範宙遊泳「うまれてないからまだしねない」

10.…これは新たな「創世記」か?(小池正之)

 評判の集団の一本と聞いて、楽しみに池袋まで出かけた。2時間しっかりと楽しませてもらった。これは新しい「創世記」ではないか。そう思った。
 本家本元の創世記では、世界は神様によってつくられた一組の男女によって始まる。つづいて二人から生まれた家族のことが延々と語られる。世界とは家族であったわけだ。一時「世界」ではなく「セカイ」という言い方がされたことがあった。「セカイ」には、自分たちは世界の中心に近づくことは決してできない。自分たちは世界の周縁にたたずむことしかできないという無力感があった。
 この作品では、その無力感が頂点に達したところからこの世の成り立ちが語られ始める。破壊の後にこの世の成り立ちと未来が語られる。きわめて小さく語りはじめられた物語が、いつしか普遍的な死生観につながっていくのである。まずここに感銘を受けた。重厚なドラマ展開はないが、自分たちはどこから来たのかと言う問いかけがなされていると感じた。

人物、および場面の設定について

 この劇の登場人物に共通することがある。不安を感じながら愛しあう女たち(ミサとカオ)、自分の人生を棒に振ったと思いながら介護する女(丸山)、フリーターと思われる男、ゴキブリ、そして行政にも見放されている様子の避難所の人々。みな、世界の中心から離れている。残酷な言葉でいえば「いなくていい人」たちである。作者の人物設定・場面設定は徹底している。さらにそんな人に「本性が腐っている」とか「いろんなことを犠牲にしてきた」と言う言葉を吐かせている。誰も自信を持つことができない。
 唯一自信を持っているのは、生きる意志のみで行動しているゴキブリである。この対比は巧みだ。ゴキブリが生きるために必死になると、おかしみを誘い笑いが起きる。するとその笑いは、そこにたたずむ人間の存在の薄さを浮かび上がらせるという仕掛けになっている。
 「あいつ」は人間とゴキブリの間を行き来している。「何も考えない」ことでゴキブリの存在に近づこうとするが、そこまでの割り切りはできない。最後に割り切ることはできたが、それは死ぬ時であった。自分にとっては解脱でも、ゴキブリの死と大差はないほど軽い死であった。

 ありえない設定であっても、それを納得させることができれば作者の勝利である。超新星の爆発で地球のバランスが崩れ破壊へと向かうという設定は荒唐無稽である。老人が宙に浮くという設定も唐突であるし無理がある(ブニュエルにそんな設定があったような気がする)。しかし人物の配置とそのやり取りできちんと物語を作り上げているため、観客はその設定にはめられ、まあいいかと付き合い始める。そして登場人物と一緒に破滅を味わい、老人が宙に浮くことを受け入れる。けれど、この破滅にはなぜか悲壮感がない。なぜなのだろう。
 それは、前半で書いてきたように登場人物のほぼすべてが、自分が生きていることをあまり評価していず、困難な状況になるにしたがって生きるのが面倒くさくなってしまうからではないか。実際、運命に抵抗するのでもなく、また従容として受け入れるのでもなく、面倒くさくなってしまうというのは、そんなものなのかもしれない。いや、生きるのが面倒くさくなってしまうくらいだから滅びるということなのだろう。ここはドラマ作りとしては甘いところだろう。めんどくさければ滅んでいいのか。そもそも生きるのにめんどくさがっていては演劇は成立しない。

 さらにそこと対置されているのが、これからの世界を生む男女である。ミサはこの二人の子であるらしい。こちらは二人だけのごく私的な世界である。
 滅びの世界の人たちは優しく相手の言葉を受け入れてゆくのに対して、こちらの世界は二人の想いの違いを描くことが中心である。男は言葉が多いのだがその言葉は相手に伝わらず、ミサが成人するころには存在感がなくなっているようだ。いわゆる存在感のない父親かと思いたいのだが、そう簡単に片づけられない何かがありそうだ。女は男の言葉が信じられない、そして自分の意思を貫き通そうとする。
 この二人は避難所の人々との関係は何なのか。ミサを生んだ二人らしいのだが、それにしてもなぜ登場しているのか。なかなかこの答えが見えてこない。このサスペンスは避難所の人々の物語が死に絶えるところで明らかになる。

そうだったのかという結末

 一時間半が過ぎたころから、「いったい後の物語をどう終わらせるつもりなのか?」と言う期待感が強まった。避難所の人々が死んでゆく場面の最後で、丸山の名前もミサであったことがわかる。するとミサが二人なのか。いやこれは、人間一般のことを指しているのか。ここで見るものはひどく揺さぶられる。
 さらにたたみかけるようにミサがこの世に生まれてこなかった人物であることが告げられる。冒頭の「昨日からこの子は動かない」に呼応するものだ。さらに、この劇の題名が「うまれていないからまだしねない」であったことが思い出されてくる。謎が一気に解き明かされ、二人の平穏な生と死で見るものを静かに着地させてくれる。自分は「今のお前たちの生はたくさんの死の上に成り立っているのだ」と言うことだと受け取ったが、様々な感銘をここで与えることができたのではないか。

 この話は「セカイノハジマリ」であり「セカイノオワリ」でもある。この二つは表と裏であり始まりは終りであり、終りは始まりである。始まりと終りはループ構造となり何度も何度も繰り返される。いったいこのループからどうやって抜け出すのか。これは輪廻転生という古くて新しいテーマである。ごく小さな世界を描くことから始まった物語が人間が何千年付き合ってきたテーマに収斂してゆく。自分たちは世界の周辺にいるという意識から、それが今だけではなく何度も何度も繰り返されているという世界観へ向かっている。今の自分に満足がいかないというだけの「自分探し」から何とか抜け出そうという気持ちがうかがえないだろうか。

道行と言う芸と身体性

 この劇は左右、前後に伸びる通路で演じられている。この世界はとどまるところではなく、通過するところである。いわば、歩くことで世界と関係性を描写する「道行」と言う形を使っている。
 歩くことと障害があって歩くことができないこと(酔い、雨、自律神経系と思われる下肢の障害、体調、渋滞、背負っている人物の重さ、せき込み)を効果的に使い、狭い舞台での動きに説得力を持たせている。動きを作ると同時に、動けない理由を作ることは太田省吾さんがやってきたことであるけれど、決して抽象的にならずに一つ一つの動きをストイックなまでに大切にしている。大げさな動きはなくいかに小さな動きで静かに劇を作り上げてゆくかという方法に対する確信があるように思う。よくある劇のようでかなりの身体訓練がなされているのではないだろうか。

 抑制された動きの中にきちんとトリックスターを配置するサービスも忘れていない。ゴキブリである。動きが抑制されたものであるのにかかわらず笑いを作り上げているのだ。物語が巧みに構成されているうえに、身体性もその物語を支えるべくストイックに組み立てられているように思う。
 二組の道行が最後で交錯し、死を越え未来を生み出している。

スクリーンと言う武器

 この劇団の特徴はスクリーンに映し出される文字だと聞いていた。最初、これはちょっとうるさいかな、と思ったがそんなことはなかった。老人を出さずに「老人」という文字で人物を作っているのはご愛嬌か。改めて台本を見ると文字の量は決して過剰ではない。背景としての文字と、台詞と関連する意味を持った文字とが使い分けられているからだろう。
 この劇団のほかの出し物を見たことがないからわからないが、状況説明を省いて「道行」に集中させる良い方法だと思う。「道行」に集中するならばどこからどこを通っているのかと言うことは説明しなければならない。それがスクリーンによって多少突き放された感じでなされている。また、声に出して言えばかなり高まった物言いになる部分があえてスクリーンのセリフになっている部分も多いように感じる。

 これは映画の字幕なのだ、劇中の人物もまた映画を見ているのである。と同時に映画の中の人物である。観客であるから映画の設定を変えることはできないし、字幕を変えることもできない。そして同時に映画の登場人物であるから映画の設定に従って生きそして「しななければ」ならない。
 このスクリーン効果はこのように登場人物の観客でもあり役者でもあるという二面性を浮かび上がらせる仕掛けになっているのである。しかし逆に文字は自分をも切りつける。文字はしょせん文字でそれをきっかけとして全身で表現することが深い感動につながる。ここに関しては分かりやすさをとった反面、深さにはたどり着けていないという弱点はなかったか。

 このすぐ後に『範宙遊泳』はマレーシアで共同制作を行うそうである。すぐれた集団は国境を越えて広がってゆく。マレーシアの人たちにこの集団はどう受け入れられてゆくのだろうか。文字と言うわかりやすさは異文化の中では足かせとなる。ただ存在の不安。輪廻転生と言うテーマは伝わってゆくだろう。スクリーンもいいが、脚本の力と役者の力でマレーシアの人たちの共感を勝ち取ってほしいと思う。その力は持っている一本だと感じた。
(2014年4月26日19:30の回観劇)