3.「範疇」ではなく≪範宙≫です(寺谷篤人)
全盛期のイチローでさえ五割以下の打率に甘んじたことを鑑みれば、世に溢れる様々な諸々にすべからく当たりハズレが付きまとうという現実も受容されてしかるべきなのかもしれない。ある政治家の居眠り姿が国会中継にバッチリ映し出されたり、もしくは単なるブスがアイドルを名乗っていたりするように、小劇場に足を運んだ際にも、ガッカリすることはある。
劇は時々、失敗する。その条件を列挙するには文字数が足りず、ここでは割愛するとして、一つだけ直近の例を挙げよう。先日私はある芝居を観に行き、とてもつまらなく感じた。その原因はずばり物語である。劇団名が特定されないかぎりで劇の内容を具体的に述べると、平凡な男子高校生が主人公に据えられ、彼は男女交えた何人かの友だちグループに所属しており、そこで部活や恋愛に絡んで色んな問題が起こっては解決し、その合間に流行のJ-POPに乗せたダンスシーンを挟みつつの、いわゆる青春群像劇だったのだが、そんなものはテレビドラマか映画でやれよ、と席を立つまで私は歯ぎしりを止められなかった。
ベタを否定するつもりはない。青春の暑苦しさにだって乗り切れない歳でもない。問題はそうした物語がとりわけメジャー志向に分類される映像作品に多く採用されていることだ。キラキラした作品は笑顔の眩しい旬の俳優、女優、そして予算をたっぷりかけて出来上がった美しい映像によって作られるべきだし、私たちはそういう物を見慣れている。また語弊を恐れずに言えば小劇場は貧しい。予算は比較にならないし、そもそも舞台空間が決定的に限定されている。役者の華も、映像界にアイドル上がりやモデル崩れが跋扈することを考えれば、保証できるものではない。したがってテレビドラマや映画で頻繁に目にする類の物語をうかつに上演してしまえば小劇場の貧乏臭さを際立たせるばかりなのである。
つまり件の劇を上演した劇作家は、扱うべき物語のカテゴリーを間違えた、と言える。映像の範疇にあるべきものを小劇場の舞台上に載せてしまった。そのため物語は貧乏臭い範疇に留まらざるをえず、当然の結果として劇は失敗した。
ここで逆を考える。劇の失敗する理由が、物語のカテゴリーにおける選択ミスなら、成功する理由も同じはずだ。言うなれば、いかなる物語が範疇を脱出できるのか。それは観客の想像力を刺激するものであろう。マッチ売りの少女が自ら灯した小さな火の向こうに、暖かいストーブや贅沢なごちそうや立派なクリスマスツリーを見出したのはなぜか。それは彼女が貧しいからだ。素敵な冬を過ごすための財産など何一つ持ち合わせなかったからこそ想像力で無を補ったのだ。同様のことは劇場でも行われている。役者が背伸びでもして一言、今日はピクニック日和だなあ、と言えば、たとえ空っぽの舞台でも、そこは行楽に相応しい山の中、ということになる。この時、物語はむしろ貧しさをバネに想像力という揚力を得て、貧乏臭さの範疇から跳び出していける。
もちろん実際に私が芝居を観に行き、前述のようなシーンを目の当たりにしたら、決して愉快な気分にはならないだろう。おいおい、またハズレか、と不安になってしまう。言うまでもなく山中の風景描写として稚拙すぎるからであり、主張自体は的を得ているはずだ。
いわば、小劇場において物語は貧乏臭さの範疇を脱出する必要がある。手法は劇作家の数だけ存在する。ある者は速射砲のごとき言葉遊びで、ある者は圧倒的な運動量で、ある者は計算し尽くしたプロットで、それを実現してきた。そして、また一人の劇作家が、新たな手法を発見した。範宙遊泳を主宰する山本卓卓である。
私が彼の作品のうち観ることができているものは今作『うまれてないからまだしねない』と前作『さよなら日本—瞑想のまま眠りたい—』、前々作『幼女x』に過ぎないが、少なくともその三点における制作姿勢はまさに劇団名を体現している。舞台上にスクリーンとプロジェクターを導入したことによって彼は劇に文字を取り込み、文字の連なりから文学性やゲーム性を取り込み、あるいは写真や映像を取り込んだ。中でも存在感を放つのが、光を浴びた役者の背後に生まれるシルエットであろう。光源との距離によって登場人物を時に巨大化し、時に矮小化するその仕掛けは影絵のようにユーモラスで、前作では呪い、前々作では連続幼女強姦殺人というダークなモチーフをメインに扱いながら、遊び心のある雰囲気で作品全体をポップにまとめ上げた。一つの「範疇」に囚われることなく、いくつかをまたいで「遊」び半分に「泳」いでみせる。それが範宙遊泳だ。
今作『うまれてないからまだしねない』も複数のエッセンスを含んでおり、「終末」、「格差」、「洗脳」など枚挙に暇がないので、ここで言及する対象は二つ、「ゆるいSF」と「ベタな葛藤」に絞りたいと思う。
『うまれてないからまだしねない』の物語は二つの設定で展開される。一つはおそらく現代、男女八名の入居者を数えるアパート「第3黒山羊荘」、もう一つは第一子の出産を間近に控えた夫婦が存在する過去「にじゅうごねんまえ」である。
ベースとなるのは前者だ。ある日、夜空に突如出現した緑色の星が爆発する。地上には同色の光線が降り注ぎ、その時点から世界は徐々に歪み始める。現代においてさほど珍しくないだろうが、第3黒山羊荘の合計四室ある部屋の一室ではオタク気味の青年と消防士が、痴呆症の老人とその娘が、浮気からなし崩し的に同棲中の男女が、美人のレズビアンのカップルが暮らしているものの互いに交流はない。唯一全員を知るのが建物の隅々を這いながら生きるゴキブリで、彼を語り手にして、異常事態をきっかけに住人たちが交流していく様子が描かれる。しかしそこに緊迫感を感じ取ることは難しい。なぜなら例えば劇団イキウメが得意にしているような堅実な世界観の構築がほとんどなされないからだ。あくまで私たちの生きる日常に近い世界に、降って沸いた超新星爆発をはじめとして、老人が風船になって宙に浮いたり、自動販売機に缶ジュースの代わりにふりかけが置かれたり、絵空事じみた出来事が立て続けに発生する。したがって私はこの設定を「ゆるいSF」と名付ける。
後者に話を移そう。まずは臨月を迎えた妻が夫と何気ないやり取りを交わす場面から始まる。テレビが流すバラエティ番組を観て、妻は大きなお腹を抱えるようにして笑い、破水を心配してチャンネルを変えようとした夫に不平をこぼす。ところが内心では自身の胎内に何らかの異変が起きていることを悟りつつあり、つまり表面上、平静を装っている。以降、妊娠前や出産直前など場面ごとに時空を転々としながら、前者に挿入されていく。後者において描かれるものを一言で述べると命への期待になるだろう。もっとも夫婦が別段、我が子を授かったことに歓喜する場面は見られない。ここで指摘したいのが、期待の裏側には常に不安が貼り付いている、ということだ。二十五年と十カ月前、夫婦は富士山に登っていた。意気込んでいたのは妻の方で、五合目を通過する段階ですでに限界まで疲労していたにも関わらず、無理をしたせいで倒れてしまう。ささいな事件が妊娠をきっかけに夫婦を悩ませる。気がかりなのは登山と懐妊の前後関係だ。過度の運動が胎内の子どもに悪影響を与えたのではないか。二人の間にはいつもこの種の不安が漂っている。他愛ない会話はしばしば中断され、胎児にまつわる確認がなされる。過敏になるのは我が子の無事を願うからである。期待と不安の間を揺れ動くその姿が、私の目には「ベタな葛藤」に映った。
強調されるのが命の脆さだとすれば、それは前者と共通する。第3黒山羊荘の住人たちは次から次へと道理に反した展開に見舞われる。あるはずのない河川が氾濫したかと思えば、避難所で給仕される豚汁にはチョコレートやトマト、パイナップルの切れ端が浮かび、語り手だったゴキブリはいつしか人間と対話するようになる。これらの事象を非現実的な妄想に分類する前に二人の「みさ」について考えるべきだろう。アパートの二階には偶然、同じ名前の女性が二人いる。片方は介護対象の老親と、もう片方は同性愛者の恋人と同居している。理不尽さの点において、介護に追われ自分自身の一切を犠牲にせざるを得ないこと、女性でありながら女性を愛してしまうことと、豚汁にトマトが入っていることにどれだけの差があるのか。介護や同性愛にかぎらず不慮の事件事故など、本質的に命は不条理に翻弄される。
山本がこのことを訴えるのは命の価値を問うためだ。何かの価値を強く実感したいならその不在を体験すれば良い。マッチ売りの少女を再び例に出さずとも、ストーブの火にあたる幸せを感じられるのは直前まで寒さに震えていた者であろうし、腹を空かせた者ほどごちそうの味を噛み締めることができる、と言えるはずだ。同様に、期待の強さを最も実感できるのはそれが裏切られた時である。
したがってこの物語のピークに死が用意されているのは当然の帰結なのだ。異変に巻き込まれたアパートの住人たちは風船になった父親を天に放した娘を除き一人残らず息絶え、二十五年前の悪い予感は現実のものとなり夫婦は最初の子を流産で失う。「ゆるいSF」で淡々と命を散らした後、並みの劇作家ならおそらく流れた子の名前を妻に叫ばせて「ベタな葛藤」を全面に押し出し、その喪失をことさらに際立たせただろう。しかし山本の選択は違った。ここにこの作品、最大のアイデアが光る。
山本は二つの設定で進行した物語をそれぞれ結末まで運ぶと、舞台にうずくまるアパートの住人たちを早々に退場させた。残ったのは夫婦だけである。しっかりと間を取って彼らが語り出した内容に、初見時の私は耳を疑った。人類に関して誰もが知る事実について彼らは言及した。親から生まれた子がやがて自らも子を産み親となっては死んでいく。そしてこれからもそのループが途切れることはない。
ヒトの祖先が猿と分離したのは六百万年前とも七百万年前とも推定されるのに対し、一人の人間の寿命はたかだか百年足らずである。人類はその起源以来、個体ごとに見れば無数の生と死を繰り返してきた。そうして命のバトンが今日まで絶えず渡されたからこそ、この文章を書いている私がいて、読んでいるあなたがいる。
この当たり前の事実が極めて特別に響いたのは、それを指摘した人物のせいだ。夫婦は物語の中に身を置きながら現実について口走っている。山本はあらゆる範疇を越えてエッセンスを物語に取り込むうち、ついには現実へと手を伸ばし、両者の融合はラストシーンとして結実した。これほど自由な劇があるだろうか。
やがて出演者たちは一列に並び、礼をし、拍手を受ける。今度こそ物語が本当に終わる時だ。それでも少しの間、私の頭の中でだけ物語は続く。人類の生死を巡る壮大なループ。言葉にも形にもならないイメージを他ならぬ私自身の想像力がパワフルに紡ぎ出す。ラストシーンの台詞に仕込まれた「違和感」という仕掛けによって。
劇作家は度々、作品を通して何らかの主張を観客の眼前に突き付ける。しかし私の考えるかぎり、それが全てではない。時には適切な距離を取って、舞台上に残してしまってもいいはずだ。ただそこにある方が、突き付けられた時よりも、魅力的に見えることもある。観客の中には、私のように自ら手を伸ばそうとする者もいるだろう。このように考えれば、この劇は最高の成功を収めた、と言える。
(2014年4月19日19:00の回と27日14:00の回観劇)