範宙遊泳「うまれてないからまだしねない」

4.3.5次元に描かれる命(齋藤理一郎)

 前売りで比較的若い整理番号をゲットできたこともあり早めに劇場に足を運びました。やや暗い場内で投影される映像をぼんやり眺める。客入れ中ずっと流されているその映像は、エナメルの輝きをもった床にも映り広がって、分子の配列のようにも宇宙のようにもDNAのようにも変化し何度もループしていく。やがてその連続が曼荼羅を見るが如くにも感じられ、会場に響く宇宙を思わせる音にも気づいて、それらに浸されながら開演を待ちます。

 冒頭「みんなしんでしまった」というつぶやきのような文章が投影される。そして2DKが4軒という第3黒山羊荘のアパートまわりの情景から物語が始まります。ト書きを語り始めるゴキブリ。酔って帰宅する二階の部屋に二人で暮らす女性たち。そこに年老いた父を介護する別の部屋の女性が現れて。さらには一階で暮らす消防士の先輩・後輩や痴話喧嘩のカップル。緑の光が射し、たとえ娘に介護される父が「老人」として浮かんだ態でスクリーンに投影されても、ゴキブリが狂言回しをしても、別れ話をした女性の足が動かなくなっても、最初はありふれたアパートまわりの風景があってその世界に取り込まれていく。しかしながら、スクリーンに投影される様々なものがさらに物語にマージする中、世界は徐々に歪み、観る側を次第に常ならぬ世界へと導いていきます。

 範宙遊泳のホームページのプロフィールに
「近年はプロジェクター投影の光や文字・記号と俳優を組み合わせた演出で新たな表現を追求している」
 とあるとおり、投影される映像や文字と役者達の紡ぎ出す空間が不可分に混じり合って、物語やその中に定められたロールの世界に、この手法でしか描きえない枠組みや、風景や、色や、感触が生まれていく。

 作・演出の山本卓卓が映像を舞台に重ねるという手法を実装した作品として初めてみたのは、2013年2月に新宿眼科画廊での『範宙遊泳展』の後半に上演された『幼女X』という小1時間ほどの作品でしたが、その時にはまだ手法の試行的な色合いも強く、観る側も役者が演じる空間と映像という異なる次元のものがひとつに重なり訪れること自体を面白がっていたところがありました。しかし同年5月にSTスポットでみた『さよなら日本』では、演技と映像が重なるどころではなく、役者達の演技が投影された映像の世界に取り込まれてしまっていてその進化に驚く。

 東京芸術劇場のホームページには、範宙遊泳のプロフィールとして、
「文字・映像・光・間取り図など2次元のエレメンツに、3 次元の俳優を有機的に絡ませ、2.5 次元の演劇を立ち上げる独自の手法と、産まれる前の胎児や、椅子、虫など、有機物と無機物を平等に扱う存在への秀逸な眼差しが、注目を集めている。」
 という記述があるのですが、『さよなら日本』に関してはまさにここに書かれたとおりだったと思います。

 そして、今回の作品では、投影される画像なども従前のものからよりしたたかさを増し、従前の作品からの更なる進化を感じる。ト書きやニュースのアナウンス的な文章が場の時間や状況をしっかりと定めることに加え、たとえば朝の訪れを「朝」という文字の羅列の表示するにしても、投影されるタイミングや強さに観る側の持ち合わせている朝の感覚を呼び出すようなリズムがあり、より鮮やかな「朝」の感覚が生まれる。激しい雨の表現では単に「ザァァザァァァ」という文字だけではなく、地面に近い部分には「パラパラ」という滴の跳ね返りの音を描きこむような細かさからより強い雨を想起させる舞台の奥行きが築かれ、舞台上に一歩踏みだした雨の肌触りが訪れる。

 炊き出しに並ぶ「犬」、「猫」、「鼠」といった存在にしても、ぬいぐるみやイラストなどではなく文字で置かれることで生まれるよりソリッドな概念があって。画面に浮遊する「老人」に至っては、その文字の座標やさらに避難所での「老人」の群れなど描き方が、他の世代からの「老人」たちへの距離感や見え方までも切り出していて目をみはる。登場人物が考えたことがそのまま文字として表示になってしまうという設定にロールが抱く迷いや揺らぎがすっと切り出され、作品全体に新たな視座が差し入れられる。

 そうして2次元での表現が更なるニュアンスや解像度を得たことで、投影される表現が映像の世界に役者を引きこみ縛るのではなく、キャラクターの刹那を表現するための様々な色や空気や足場となり役者を解き放っていきます。映像が表現しうるものの豊かさが役者それぞれが紡ぐ世界のより深いところまで入りこむことで、2次元と3次元の主客が覆り、2次元の世界に3次元の演技が編みいれられた2.5次元というよりは、3次元の役者の演じるものに2次元で描かれたものがさらなる視野が与えて3.5次元の世界で物語が紡がれているようにも感じられる。

 また、舞台上には先端中央に置かれたプロジェクターから壁面の両端に客席から見て逆富士のシェープで太く白い線が描かれていて、その内側にある役者が時としてスクリーンに生まれた自らの影を操る。従前の作品などでも使われていた手法ですが、それらが、位置や大きさを変え、舞台上とは異なる遠近感をつくりながら、時に舞台上では表現しえない世界をスクリーン上に現出させ、舞台の世界に壁面とは異なる次元でのニュアンスを導いていきます。この舞台には、映像を使うことで生まれた表現を生かしつつ、映像が多用されていても2次元側に世界を押し込めない場の豊かな立体感があるのです。

 恒星の爆発、繋がらない携帯、朝からの大雨。そしてアパートの住人たちの避難先。役者が演じるものに映像が寄り添い、重なり、時には物語を別の色に導き、そのなかで世界が歩み繋がって。演じていく役者たちには、壁に紡がれた様々な世界の歪みにキャラクターを安易に埋もれさせないひとつずつのシーンの作り込みとベクトルの貫きがあり、しっかりとその顛末を観る側に追わせてくれる。

 女性カップルの「カオ」を演じた伊東沙保には女性の自然体の凛とした美しさが醸され、熊川ふみの「ミサ」には、女性を愛することについての自らへの正直さとそのことでの苦悩が丁寧に編まれていく。田中美希恵には父を世話する「丸山」が抱く父との人生への義務感と諦観と実存感を織り込む力を感じる。痴話喧嘩カップルは共に難しい役柄だと思うのですが、「女」を演じた椎橋綾那はどこか駄目な部分のある女性のありようをとてもナチュラルに解き放ち、「あいつ」を演じた埜本幸良は捨てた男の薄っぺらさの先に想いが文字としてダダ漏れになってしまうというシチュエーションの当惑なども強かに描き出して。大橋一輝から訪れる消防士の先輩「鉄」が陥る思い込みというか錯乱には嵌まりこんだような視野の狭窄感が良く作り込まれており、後輩の「男」を演じた福原冠には訪れる物に従属してしまう弱さの向こうにみえるやさしさと自我の織り合い方がとてもしなやか。「ゴキブリ」を演じた大石将弘の、自身のロールから逸脱することなく、ともすれば混沌としてしまう物語の顛末を明確に観る側に伝えるその語り口も上手いなぁと思う。

 舞台には第3黒山羊荘の住人達の世界とは異なるもう一つの物語が刻まれていて、それは「にじゅうごねんまえ」の臨月の妻と夫のどこにでもあるような会話と二人それぞれの独白から始まります。波佐谷聡がさりげなく醸す「夫」の少々シニカルで依怙地な雰囲気や名児耶ゆりが演じる臨月の「妻」の少し気まぐれな感じには他のシーンとは異なるバイアスのかからないナチュラルさがあって、とてもありふれたというか普通の夫婦の距離が実存感を持って織り上げられていく。夫の妻への感情、妻が抱く秘密。妻が心の中でお腹の子に彼女が決めていた「ミサ」という名前やお腹の子供が既に動かなくなっていること。そして、互いに本音を呑みこんだその会話の時間は、他のシーンで更に時をさかのぼり舞台に白く描かれた富士山と重ねられた登山のシーンや、登山の後に命を授かった顛末や、蕎麦を食べる列を諦めたエピソードなどとも繋がり、それらは、第3黒山羊荘の世界のエピソードや「ミサ」の「妻」への語りかけなどともルーズにリンクをしていくのです。

 終盤、第3黒山羊荘の世界では、冒頭に文字で語られたごとくみんな死んでしまいます。そのことが夫婦が最後のシーンで語る死産の記憶へと束ねられる。でも、夫婦はその悲しみに留まることなく1年後に再び子供を求め授かります。彼らの息子と娘は元気にそだち、また命を繋ぐ。そして、第3黒山羊荘の住人たちが戻っていった穴から浮かび上がる風船が具象する、さらに生をうけようとする新たな命が浮かび上がって。

 その命がどんな運命を背負うのかはわからない。紡がれた第3黒山羊荘の住人たちの物語の如く、もしかしたら同性を愛し更なる命を授かることに苦悩するのかもしれないし、生きることに不器用なのかもしれないし、弱さを内に抱えているのかもしれないし、親の面倒をみることに縛られるのかもしれない。風船が具象する命は3.5次元の立体感を持って表現された様々な可能性を背負い質量を与えられて。その風船の言葉として投影された「まだうまれてないぞ!」は、開場時に見た曼荼羅の世界、やがて浮き上がって去っていくものやさらに訪れるもの、この世に生を授からなかったものを含めて連綿と繋がるそのなかで、風船を誕生の無垢の輝きに包んでくれる。ラストシーン、当たり前の夫婦によって繋がれるその新たな命のありように心を捉えられてしまいました。
(2014年4月20日19:00の回観劇)