15.人間って生まれたり生きたり死んだりする(関島弥生)
範宙遊泳「うまれて ないから まだ しねない」の初日を観劇して。
範宙遊泳は劇団名。読みは、はんちゅうゆうえい。
範疇遊泳ではない。範疇に入らない範宙。Twitterやネット上でなどでたまに範疇遊泳と見るとどうもうつむいてしまい、くふふと苦笑い。
作・演出は山本卓卓さん。やまもとすぐるさんとお読みする。私は、たくたくさんと呼んでいます。
山本卓卓さんは1987年生まれで山梨県の出身。
私も山梨生まれ山梨育ち東京在住なのでたいへんに親近感がある。
山梨県の人口は約84万人で世田谷区とほぼ同じ。東京で山梨県出身者と出会うと、そして演劇人で山梨県出身者を見つけるとその稀少性にかなりわくわくする。山梨愛。
山本卓卓さんは、山梨県立日川高校演劇部で作、演出など。2004年度には「部屋」という創作戯曲で関東大会に進出。私が唯一観劇した高校演劇「全校ワックス」が全国大会に出場した頃のことで私にはイメージがつきやすく。
その後、桜美林大学に進学し、2007年、範宙遊泳を発足。
2010年には第六回公演「山梨」を桜美林大学プルヌスホールで公演。公演に合わせて、範宙遊泳 郷土物語宣言第一弾「山梨」公式ブログも開設。ほうとうパーティをしたなどと記述あり。
2012年には山梨県高校演劇講習会の講師を務める。山梨愛。
で、今までの公演のタイトルを見ていたら、「山梨」をはじめ、「東京アメリカ」とか「地底東京の〜」とか「うさ子のいえ」とか「ガニメデ〜」とか「さよなら日本〜」とか場所を表す言葉が多いと思った。自分が今いる場所、いようとしている場所が芝居になるということか。
2013年12月には山形県新庄市で「演劇で架空の街をつくろう」というワークショップをやっている。やはり、街。やはり、場所であった。しかも、地方都市。東京だけでなく地方にも心を向けているところ。今いる場所だけでない場所から吸収するものがありそうな気配。
私が初めて範宙遊泳の芝居を観たのは2013年2月、新宿眼科画廊での「範宙遊泳展-幼女Xの人生で一番楽しい数時間」(第十四回公演)。新宿眼科画廊の地下スペースを2つに分け、1部は入り口付近で山本卓卓さんの一人芝居。開場中からパフォーマンスをしていた。なんか映像で雨が降っていたような。うろ覚え。すまん。で、2部は観客が移動して(布をくぐった覚えがある)、なんか恋の話?女の子の話? 役者が3人くらいだったような。これも映像があって壁に字が映ってたような。うろ覚え。すまん。でもなんかハッとした新鮮さがあっておもしろかった感じがある。山本卓卓さんは男前だった。これはうろ覚えじゃない。
で、今回「うまれて ないから まだ しねない」公演が私には二度目の範宙遊泳。
東京芸術劇場シアターイースト(エスカレーターで地下に降りたら左側のほう)。
舞台奥には大きな白いスクリーン。大きな、は思った以上に大きな、ということ。
開場中から映像が映し出されている。青やグレーやオレンジや黄色の丸。スクリーンのすぐ手前には台。台?台。台というか一段高くなっているところ。後でアパートの2階部分にもなるってことがわかってくる。舞台の表面はなんだか光っている。ファッションショーのようなエプロンステージ、張り出しがある。他に大きなセットはない。潔く舞台が広がっている。
電子音の客入れ音楽。そして静かに芝居が始まるわけである。
雨が降っている。ザアザア降っている。
文字がスクリーンに浮き出る。よく見える大きな文字。文字はゴシック体。
スクリーンには役者の影も映る。それは実際の役者(=人間)より何倍も大きく映る。
その影はシャープでくっきりしてるというか。文字の映像。老人を老人と文字で表したり。みんなしんでしまった、という文字が出てきたり。
役者はセリフを言いながらそのリズムとも雰囲気とも違う動きをする。日常的なセリフとふだんの生活ではしない動き。タップダンスみたいな動き。スローモーションのような動き。口ではリアルなことを言い、体は不自然に動いている。役者がセリフを言い、映像でト書きが出る。ふだん目にすることのないト書きが出てきて説明させるのはにやっとするようなおもしろさ。
黒山羊荘というアパートがあってそこの住人の話のようなんだなと思う。
ビアンのカップルがいたり、ストレートのカップルがいたり、友達が居候してたり、おじいちゃんがいるように娘さんが動くのでおじいちゃんがいるのがわかったり、ゴキブリがいたり。
住人の紹介をしながらある日になっていく。ある日のこと。みどりの光が見えた。
どうやら星が爆発したらしい。ポムポ座ランポレー。また、場所だ。特定された場所。しかし、架空の。架空の街。架空の星。
で、ザアザア降っていた雨がやまずに、大雨になってくる。
川が氾濫する。避難命令が出る。それぞれの避難の仕方。
おなかが痛くて具合がわるくて一人暮らしだから助けてくれる人も他にいなくて、窮余の策で救急車を呼ぼうと119番したら、クイズを出されて、答えられなかったから救急車は来てもらえなかった。救急車クイズ。ちょっとした絶望感。
助かりたくて、プライドは捨てて、と叫ぶ。捨てたプライドは応援するから、とも。
いろいろな方法でアパートの人たちが次々と公共施設らしいところ(公民館?)に避難してくる。老人が浮き上がる世界になったり、会話がおもしろかったりして笑いも出る。
声の大きさもなんだかちょうどよく心地いい感じがする。その世界に身を委ねる感じが私にも出てきてる。ゆったりとしてその世界を楽しむ気持ちにだんだんとなってくる。
アパートの住人のような違う街の人のような夫婦がいる。チャンネルをひねるという言い回しに、(ん?今時ひねる?ひねるとな?)と思う私。妻にはおなかの中に子どもがいるようないないような。名前は男なら勇気、女なら美砂、ともう考えている。
未来のことばかり考えるのは視野を狭くする。といっていさかいがあったり。
アパートの住人と夫婦の時間軸がややこやで、ミサもひとり、またひとりと出てくるのだが、ミサがいつのミサなのかどのミサなのかがわからなかったのがだんだんとつながっていく。
「どうでもいい。めんどうくさい。もうどうだっていい。流されたほうがラク。ミサ。すみませぬ。
今を生きる私たちに失礼。9人行列。てつさん。ゴキブリ鬼退治。浮いて笑っている。
ゴキブリが沖縄。一文字だけの男。嘘は魔法。どうせしぬ命をどうしてうむんだろう。
おもしろい。人がつく。どっちがほんと?こっち。うまれて ないから まだ しねない という文字。 セリフにない言葉がスクリーンに。第三者からのメッセージ。美砂、ありがとうね。」というメモ。
自分で書いたのになんだかよく覚えてない。不思議。メモから何か浮かんでくるといいけども。
どうせしぬ命をどうしてうむんだろう。
生んだらわかるよ。しぬまでにはけっこうな時間があるのだもの。今までの自分の楽しかったことを考えた。妊娠してたときのことも考えた。子育てしてる時のことも考えた。息子の顔が浮かんだ。舞台上で起きたことや発せられたセリフからいろんなことを考える。脳みそフル回転である。
みどりの光を浴びた人はだんだんと弱ってしんでいく。その弱り方。弱っていく時の気持ち。しに方。しに方の選び方。誰としぬか。誰と生きるか。
うまれてないから、というのは実際に母のおなかから出てきてないということとまだ自分の思うような自分になってないということと大人になってないということとまだ認められてないんだということといろいろな思いがあるのかなと思った。
だからまだしねない。寿命きてないし。「わたしの中にはまだまだほんとうの自分、わたしが認めた自分がうまれてない」という気持ち。「だからまだしなない」という気持ち。
舞台上に役者がいて役者の影がスクリーンに映っていて、床も鏡のようなので床にも姿が映る。一人の体からまたいくつもの体が現れるわけである。しかし、私の右斜め前に茶髪ゆるふわパーマのおにいちゃんがいて、ふだんなら茶髪ゆるふわパーマのかわい子ちゃん(後ろ姿推定)はむしろ好きなほうだが、この時ばかりは(ちっ、見えねーよ。頭、下がれ。背、縮め!)と毒づいていた。床に映る影がよく見えなくてそこが味わえなかったのは何とも残念なことであった。
人の大きな影と文字とスローモーションの動きと、人間って生まれたり生きたり死んだりするんだよなあと思いながらきりっとしたり(「わたしはまだうまれてない」という気持ち)、ふわっとしたり(「まだしなない」という気持ち)、そういう気持ちになった公演でした。そこが思い出。あとはあんまり覚えてない。
(2014年4月19日19:00の回観劇)