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マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

8.集大成、通過。その先に訪れるもの(齋藤理一郎)

 公演期間半ば(6月13日ソワレ)と楽日(6月22日マチネ)に観劇。1度目には藤田作劇の集大成を観たように思い、再度観たときには藤田作劇の更なる踏み出しの予感があった。

 どちらの回も、場内に足を踏み入れると舞台奥のスクリーンに映し出されたプラレールの汽車がまず目に入る。中央には大きな六角形の盆が設えられ、その奥には自転車、下手側に電話ボックスのようなものが置かれている。衣装などもかけられたちょっと雑然とした奥の左右、すでに佇む役者がいる。スクリーンの映像が中央奥の机を映し出していることにも気付く。さらに舞台に現れては捌ける役者達、次第に埋まっていく客席。そうして時が満ち、気が付けば舞台から人影は消えて、開演。現れた女性がプラレールの汽車を始動させるところから舞台が動き始める。

 汽車を追ってカメラが切り替わる。トンネルの先の駅、家、牧場、海岸とめぐる。繰り返し、時にはカメラの高さも変えられて、そのレールの先に何があるのかはわからないという。中央にも役者達が現れ、いくつもの時間を何度も切り出していく。盆が回転し、時間が移ろい、観る側をさらに舞台に誘い込む。傘をさして誰かを待っている少女たち、自転車を何週間も駅前に止めていて駅員に怒られた姉妹、バックパッカーや梯子を持って電気工事に向かう男たちの姿なども描かれて。スクリーンにはPROLOGUE#1「My Town」の文字が浮かぶ

 この舞台の骨組がそれほど複雑なものに感じられないのは、物語に2つの「PROLOGUE」と12の「SCENE」と2つの「EPILOGUE」の枠が定められているから。スクリーンに冒頭のごとく描かれる時間や場所が変わる度に表示されるので、観る側は戸惑うことなく作者が供する時間と場所に導かれていく。PROLOGUEで描かれた町のありようや駅前に重なる時間からフォーカスが絞られて、SCENEたちが綴るひとり暮らしをしている長男の家に長女と次女と彼女の娘たちが訪れる1日が始まる。

 「SCENE」たちが紡ぐ1日の描写にはいくつもの時間の歩みがひとつの場所に縒り合されていくような感触があった。
 朝の風景にしても、駅で迎えを待つ次女「すいれん」(萩原綾)の娘「ゆり」(川崎ゆり子)の苛立ちと「かな」(伊東茄那)の当惑が置かれ、後に家を訪れることになる「あんこ」(召田実子)も駅前を通過する。その二人の訪れを待つ家では洗濯を終えた長女「りり」(成田亜佑美)と長男「かえで」(尾野島慎太朗)の会話から場が広がっていく。従兄の「としろう」(波佐谷聡)、父親の友人だった近所のおじさん「なかしま」(中島広隆)、彼らを手伝いにやってきた近所のおばさん「ふみ」(斎藤章子)、などが現れて、あとですいれんの同級生と知れるブレーカー点検の「いしい」(石井亮介)をふみがお茶と漬物で手放さない光景も可笑しく、寝起きの悪い娘「さとこ」(吉田聡子)のV字型の寝姿にも息を呑む。

 座標が定まるがごとくに観る側にそれぞれの関係が示され時間が編まれていく。役者達のでんぐり返しに場の時間が小気味よく切り替わり、リフレインと呼ばれるくりかえしの手法がいくつものバリエーションで差し入れられて、描かれる今に時間が歩むメリハリが生まれていく。
 従姉妹どうしの確執や大げんか。やがて互いが火が付いたように泣き出すその先には、それぞれが内に抱いているものが垣間見える。
 映像の使い方などもしたたかで、前方に流れる時間の後ろでは、食卓に供されるそうめんや、晩御飯の手巻き寿司のしゃりの準備が映されたり、かながごはんにのせるというバターや明太子などが大写しになったりも。家に編まれる刹那が多層的に観る側に訪れ、舞台上の時間感覚に、厚みをもったリアリティが与えられていく。

 餃子を作るお手伝い、としろうやかえでとのお出かけ。かえでたちの牧場でのちょっとした黒歴史、釣具屋でみる蚯蚓、としろうをして「このことを記憶に残してほしい」という作品のテーマのようなセリフまではかせたコンビニでの大盤振る舞い。ウィット豊かに重ねられるエピソードの中で従姉妹たちの心が打ち解けていく。
 遊泳禁止の海、としろうの亡くした兄への緩やかに風化した想い、そして、同じ海で命を助けられたことがあるという自分探しの旅を続けるあんことの遭遇と、彼女を家へ連れ帰るまでの顛末。
 食卓を囲んでの夕食、お風呂。寝床でさとこがゆりとかなの父親が違うことや、かなが学校に行けていないことを知ることも、かえでがりりやすいれんに話す家の取り壊しのことを漏れ聞いてしまうことも、同じ1日の時間軸の上での出来事。

 そうして組み上がる1日に、登場人物たちの内にあるその家に刻まれた記憶が差し込まれていく。どこかディテールの失われた解像度の異なる刹那が蘇る心風景として置かれていく。

 居間の机の前に座るりりに去来する15年前の父の一周忌に集まった兄妹たちのこと、その1年前の父が倒れた日の情景、解けていく父の死を受け入れていく時間、電話で告げられた父の死をりりはこの家で聞いた。かえでがとしろうの兄が海で流されたことを告げに走り込んできたのもこの家。

 夜、家の明かりを眺めるすいれんに去来するりりが家を出ていくときの記憶。その前の晩、ラーメンを食べた後のりりとの会話。部活で見送りに間に合わなかったすいれんが聞いたかえりの合図。りりに、すいれんに、そして登場人物の一人ずつに蘇る記憶の瞬きは、この家の食卓からの時間と距離の座標を持ち、さまざまな色や質感の記憶と新たにそこに置かれることを包括した世界として観る側を包み込んでいく。空間に灯る電球たちが具象する記憶。そこに「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと・・」の文字が重なり音もなく弾け散る。

 今もこの家に住むかえで、帰省したりりとすいれん、この家で生まれたさとこ、あらたにこの家の記憶を紡ぐゆりとかな、いとことしてこの家に訪れるとしろう、陰ながらこの家の家族のことを思うふみ、父と同じようにかえでとも親しくなったなかしま、かつてすいれんに連れてこられたいしいや、自らの過去との関わりに気付くことなく家を訪れたあんこ。
 それぞれの距離と時間でプロットされた記憶を抱きながら、それ自体もあらたな記憶となり少しずつそれぞれの中で滅失していくこの家の1日に重なっていく。家を出る前にロッキングチェアに腰をおろすさとこのように、やがてその場所すらが失われてしまうことへの揺らぎに深く浸されてしまう。

 舞台は、「SCENE」たちに描かれた1日から1年後の「EPILOGUE」へと塗り替わる。基礎だけになってしまった家に集う兄妹のなぞるようにその家の感触を確かめつつ、もう戻ることができず、消えてしまう感触に想いを馳せる。
 そのさらに1年後、再びこの町を訪れ駅前からかえでを呼びつける姉妹の娘たち。訪れた今は道路となってしまった場所に、かつての家は舞台を覆う布に隠れされた食卓のシェイプのように残る。
 単に過去への感傷だけに沈んでしまうのではなく、その先になにがあるのかわからないという冒頭のさとこが眺める汽車のレールのごとく、あるいはりりが語る『どうなるかわからない』というその今から見るもののあいまいさの中で、食卓の肌触りが、そして滅失し或いは蘇る記憶が、一色に染まらないそれぞれの歩みと共にあることに強く心を捉えられる。

 6月13日のソワレを観終わった時、作品はこの何年かに作られたいくつかの藤田の創作の集大成だと感じた。それは、ひとつには、この舞台にそれまでに彼が紡いできた世界が、まるでジグゾーパズルのピースの如くぴったりとはめ込まれていたから。

 かつて20分程度の短編で「20年安泰。」への参加作品として上演された『帰りの合図、』の光景が3人の記憶として変わることなくそのままに差し入れられていたし、三鷹市芸術文化センターなどで上演された『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』もその世界を変えることなく、EPILOGUE部分のディテールとしてしっかりと機能していた。
 海岸でとしろうに訪れた死の浮遊感は野毛シャーレでの『Rと無重力のうねりで』で編まれた感覚に重なり、物語の内容は違っても、記憶が滅失し変容していく感覚は、浅草橋ダンスクロッシング+吉田町十六夜スタジオでの都合4回の連作として上演された『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』の作劇経験が生かされているようにも感じた。

 集大成と思えたもう一つの理由は、舞台の世界観がその奥行きを損することなくこれまでのどの藤田作品よりも広く、深く、平易に、明確に伝わってきたから。前述のとおり、骨格ともいうべき1日の中で描かれるものの場所と時間が概ねその場所や時間をしっかりとスクリーン上に定義されていて(SCENE#4の牧場で牛に追いかけられるところだけが例外)、また差し込まれる記憶にも舞台上の今との時間差が示され、さらには、それらを貫くように戯曲と役者達がロールの性格や背負うものをしっかりと舞台に作り込んでもいて。
 だからこそ観る側が受け取りうる見晴しがあって、それは、作・演出が抱く世界の一部を切り出すのではなく、全体像を描き出す意図があるからこそなしえたことの様に感じられた。その圧倒的な完成度に目をみはりつつ、この何年間の藤田作劇は到達すべきところに到達し、ここに収斂するのかとも思った。

 しかしながら、6月22日に観た千秋楽の終演時には、同じように作品に凌駕されながらも、舞台にその世界では納めきれないざらつきのようなものを感じる。
 それは劣化ではなく進化であることは間違いなく、作品の完成度ゆえに初めて生まれあふれ出てきたものにも思え、やがて、過去の作品でも6月13日にこの作品を観た時にもあくまでも描かれた時間の内側に捉われその作品の内側で心を奪われ浸潤されていたのに、6月22日の大楽ではそこに閉じ込めきれない登場人物たちが描かれた時間から歩み出していくであろう先の質感にも同じように心を奪われていたことに思い当たる。
 その感覚は、作品が直接語ることなく観る側がその世界を受け取る中で醸成されてしまった部分もあるとても曖昧なもので、解像度などもぼやけ作品に作り込まれ語られた部分とは異質なものではあるのだけれど、一方で作家や役者がこの作品に対して公演中も歩みを止めることがないからこそ初めて至り、観る側にこぼれ出してきたもののようにも感じられた。
 その、集大成の先に現れた部分までもが作り手の掌にのせられ、さらに歩み、描きだされる世界を観たいと思った。
(2014年6月13日19:30の回/6月22日14:00の回観劇)

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