マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

4.劇は記憶となり、記憶は収斂する(伊澤拓人)

 演劇をみて、それで何かしらを考えようとすれば、当然頭のなかで劇を繰り返し再生し、そして何かに行き着いたり行き着かなかったりする。しかしながらその過程では、記憶が薄れるにつれて、俳優が消え、演出は弱まり、徐々にそぎ落とされていって、最後には最も強烈だった部分、最も印象的だった部分、そしてその空間の雰囲気だけが、小さく硬く残る。その小さく硬いものの集まりが人間の記憶の器なのだろうか、なにかビー玉がたくさん入った金魚鉢を想像した。いやもっと、大きな水槽で余裕のあったほうが望ましいだろうか。

 僕は、マームとジプシーの「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」を見、生きた記憶の持つ不思議な性質、そしてその性質自体が生み出すさわやかな感傷に立ち会った。この作品は岸田國士戯曲賞を受賞した藤田貴大さんの「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界」をリニューアルしたもので、彼自身が述べるように、すでに成功した作品を再演するというマームとジプシーにとって挑戦的な試み、つまり今回の舞台自身が過去の記憶から始まってもいる。3つの作品の組み合わせであった前作から「しおふる世界」は削られ、また作品の中の時間もさらに後まで進められていて、ある意味で続編のような色合いも持つ。

 劇場に入ると、平たい回転テーブルがのったような舞台。その向こうには、木の枠や自転車、レゴのミニチュアがおかれた机が見える。舞台の左右の奥にはハンモックやらなにやらガラクタのようなものと、台所がある。よく見えないところにモノがたくさんあり、重要なところにはなにもない、舞台裏も舞台上にあるような、不思議な光景であった。しかしその雰囲気は、始まる前からなんとなくノスタルジックに感じられた。おそらくは音楽と、町のミニチュアを映すスクリーン、そして舞台に出てきて好き勝手(じゃないかも知れないが)ストレッチをしている俳優たちの白い服装がその原因だろう。

 劇は、少女さとこ(吉田聡子)の独白と説明から始まる。舞台向こうのスクリーンにはミニチュアの「まち」が映し出され、駅と家と海という重要な3つの場が提示される。プロローグが終わると時間はその前日にさかのぼって、親戚一同がさとこの母親りり(成田亜佑美)の実家に久々に集合するという1日が、ゆっくりと進んでいく。その過程で、さまざまな登場人物のそれぞれの記憶が、繰り返しよみがえるのである。

 この劇では、同じセリフを繰り返し違うアングルから見せることで過去における、また過去に対する人々の心情が描写されている。藤田さんはこの技法を「リフレイン」と呼ぶが、この苦痛でさえあるようなありふれた場面の繰り返し、登場人物の心情吐露の繰り返しに、観客は、劇中の人々とともに耳鳴りのように高まった記憶を味わう。俳優は激しい動きとセリフの連続によって息が切れ、緻密ではないが生々しい演技をする。この効果はストーリーが持つ感傷と郷愁とを最大限に増幅し、みるものを、この「家」の周りにあるごく一般的でどうでもよい問題たちに、一気に引き込むのである。

 この日常性、一般性、普遍性を、この作品はとても大事にしている。一部の登場人物の名前は俳優の名と同じであり、舞台、家、駅、服装は、白く抽象的で、見る人それぞれの記憶が簡単に上書きできる。ここに藤田さんは演劇の演劇性を担保したのではないか。

 というのも、この劇は、ともすればただの個人的な感傷に終わってしまう危険と隣り合わせである。たまたまその町に生まれ、その家を愛し、その食卓を懐かしむ人々の郷愁だけを表したのでは、ウェットな同情を呼ぶことしかできない。そこで作品の本質が規定する枠を広げ、観客みなを取り込み、ついには日本人が共有する記憶をも内側に収めてしまった。消費されることから最大限離れる努力が、感傷を主に取り扱う演劇には必要だったのではないか。

 劇を見る目的というのは、玉ねぎのにおいをかいでまで泣きたい人だったり、やさしく抱きしめられたい人だったり、十人十色だろう。しかし、ある意味殴られるために劇を見に行っている僕にとっては、この舞台は、なにかこんにゃくを顔に押し付けられたような、ぐにゃぐにゃしたとらえどころのないものに思えた。打撃がないというのだろうか。なにかを語りかけてくるというより、そこにある、劇であった。その感触が、増幅された感傷から来ていることは疑いようがない。即ち不満ということではないが、これこそがこの劇の主題の持つ危険なのである。そして、その危険に藤田さんが挑戦したということでもある。それが成功したのかどうか、僕にとってはぎりぎりのところで免れている、というような感触であった。

 劇の展開をもう少し詳しく。

 エピローグの後、舞台は駅になる。そこは20年前、りりが町から出て東京へ向かった場所であり、りりの妹すいれん(荻原綾)がその見送りに来られなかった場所であり、この記憶が姉妹の心に長く引っかかっている。同時に、現在においては、駅とは人々がこの町にくる玄関である。りりたちの従兄弟としろう(波佐谷聡)やすいれんの娘ゆり(川崎ゆり子)とかな(伊東茄那)はその日、この駅から町にやってきた。

 登場人物がそろい、舞台は家に変わる。この家に住んでいるのは今ではりりの弟かえで(尾野島慎太郎)一人だが、りりたち三兄弟はみな青春時代をこの場所で過ごしていて、もちろんここにも、父親の死をはじめさまざまな記憶がこびりついている。現在では大勢の親戚と近所のおばさんらで食卓を囲んでいて、にぎやかな、ありふれた「親戚の集まり」が描かれるのだが、りりたちにとっては、父親が死んでからその食卓の持つ意味は大きく変わってしまったらしい。

 その後子供たちとかえで、としろうは海に行くことになり、場面は海岸へと移る。そこは20数年前、としろうの兄が少女を助け、自分は流されて死んだ場所である。その少女とは、偶然海を目指してこのまちにやってきた旅人あんこ(召田実子)なのだ。

 その日の夜には、すいれんも家に到着し、やっと三兄弟がそろう。そこでかえでから明かされるのは、立ち退きを要求され、この家が壊されてしまうという事態である。彼らが生まれ育った家がなくなるという、この話題に対して彼らは驚くほど消極的で、素直だ。立ち退きするのかどうか、自ら選択しようとはせず、その役目を譲りあう3人。「道を作る」というどうしようもない決定事項にたいして、それを受け入れ、先へと進む決心が、なめらかに浸透するようだった。それに比して、話を漏れ聞いたさとこには納得がいかず、激しく主体的に反抗する。実はさとこが生まれたのもこの家であり、その事実もまた動かしがたいものである。さとこにとっても、この家、この食卓は、本当の「帰る場所」として、大切なものなのである。待っていてもらいたいものなのである。

 しかし結局家は壊され、家さえもが記憶となる。エピローグでは、1年後に兄弟3人が集まり、もはや基礎だけとなった家をみる。さらにその1年後には、さとこたち3人の従姉妹がもう道になってしまった「家だったもの」を訪ねる。この家を壊してしまうことの裏には、藤田さんの重大な決心があったはずだ。そして、家は、道となった。その決心とは劇中のものでもあるが、僕はそこにマームとジプシーという劇団が今後踏み出していく方向をみた気がした。

 しかしこれだけではこの作品を理解したことにならない。劇をさらに深めている2人の登場人物が非常に気になる。さとこと、あんこ、だ。

 さとこは劇中で最も感受性が強いと同時に、心の中にある考えが直接的に語られる数少ない人物である。それは釣具屋で釣り餌のケースを覗く場面、そして海を訪れたとき、波にのまれて死んでしまう人に思いを馳せる場面にあらわれている。この唐突に挿入された少し毛色の違う時間は、劇と震災をつなげ、劇と観客自らの記憶をつなげた。正直のところ、さとこがいる明確な意味はよくわからない。ただ、彼女は藤田さんという人間の心の奥底を最もよく知っている人物のように感じられた。

 あんこにはさらに重要な役割がある。彼女は自分探しのためこの町にやってきて、またその後も旅を続けていく。その旅は、藤田さんが言う、「帰る場所を探す」旅に重なる。そして帰る場所を探すとは、すなわち生きることである。立ち止まった、振り返った、過去を思い返し、整理し、受け入れた。この後も続く旅のために。その意味で、自分が生きることになった、そう決まった、その原点を見にやってきたあんこの存在は、この作品の本質を担っているのではないだろうか。現代の日本人とは、全員が震災を経験したけれども、その後も生きることになった、そう決まった、人間なのである。

 現代とのつながりを考えると、時間性というのも重要なキーワードだ。思えば、エピローグのりりが家を思い返す場面は、これでもかというほど繰り返されていた。それがさとこが叫ぶ作品の題名と重なるというのが、印象的であった。この「現在」と(僕が勝手に)思っていた時間も、実は誰かの切り取られた過去に過ぎないのかも知れない。しかし、現在だって確実に過去となり、そしてまたリフレインされて、小さく硬いものになっていくのである。それが「かえりの合図」だったり、「まってた食卓」だったり、するということなのだろう。

 つまり、この作品自体が、みた人の中でさらにリフレインされて、その本質をあらわにするのである。「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」は、確かにいくつかのビー玉となって僕の記憶の中にしまわれた。そういうしかけだったのか、と内心驚いているところだ。そして、歩みを止めないことを決意したマームとジプシーには、これからも演劇をぎりぎりのところで感傷と共存させていってほしいと心から思う。この不思議な体験を、またぜひ味わいたいからである。
(2014年6月20日19:30の回観劇)

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