範宙遊泳「うまれてないからまだしねない」

1.暗い世界では、明るい死が救いになる。(米川青馬)

 今こそ日本を変える「坂本龍馬」が必要だという人がいるが、どうも腑に落ちない。今の世の中に、龍馬が必要とは思えない。それより求められているのは、例えば法然や親鸞ではないだろうか。

 一言で言えば、今の日本には、国力の低下や日本・世界の混乱と終末に対する不安が満ちている。日本はすでに人口減少と少子高齢化の時代に入っており、国家経済は長期的に縮小していくだろう。日本が借金で破産することさえ十分に考えられる状況だ。世界を眺めれば環境問題が差し迫っており、それが原因で日本にも異常気候が頻発している。世界的には人口増が大きな問題となっていて、食料や資源の高騰が懸念されている。尖閣諸島問題も竹島問題も食料・資源が一つの大きな原因だ。そのために最悪、日本が戦争に巻き込まれる恐れもある。

 それから、いつまた天変地異が起こるとも限らない。資源問題と環境問題と経済効率のことを考えると原発再稼働に傾くのだろうが、一方で、今や全国民が心のどこかで原発を怖いものと思っているだろう。東日本大震災の記憶を簡単に拭えるわけがない。

 そのような社会に必要なのは、龍馬などがもたらしたような劇的な革命よりも、例えばかつて法然や親鸞などが用意した末法思想や念仏などのような「不安を解消する方法」ではないか。

 その方法の1つに、「終末を考えるための物語」がある。終末を煽るのではなく、万が一の時に備えて事前に各自が考えておくためのツール。あるいは偽の終末を見破るための訓練だ。考えることで各自少しずつ不安を解消するのが、おそらく不安に対抗する最良の方法の1つだろう。『うまれてないからまだしねない』は、そのための芝居という印象が強い。

 しりあがり寿に『方舟』というマンガがある。地球にひたすら雨が降り続け、地上がすべて沈没してしまい、全人類、全生物が滅びるというストーリーだ。もちろん、ノアの方舟が背景にある。本作も、前半は同じように雨が降り続け、近くの川が洪水になる。それだけでなく、星の爆発が起こり、どうやら人に害を及ぼす「何か」が降り注ぐ。この「何か」は、確実に放射能を連想させる。洪水とともに、3.11がモチーフになっていることは明らかだ。「何か」によって、登場人物のうち、少なくとも7人と1匹が死ぬ。洪水は西洋的でもあるが、基本的には極めて現代日本的な終末物語である。

 この話で最も重要なのは、「実は世界が滅びていない」ことではないかと思う。メインストーリー(7人と1匹が死ぬ世界)に登場するミサ(熊川ふみ)には、父(波佐谷聡)と母(名児耶ゆり)がいる。しかし、サブストーリーとして進行する「25年前の父と母の世界」では、母はミサを死産しており、さらに父と母は2人とも80歳以上生きる。つまり、この物語では「7人と1匹が死ぬ世界」と「父と母の世界」の2つがパラレルワールドになっており、父と母の世界では、7人と1匹が死ぬ世界とは違って、多くの人が死ぬ事態にはなっていない。星が爆発したのは、「ミサ」が生まれていたと仮定された世界だけなのだ。仮定だからこそ、「うまれてないからまだしねない」のである。

 つまり、超新星爆発や洪水はあくまでも仮定なのだ。お芝居そのものがそもそも仮定だが、その中でさらに仮定されている。そのメッセージは、「万が一来るかもしれない終末に向けて、心と頭の準備をしませんか」ということではないか。作者・山本卓卓は「終末を一緒に考えましょう」と言っているのだと思う。これはそのための「仮定の終末物語」だ。

 終末を考えるための素材として、山本は現代的な問題をいくつか用意し、登場人物たちに託している。まず差別問題の代表として、ミサとカオ(伊東沙保)のレズビアンカップルがいる。彼女たちは物語上、性的少数者として差別されることはないが、特にミサが少数者であることに悩んでいるのは物語の端々に示される。例えばミサは自らの死の間際、すでに死んだカオに、「これで一生二人でいたことになるね」という。死を甘美なものとして受け入れるのは、現実が辛いからだろう。

 高齢者問題を託されているのは、老人と娘の丸山(田中美希恵)だ。老人は映像の文字として出演するのだが、常に浮いている。日本中の老人が同じように浮いているのだという。これは高齢者問題のメタファーに違いない。この先、老人がどんどん軽く扱われるようになるのではないかという不安もまた、現代日本の大きな問題だろう。

 男(福原冠)と女(椎橋綾那)は今どきの若者の代表だ。2人ともゲーマーで体が弱く、真っ先に体調を崩す。鉄(大橋一輝)は「ドン・キホーテ」であり、狂信者である。世の中には「鬼」がいると信じ、鬼退治に向かっている。鉄が体現するのは宗教や戦争の問題だ。宗教はもちろん、戦争も狂信と共にある。あいつ(埜本幸良)はいつの間にか鉄の子分にされてしまう。最後までまともだが、最後には戦車に突進して死んでしまう。彼は、戦争の時、否応なく兵士にされてしまう人々を代表しているのだろう。

 なお、もう1匹の登場者のゴキブリ(大石将弘)は、登場人物をつなぐ外部的存在だ。ゴキブリだけは、強い生命力があるから星の爆発による影響を受けず、人と違って死なない。外部的存在だから、周縁的存在(レズビアン)であるミサにとっては仲間だが、人々の中心に立とうとして仮想敵を求める鉄にとっては、敵として考えるための絶好の存在である。

 もう1つ提示されている重大な問題は、ストーリーの中で洪水を起こした川そのものが、実は「なかった」ということだ。「ある」と言われていたものが「なかった」こと、世の中にはけっこう多い。記憶に新しいのはSTAP細胞や佐村河内事件だが、考えていけばいくらでもある。最新では薬剤耐性菌の問題だ。抗生物質はあらゆる菌に利く、と思われてきたが、実は利かない菌があると近頃WHOが正式に発表した。

 「ある」が「なかった」ことは、様々な権威を失墜させる。例えばSTAP細胞の件で、おそらく多くの人が感じたのは「科学ですら鵜呑みにはできない」ということだろう。信頼できない情報がたくさんあるという事実。これは情報過多の時代で、かなり大きな不安の原因になる。このことは、新興宗教やネトウヨなど、さまざまな問題につながっている。鉄のように何かを信じている方が生きる方が楽なのだ。

 最後に強調したいのは、死の問題である。面白かったのは、死があっけらかんと明るくプラスなものとして描かれていたことだ。ミサは死を甘美と考えて死んでいくし、老人は「ありがとね!」と言って空へ消えていく。男と女はゲーム中に死ぬのが本望だったように見えるし、あいつは最後に何か悟りを開いたらしい。鉄ですら、最後に「鬼」を倒し、目的を果たしてから死んだ。

 明るい死ばかりが描かれたことに抵抗のある人はいるだろう。確かに、そこには若者の甘さがあるかもしれない。死を知らなすぎる、あるいは死を軽く扱いすぎていることは批判に値することかもしれない。もっと痛くて苦しくて悲惨な死が世の中にはたくさんあるのだから、それを抜きに死を考えるのはあまりにも緩いのではないかという向きもあるだろう。確かにその側面はある。否定するつもりはない。

 しかし個人的には、明るい死は、平安時代の末法思想に繋がっていて興味深かった。末法思想が流行った平安時代などでは、暗いこの世から早く去り、明るいあの世に行きたいと願う人が多かった。彼らに対し、法然や親鸞などは念仏を唱えれば救われると言った。『うまれてないからまだしねない』では念仏こそ出て来ないものの、死が単なる「1つの物語の終わり」として描かれていた。結末さえ良ければ、死は別に悪いものではないという見方が徹底されていた。この見方は、おそらく平安以来ずっと日本人に身近なものだ。昔からよく老人たちが「コロっと死にたい」というのを耳にしてきた。今や「ピンピンコロリ」という言葉も流行っている。日本の老人たちは、周りに迷惑をかけるような「物語の結末」は望まない。コロッと死ねたら本望なのだ。その考え、よくわかる。きっと自分も老いたらそう考えるだろうと思う。

 結局、人間は「物語のかたまり」なのである。そう考えれば、意外と気は楽になる。どんなに世界がひどくても、自分の物語を明るく閉じることができれば、それほど悪い人生ではない。そう考えるのは、決して不謹慎なことではないだろう。特に、大変な世の中になった時、そのような考え方は人の心をきっと少しは軽くするはずだ。

 最後に、映像効果について、少しだけ付け加えたい。「2.5次元演劇」というキャッチフレーズの割に、映像の使い方やデザインなどはオーソドックスだったように思う。全体的に物語の「軽さ」「ゆるさ」を醸し出すのに役立っていたとは思うし、あいつのセリフが画面に出てしまう仕掛けなどは「舞台+映像」でなければできないことで、素晴らしいアイデアだと感じたが、例えば雨が「ザーッ」という文字で表現される点などは、グラフィックデザインの世界では物珍しいものではない。また、フォントの選び方など、デザインの工夫の余地はあるようにも感じた。今後の「舞台+映像」の進化が楽しみである。
(2014年4月20日14:00の回観劇)