7.生命の営為への、誠実な想像力 —と、その先へ(馬田友紀)
「うまれてない」「まだ うまれてないぞ」。画面いっぱいに映し出されたこの言葉に強烈な希望を感じて、私はこの「うまれてないからまだしねない」を見終えた。正直なことを言うと、芝居を見ている最中に面白いとか、新しいとか、大きなインパクトを感じた覚えはなかったのに、である。
一つのアパートにある4つの部屋にそれぞれ暮らす若者たち。彼らには彼らなりの事情や機微がある。別れても同じ部屋にずるずると暮らす男女。女性同士のカップル。端から見れば好青年だが実は激しい妄想を抱く消防隊員と、彼を心の中では一歩引いた見方をしつつ自らに対して卑屈な後輩の青年。そして自分の父親【老人】を介護する女性。ある夜、彼らが緑色に輝く大きな星が爆発するのを目撃したところから、物語は始まる。震災を思い起こすのは必然だろう。理由も原因もわからずただ災害は発生し、それに伴って起こる奇妙な物事を、人々は奇妙だと思いつつもだんだんと自然なことであるかのように受け入れていく。自分の思っていることを他人に読み取られてしまったり、犬や猫や鼠が配給の列に加わったり、チョコレートとパイナップルとトマトの入った豚汁を人々が美味しいと食べるようになったり。そんな避難所では、普段はよそよそしかった互いの距離が近づき、奇妙な絆が生まれ、しかし若者たちは理不尽にも死んで行く。
私は88年生まれの26歳であり、この舞台の作り手たちとまさに同世代である。しかしこの舞台に出てくる若者たちに、自分との距離と、僅かな反感を覚えた。これが自分の中でも奇妙で、舞台を見てからなぜなのだろうと考えてしまった。原因不明の病にかかり、地下へ避難する手助けを断る女性が「私、今が一番強気かもしれない」という感覚に違和感を覚えた。「オニ」が地球を滅ぼすという妄想に取り付かれ、最終的には首都高で車の前に飛び出して死んだ男性には、「異常事態にこういうふうになっちゃう人もいるかもね」としか思えなかった。
こういうときには人間の本音が出るとか、おかしくなってしまうとか、そういう指摘はし尽くされている。また、足が急に動かなくなってしまった女性が、救急に電話をして「生きているか死んでいるかよくわからないか」という奇妙な質問を受ける場面がある。女性は突拍子もないその質問に「よくわからない」と答え、救急車は出動しない。これを理不尽な生命の取捨選択として捉える人もいるかもしれない。しかし、私は「生きてる」って答えろよ!!!と憤慨にも似た感情を覚えた。
私が子供を育てている最中だということも影響しているのかもしれない。子供を育てるという作業は、特に乳幼児のうちは「子供を生かす」言い換えれば「死なせない」ということが大きな意味をしめる。しつけや教育や人としてのふれあいなども大切なのだが、食べさせ、寝かせ、最低限の清潔を保ち、事故や病気を避け、避けられなかったら最大限努力してそれから守る。これがミッションだ。そういうことをしていると、自分が生きていて、これからも生きなければならないということは当たり前じゃないかという感覚になっている。
これは子供だけではなく、老人を介護する「ミサ」も同じだと言えるかもしれない。すべての若者が死にいく中で、彼女だけは「生きてやる」と決心していた。この芝居には子供は出てこない。老人は画面に映し出され、しかも空に浮いている存在だ。そして若者たちを同世代の役者が演じる(ゴキブリ以外は)。子供/親、老人とは自分は関わりがないもの、決して自分の世界には直接関わらないものとして若者だけの世界で生きているような気がしたのだ。このことに私は違和感を覚えた。
しかし芝居の後半に、若かりし頃、まだ子供が産まれる前の「ミサ」の父と母が登場する。出産を控えた彼らは普通の若者として描かれている。人気のそば屋の行列にイラつく夫は妻に「そんなんで父親になれるの?」とたしなめられる。その場面は現代の避難所で配給に並ぶ列と違和感なく重ねて描かれていることからも、彼らは若者たちとかけはなれた「親」ではない。そんな彼らは、妊娠し、出産をする。しかしその子供は死産してしまう。その後、災害だか死亡事故だかのテレビを見ていた夫の「子供がほしい」という呟きから、彼らはまた子供をつくり、元気な男の子、次に女の子を出産する。その子供たちが産まれると、同時に死んで行った若者たちが立ち上がり、死産の子が帰って行ったのと同じ穴の中に帰って行く。
この芝居には、死が描かれている。端から見れば小さなことかもしれない物事に拘泥しながらそれぞれの日常を生きている若者たちに理不尽にもたらされた死、老人の死、そして若い夫婦の一人目の子供の死。ゴキブリのように、人間よりも恐ろしく強い生命力を持つものであっても死ぬときは死ぬ。父親となる男性が「最後はみんな死ぬんだから」と言いながらも「子供がほしいなぁ」と言う。死産の子の無念であるとか、こんなふうに理不尽に人は死ぬことがあるのだから、あなたはがんばって生きなさいという押し付けがましいメッセージを、人々はとうの昔に聞き飽きているだろう。しかしこの芝居は、けっして大げさではなく、わからないことをわかったように語るのでもなく、今を生きる誠実な想像力でもって生命の営為を描こうとしているのではないかと思う。死を描きながらも、死に思いを馳せさせたいわけではない。作者が見、感じた人々の生死をめぐる営為を、等身大の姿で描き出し、生きている私たちの前に提示している。範宙遊泳の特徴である、スクリーンに文字や図を映し出す演出も、けっして革命的なものとしては映らなかった。しかし、私たちが日常の中で物事を捉える感覚をシンプルに具現化しているように思えた。
それはきっと、直接的ではなくても、問いかけである。私たちは、どうやって生きているのか、そして、どうやって生きていくのか、という。
私も数年前までは、親ではなかった。そして今でも、今を生きる「若者」の端くれであるということを思いだした。人が生まれて死ぬというこの世界に生きているという意識は、日常生活に埋もれていた。
若い夫婦の子供である「ミサ」とは、ガンで入院している母親を見舞う女性の名前であり、自分の父である【老人】を介護する女性の名前でもある。前者は、病院のベッドに母を残して恋人のもとへ戻り、彼女が自分の腕の中で死ぬのを見届け、自ら首をくくって死を迎える。
後者は、「絶対生き残ってやる」と地下へ避難しようとするのだが、そのとき彼女の父親【老人】は風船のように空に飛んで行ってしまう。去り際に「ミサ、ありがとうね!」という言葉を残して。この二人のどちらもが、若い夫婦の子供である「ミサ」なのかもしれない。そして私たちも、この世に生まれた赤ん坊の、いくつもの可能性の中の一つなのだろう。「うまれてない」「まだ うまれてないぞ」この最後の言葉は、「もううまれてるぞ」「いまいきてるぞ」「どうやっていきるんだ」という投げかけを、それ自体よりももっと効果的に伝えている。
しかし、さて。これからどうする?長い人類の歴史の中で、数えきれない人々が感じ、考え、様々な形で表現してきた生命の営為を描いたあとで。確かに作り手の誠実な想像力を感じ、最後の言葉には希望も見えた。しかし、その先にあるものを、私は見たい。
私も彼らも、ずっとずっと「まだうまれてないぞ」と言ってるわけにはいかないのである。誠実な想像力と、問いかけのその先ーーー「もううまれてる」人間が「どうやっていきていくか」を、自分に、そして今後の範宙遊泳に問うてみたい。
(2014年4月26日 14:00の回観劇)