マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

9.記憶の中へ帰ろう、そして—–(中村直樹)

 子供の頃、秋になると家族で行くところがありました。祖父が所有していた梅園です。その手入れに行っていました。のこぎりを使って枝を切り、切った枝を一箇所にまとめます。
 また梅園には小さな家があり、その家も掃除しました。人間が長い間いないので、植物が侵入しています。それらも抜いて綺麗にしていきます。とても大変な作業だったけれど、とてもとても充実していました。
 ようやく綺麗になった家の縁側で、綺麗になった庭を眺めながら食べる母の作ったお弁当は、それはそれは美味しいものでした。

 しかし、その家も梅園もすでにありません。今は道路になっているようです。

 東京芸術劇場のシアターイーストで、マームとジプシーの「「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと—————–」が6月8日から22日まで上演されました。この作品は2012年に岸田国士賞を受賞した戯曲「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」を大幅に再構成したものです。(この戯曲は「20年安泰。」で「帰りの合図、」、北海道で「待ってた食卓、」、横浜で「塩ふる世界。」の三連作として上演されました。「塩ふる世界。」はTPAM2012で再演もされています)

 舞台の中央にはちゃぶ台のように丸いものが据えられています。その奥には模型の置かれた空間があり、スクリーンがあります。その空間の下手側にも、上手側にも、何かが置かれています。
 物語が始まると、丸い空間の中央にちゃぶ台が置かれます。そして、その空間は家となりました。そこには姉のりり(成田亜佑美)と弟のかえで(尾野島慎太郎)、妹のすいれん(萩原綾)、りりの娘のさとこ(吉田聡子)、すいれんの娘のゆり(川崎ゆり子)とかな(伊東茄那)。そして従兄弟のとしろう(波佐谷聡)と近所の叔母さんのふみ(斎藤章子)と農業を一緒にやっているおじさんのなかしま(中島広隆)といった、家にまつわる人々が集まります。そして彼らはただくつろいでいます。喧嘩をしていたさとことゆりたちもいつの間にか仲良くなっています。

 それまでにいろいろありました。自転車を置きっ放しですいれんは駅員に注意されてりりとかえでが呼びたされてしまったこと。としろうの兄が溺れた女の子のあんこを助けるために近くの海で死んでしまったこと。すいれんが万引きしてしまったこと。18の時、りりが出て行ったこと。元気だった父が死んだこと。りりがさとこを出産したこと。すいれんが婚前に妊娠して中絶してしまったこと。あんこ(召田実子)がバックパッカーとして現れたこと。それらを家は何も語らず、見つめてきました。家が彼らを集めていたのです。
 しかし、その家は区画整理に引っかかり、取り壊されることになりました。諦める人、諦めきれない人、様々です。でもその決定は覆りません。家が無くなって悲しむりり。そして、今まで全てを受け入れ、肯定的なことしか言わないかえでが、とうとう叫びました。
「待っているから!」

 そして、その家はなくなりました。そこはただの道となりました。

 初めてマームとジプシーを観たのは、「20年安泰。」で上演された「帰りの合図、」でした。同じシチュエーションを何度も何度も何度も繰り返すことで積み重なっていく感情。多面的に描き、新たな意味が加えられることで、繰り返されるシーンの意味合いがどんどんと変わっていく。「リフレイン」という手法は、あたかも本を何度も読み返して、作品世界の奥へ奥へと入り込んでいく印象を受けました。それは観客自身も感情を積み重ねているので、舞台上の役者と同じように揺さぶられていくのです。

 そして、今回の作品ではさらに深い印象を受けるようになりました。
「それは凄いぞ!」という言葉しか出てきません。バラバラに上演された作品を通して観たからでしょうか、彼ら、彼女らの損失への感情がより深く入ってきます。それは悲しさ、寂しさ、憤り。入り込んできた感情は、私自身の感情も揺さぶりました。そしてそれらの感情は、私の中の片隅にあった梅園の記憶を思い出させました。その梅園は作中と同じように道路となっているのです。今まですっかり忘れていたのに、りりのような気持ちとなって涙を誘うのです。

 この作品は、過去に囚われた人々の物語。りりもすいれんも今ではなく過去を生きています。役者達が全員同じような白い服を着ているのも、まるで幽霊、いや生霊のよう。まるで家への未練が化けて出て彷徨っているようにも思えます。お盆という季節柄、過ぎ去った彼方の記憶が蘇ってきたようにも思えてきます。
 だからこそ、りりやすいれんの現在は一切描かれません。さとこもそんな母親の影響を受けているのでしょうか、自分が正しいと他人を見下したような態度を取ります。おそらく現実では孤立しています。だからこそ、さとこ自身も生まれた時から見守ってくれる家というものに固執してしまうのです。(りりが生まれ育った家でさとこを生みたかったのも、外の世界に家を作れなかったからでしょう)
 このように家と言うもの、庇護されていた過去と言うものに執着するからこそ、それを手放さないといけない時に感じる感情と言うものが理性を越えた深層心理までしっかりと届いていました。

 逆にかえでは全て受け入れます。家を取り壊されることも受け入れるのです。そしてこう叫びます。
「待っているから!」

 かえでは家そのものなのです。だからこそ、どんなことを言われても家族を受け入れるのです。家はそこに住まう人々なのです。
 そして作り上げられた世界は初演からの三年間で手に入れたものを使って再構成しています。生まれ育った街のミニチュアをカメラでリアルタイムに撮影し、それをスクリーンに投影する。それだけでミニチュアのような現実でない世界に観客は誘われます。さらにちゃぶ台の置かれたお盆状の丸い舞台は繰り返される閉じた空間を表しているように感じます。どこか窮屈なのです。そして、扉のような木枠を四つ繋げて箱状に置くと家の壁に、四つ繋げた壁の天に二つ乗せる事で家そのものを、六つの木枠を重ねて置くだけで基礎だけになった取り壊された家を表現しています。
 その家を役者たちが作り上げる。家を構成する家族そのものも表現してしまっている。まさにマームとジプシーの集大成だったと言えるでしょう。

 公演のサイトに作、演出の藤田貴大さんはこんなことを書いてます。
「振り返らずに、旅をしてきた。しかし去年のいつだったか、すこし立ち止まってかんがえる時間があった。疲れていた。ぼくだけじゃなくて、マームとジプシーが。たぶん、疲れていた。」
 藤田さんが岸田國士戯曲賞を受賞した後、藤田さんとマームとジプシーは一気に世界が急に広がりました。それはとても刺激的な世界。その世界で藤田さんとマームとジプシーは一生懸命挑戦し、結果を残してきました。前回東京芸術劇場で上演された「cocoon」も挑戦的な作品で「俺達はこう思うんだ!」という声が聞こえてくるようでした。それは一生懸命声を張り上げて「俺達はここにいるぞ!」と言っていたのかも。今ではちょっとそう思ってしまいます。
 そして、たどり着いたのは遠く遠くでした。それは漂流だったのかもしれません。だから、疲れてしまったのかもしれません。

「帰るところがあるから旅になる」
 作中で、このような台詞があります。だから、帰る場所を欲していたのでしょう。旅を続ける為に。
 藤田さんは家に帰って行きました。旅の果てで手に入れたものを携えて。その結果、いままであった繊細さはなくなるかもしれません。作風がガラッと変わるかもしれません。それでもその先がとても楽しみなのです。
「マームとジプシーは何をするのだろう」
「藤田貴大はどうなって行くのだろう」
 その行く末が明るいものだといいな。いいや明るいでしょう。彼ら足取りは前より力強いのだから。

 梅園は無くなりました。家も無くなってしまいました。寂しいことだけど、その光景は記憶の中に存在しています。帰る場所がなくなっても、記憶の中に存在しているのです。そしてそれを過去とした時、今を生きる新たな道が生まれるのかもしれません。

記憶の中に帰ろう。
そして、
また旅に出よう。

旅もまた記憶となり家となる。
そして、
さらなる旅に出る。

生という旅を終えるまで、
それは何度もリフレイン。

 藤田貴大さんの世界に当てられて、センチメンタルな気分となっています。なので、こう思ってしまうのです。
 私も梅園から旅立つ時がきたのだと。
(2014年6月22日観劇)

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