マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

6.出ていく女、とどまる男——父性の死から始まる物語(水牛健太郎)

 今さら言うまでもないが、二〇一四年において一人の男性として生きることに、心躍ることなど何もないわけである。先日の都議会のヤジの件など聞くにつけ、男とは「バカな方の性」かと絶望させられ、同時に女性の権利獲得・拡大にこそ大きな歴史の流れがあることを再確認する。そこに掉さして、個人としてできることがあればするのは当然のことでもあろう。

 僕が思うのは、それではいま一人の男性として格好よく生きるのは可能なんだろうか、ということだ。現代において女性としてよく生きることと人としてよく生きることは一致する。馬鹿な男どもによる理不尽な差別やハラスメントとの戦いは女たちの背筋を伸ばし、しなやかさと強さを兼ね備えた、人として格好いい女性は増える一方だ。

 その反面、男性が人として格好よくあることはとても難しくなっている。「男がピカピカのキザでいられた」(「カサブランカ・ダンディ」?阿久悠)ボギーの時代を懐かしむのでなく、もちろん女性を抑圧したり犠牲にしたりするのでもなく、だからといって主客転倒して女性の犠牲になったり、愛玩物になるのでもない。一人の人間として筋の通った、現代的な男の生き方とは。僕は最近そんなことばかり考えている。

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 マームとジプシーの『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-』は、おおむね二十年にわたる時間を往還する三人きょうだい(長女、長男、次女)の劇だが、時系列でその始まりに置かれているのはきょうだいの父の死である。もっとも父はセリフで言及されるだけで、舞台に登場しない。仕事を口実に家に寄り付かなかった父は、きょうだいがまだ十代の頃に病魔に犯され、苦しんで死ぬ。扇子にヨレヨレの弱々しい字でもう死なせてほしいという意味のことを書いたという妙に生々しいエピソードが残される。つまり、現代において青息吐息の「父」なる存在がめでたくも死ぬことを許された、その時点から始まるのが、この物語というわけである。

 一方、きょうだいの母は登場しないだけでなく、一切言及もされない。しかし、この作品の中の家族に「父性」の働きが全く見られないのに対して、「母性」はむしろ溢れていると言っていい。長女りりは弟のかえで、妹のすいれんの母親代わりとしてしっかりと愛情を注ぎ、主婦として家事をこなす。それに加え、近所の主婦ふみちゃんがきょうだいに無制限の母性を供給し、何くれとなく面倒を見る。ほぼ両親不在の生育環境にも関わらず三人がちゃんと大人になれたのはふみちゃんの力が大きかったようだ。

 三人きょうだいの母親は存在しないが、母性は母親の肉体からあふれ出て、細胞液のように劇世界をどっぷりと浸している。登場人物の間のつながりは、与え、包み込み、命を守る母性の働きによるものだ。作品の核とも言える食事の場面は、この家族を結びつけているものが母性であることを、これ以上ないほど明確に表している。また、この劇は登場人物が傘をさす場面が多く、重要な海の場面もあるなど、水のイメージが多用されているが、その水が象徴しているものは間違いなく、遍在する母性である。

 りりとすいれんは大人になるとともに地元を離れるが、約二十年後、きょうだいの生まれ育った家が道路の拡張によって取り壊されることになる。作品は取り壊しが決まった家に集まった三人と次世代(りりの子さとこ、すいれんの子ゆりとかな)を通じ、家族の記憶とその継承のありようを描き出している。

 その中でも目立つのは、男女の著しい非対称性である。それはいっそ清々しいと言えるほどのものだ。きょうだい三人のうち女性二人が家を出、結婚し、子供を持ったが、子供は全員女の子である。一方きょうだいのうち唯一の男かえでは家に残り、結婚せず、結婚する見通しもない。作品にはかえで以外にもりりの同級生のいしい、きょうだいの従兄弟のとしろうの二人の同世代の男性が登場するが、かつてすいれんの恋人だったらしいいしいは地元で電気工事の仕事をしており未婚、としろうも結婚している様子はない。りりとすいれんの夫は登場しない(二人は結婚しているので夫がいることは確かだが、特に言及もされない)ので、この作品には結婚していたり明示的に子供を持っていたりする男性は一切登場しないのである。

 果敢に前に進み、外に出て自らの人生を切り開き、次世代を生み育てていく女性たちに対し、ほとんどなすすべもなく地元に埋もれていく男性たち。それが作・演出の藤田貴大の意図かどうかは分からないが、作品の構図がそうした印象を与えるものになっていることは確かである。りりとすいれんの姉妹はそれぞれ自分の家庭を築き、かつ、気が向いたらいつでも帰れる場所として実家を確保している。一方かえでは墓守娘ならぬ家守息子になって、彼女ら、そしてその娘である姪たちのたまの訪れを待っている。ラストシーンではさとこが「帰れるかなあ」と言うのに対して、客席に背中を向けたかえでが「帰れる」「おれが待っている」と叫ぶ。

 こうした状況——女よりも男の方が地元を出にくいし、結婚できない——は一人の地方出身者である僕の実感にもかなっているし、男性の方が全世代において未婚率が高いというのは統計的事実でもある。だからこの作品の構図は単なる現実の表現、という側面はある。それにしてもこのうら寂しさはどうだろう。

 父性が死んだ後、男性はいまだ積極的な役割を見出していない。人を傷つけるのを恐れる心優しき男たちほど「跡取り息子」の役割を真に受けて、一歩を踏み出せずに生まれた家にとどまっている。そうしてそのまま年を取って一人で死んでいく。この作品は、おそらくは意図せずして、その現実のあまりに正確な写し絵となってしまっているのだ。一見リリカルな装いにもかかわらず、ひどく残酷な感じがするのは、そのためである。

 母性は生かす、しかし母性は時に殺しもする。作品の中で、十数年前に起きた海難事故が振り返られる。かえで、としろうと海に行ったとしろうの兄は、泳ぎに来た女の子が溺れているのを助けるが、自分は水死する。しかし、かえでもまたその時死んだのかもしれない。それ以来、かえでは何もできないまま、海辺の町を漂っているのだ。
(2014年6月21日14:00の回観劇)

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