ミサという名前が。8月15日、妻は女の子を生んだ。しかし女の子は泣かない。死産だった。女の子の代りに夫と妻はおいおいと泣いた。それから一年後、夫はまた子供を欲した。そして男の子が生まれた。3年後、女の子が生まれた。それから夫は80歳の誕生日を迎えた日に死んだ。妻は83歳の8月14日に死んだ。夫婦の子供達はすくすくと育ち、新たな歴史を作って行く。
風船が舞台中央の穴からぷかぷかと浮かんでくる。
うまれてない
まだうまれてないぞ!
それからあなたは今うまれる。
20日の14時と27日の14時と2回観劇したが、全然違うテイストになっていた。20日の公演では物語性を強く感じた。笑いや説明的な台詞。そして現実から非現実の境界を曖昧にして観客の現実感を損失させてしまう。それは範宙遊泳が元々持っていたものに近かった。面白いのだが、それは範中遊泳の現在のコンセプトである2.5次元演劇とは違うものとなってしまった。役者達の好演が目立ち、プロジェクターで映し出されるものが背景となってしまっていたのだ。それでは他の演劇とかわらないのである。「範宙遊泳展-幼女X
の人生で一番楽しい数時間」内で上演された「幼女X」や「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい」と比べれば力が及んでいない印象を抱かずにはいられなかった。
27日の楽日に二度目の観劇をした時、びっくりした。説明的な台詞がばっさり切られている。そして映像も大幅に手を加えられ、演出も変えられていた。それにより役者達の影がよりスクリーンに映り込んでいた。その役者達の影はスクリーンに映し出された映像や文字と並列になる。その結果、役者達自体も平面となる。そして平面になる事で次元の境界が曖昧になるのである。それで初めて2.5次元演劇となるのである。その体験は観劇というよりも行間を読む読書体験に近いものだ。なので、より読書体験を得られた27日に観たものを中心に20日との比較を含めて書いてみたい。
まず、役者達の好演には目を見張る。その中で特質すべきは大橋一輝と名児耶ゆりである。鉄は物語の中で重要な「キャラクター」である。そのキャラクターを大橋一輝は全身全霊を賭けて熱く演じているのだ。まさに実在するような存在感を発している。世の中を変えてしまう鬼という存在への恨みを実感してしまうほどである。逆に名児耶ゆりは妻という「登場人物」をまさに体現していた。演じたというよりも名児耶ゆりそのものが舞台上にいるような自然体である。この二人が逆ベクトルの演技をする事で、夫婦の世界と黒山羊荘の面々の世界が違うものだと認識させられた。
でも、この二人は20日と27日でそこまで印象が変わらない。一番印象が変わったのは、あいつを演じた埜本幸良である。20日に観た時は、あいつはもっと滑稽だった。彼の一挙手一投足で会場に笑いが起きていたのだ。27日に観た時は、あいつのことをただ笑う事のできない、盲信の怖さというものまで現れており、笑いが起きなかったのだ。
そして演出についてである。特徴的なのは文字の使い方だ。「老人」というゴシック体がスクリーンに投影されている。それに対して田中美希恵が演技する。その事により文字自体が人格を持ち始めるのだ。プカプカと浮かんで笑っている映像が頭の中に浮かんでくる。また、「ザァァ」という文字がスクリーンに投影されている。それで雨を表現しているのだ。
「幼女X」では雨を「雨」という文字で表現していた。それは雨と言うものも文字に落とし込み、まるで小説を読んでいるような印象を得た。今回は雨を「ザァァ」という音で表現することで、漫画のオノマトペ表現のような文字の流れで動きまで表現してしまった。小説の読書体験から漫画の読書体験へ。音はしていないのに音を感じるのである。五感までも操作されてしまったのだ。この点は2.5次元演劇の進化とみてよいだろう。
2.5次元演劇は引き算の産物である。不必要なものを削ぎ落とし、観客自身がイメージを作り出す事で成立する。その引き算は上演中にも行われる。鉄とあいつが泳ぐシーンは20日に上演されたものと、27日に上演されたものには明確な違いがある。20日に上演されたものは違和感のあるものとして例に上げられる登る部分の長い電信柱やふりかけを売る自動販売機の具体的イメージをスクリーンに投影してしまった。それでは投影されたイメージ以上のものが観客の中に生まれないのだ。過剰演出と言ってよいだろう。だからこのイメージをばっさりと取り去った。27日に上演されたものにはそれらがスクリーンに投影されない。波のイメージとザァァという雨音だけがスクリーンに投影されていた。その中を必死におよぐ鉄、あいつ、ゴキブリを役者達が演じる事で、漂流している様を表現したのだ。必死に波間を泳いでいる様は、別の意味がありそうに思えてくるのである。
最後に台詞のブラッシュアップである。20日は戯曲の通りだった。丸山が嫌いなものに「ちゃん」を付ける事でストレスを和らげる話がある。そこをばっさり切ってしまった。それにより、丸山という「キャラクター」が嫌いなものを溜め込んでしまっていることを表現してしまっている。そしてミサは何も語らず死んでしまうように変更した。「キャラクター」の心情を観客に委ねてしまうことで、観客の数だけのミサ像が生まれる事になるのである。
27日に観た「うまれてないからまだしねない」は「幼女X」、「さよなら日本」を越える新たな名作と言っても過言ではないのだ。
さて、この作品は何をしているか。Twitterやブログの感想を読んでみたところ、黒山羊荘の世界は妻の子宮の中だというのがあった。黒山羊荘の面々は生まれる事の無かった卵子、精子なのである。だから黒山羊荘の面々は物語に過ぎないのだ。そしてラストに奈落から登ってくる風船は精子であり、挿入の瞬間なのである。
「うまれてないからまだしねない」は夫婦の話である。作家の夫は現実に耐えるために物語を欲しているのである。だから、黒山羊荘の面々は「幼女X」よりも「さよなら日本」よりも「物語的」である必要があったのだ。そして、その物語を欲している姿は山本自身に繋がるのである。そういえば、夫を演じた波佐谷聡はどことなく山本と似ている。つまり今の山本卓卓のありのままを舞台上に晒したのだ。いや山本卓卓はようやく現実に生まれでたのだ。
これは山本の覚悟である。世の中と戦っていくという決意表明なのである。これからの範宙遊泳。もっともっと先鋭的な作品を作るに違いない。
「どんな作品を作ってくるのだろう?」
この先が楽しみでしょうがないのである。
(2014年20日と27日、いずれも14:00の回観劇)