サンプル「ファーム」

10 羊のドリーを憶えていますか?(小泉うめ)

 舞台上には最初からシンプルな白木のダイニングテーブルとサイドテーブルの組合せ家具が置かれていた。その脚には観葉植物が施されていて、家庭や店舗で使うものとしては少し違和感がある。一輪挿しに活けられているオレンジ色の花も、その色に反して地味な感じがして、どことなく仏壇花を思わせる。天井からも観葉植物が吊るされていて、それは劇場以外のどこかで経験したことのある風景だった。
 これを客入れ時から見せていたことは、そういう狙いだったのだろうか。客席に着いた時には、そのテーブルがいずれ祭壇に変化することを想像した。ここで誰かが死んでいく。ここで誰かが、いや何かが見送られることになるだろうと感じていた。
 知り合いの姿もちらほら見える客席に少しずつ観客が埋まっていく。その時の感覚は、大きな斎場で誰かの葬儀を待つ時に似ていた。

 客入れから劇場には不穏な雰囲気のする音楽が流れていた。HOSEの宇波拓の音楽とサンプルの演劇の相性については上演前から話題になっていたが、実際に良くマッチしていて、日常の中の異常を期待通りに増幅させた。日用品のミキサーや掃除機と言った家電製品が舞台美術に使われることはサンプルの上演ではよくあるが、部屋の隅に置かれていたそれらが、場面転換や物語の謎が解ける瞬間に音を出しては、その存在を主張して心のざわつきを助長した。

 ある夫婦(古屋隆太・町田マリー)が離婚の相談をしている。別れたい妻と、別れたくない夫、そして二人の間には息子・逢連児(オレンジ)(奥田洋平)がいる。
 夫はバイオテクノロジーの科学者で、妻とは別れたくはないと言いながらも仕事ばかりしていて、家には年に1回帰ってくる程度らしい。
 妻は離婚が成立したら、パートで働いているスーパーの店長(金子岳憲)との結婚を考えている。二人の間に肉体的な関係はまだない。彼女は、誰からも祝福されたいから、そういうことは、きちんと離婚が成立してからにしたいと望んでいる。
 店長は、彼女の気持ちを汲んで、はやる気持ちを抑えて悶々とした日々を送りながら、状況の整うことを待っている。
 実社会でもみられるような人間たちの関係であり、彼らは夫婦生活の維持や新しい結婚生活といった希望を持って日常の中で奮闘している。他愛のないことだが、当人たちにしてみれば真剣であり、必死に課題に立ち向かって生きている。

 特異的なのは、息子の逢連児はファームと呼ばれる特殊な身体を持った人間で、身体の成長が著しく速く、他人の臓器や身体の一部を自分のものとしてその身体で育てる能力を生まれつきに持っていて、その身体を使って移植医療のためのグラフト培地となっている。
 生きる理由が献身である彼には未来の希望がない。知能レベルは高いので、もがきながら生きる普通の人間を極めて冷静に客観的に眺めている。
 このファームという臓器移植の方法が、人々に生命の回復や延長をもたらすだけに留まらず、ファームとレシピエントの間に異常なシンパシーを導き出し、奇妙な人間関係を構築させていく。

 ファームのクライアントである老婦人(羽場睦子)は、交通事故にあった愛犬の眼球の培養を依頼している。それくらいこの方法が普通に浸透していることを表現しているが、犬の眼の移植手術に人間が媒体となっているのか、という逆転現象にも脳内を混乱させられる。
 そして、いよいよ収穫(摘出)という時になると、老婦人はその犬の眼球と逢連児が友達としてこれからも一緒にいることを望み、収穫を拒む。また後に逢連児がガンであることが分かると逆に自らの臓器提供を望み、最終的には二人の間に子どもを持つところまでその感情をエスカレートさせていく。

 物語自体は日常的な会話によってテンポ良く進んで行く。その中には、どうでもよいような面白い話と、人が生きて行く上で大切なことが入り混じっている。それによって、大切なことは大切なこととして浮かび上がり、どうでもよいことはどうでもよいこととして流れて消えていく。前者だけではコントになってしまうし、後者だけでは説教じみて嫌気がさす。話すことによって、人が喜んだり悲しんだり、怒ったり笑ったりを繰り返していく。それらをリアルに再現しながら、それぞれの言葉の重みを観客が拾い上げていく舞台と客席の交信も、現代口語演劇のもたらす効果であろう。
 それは従来のサンプルの演劇とは少し異質な感じも受けたが、そもそもサンプルは青年団から派生した劇団であり、現代口語の会話劇は正にお家芸である。役者たちはいつもの作品以上に活々として見えた。

 なかなか離婚の決まらない夫婦の裏側で、スーパーの店長の男はゾーン・トレーナー(野津あおい)の所を訪れていた。そこで自らの悩みを相談しては、怪しげな儀式により苦悩からの解放を求めている。野津の持つ個性と演技力によって、そのいかがわしさが際立つシーンだった。
 ゾーン・トレーナーについては、役名以上の説明はされなかったが、「ゾーン」という言葉からA・タルコフスキーの映画『ストーカー』の記憶を蘇らせていた。その物語では、ある地域に隕石のようなものが落ちて、「ゾーン」と呼ばれるエリアが現れる。そこには滝の流れるトンネルや落とし穴のような井戸が存在する砂丘などがあり、通常の人間には「部屋」までたどり着くことができない。しかし、その先には人間の一番切実な願いを叶える部屋があると噂されており、それを信仰してそこへの案内を請け負うストーカーと呼ばれる者が存在している。
 物理学者と作家が客としてやってきて、三人はちょうど科学と芸術と宗教がそれぞれの立場から人間の幸せを求めるように「部屋」を目指して旅をする。その旅を通して、人々は自分が求めているものが、本当に求めているものとは異なるものであることを知る。

 人間が不老不死や病の苦痛からの解放を求めて研究を重ねて辿り着いた方法は、それによって別の課題が産み出す結果に繋がっていった。
 「ファーム」と同様の空想は、今年蜷川幸雄の演出で上演されたカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」でも表現されていた。臓器提供のために育てられているクローン人間たちが、提供のための奇妙な規範に則り暮らしており、やがて提供により衰弱していく。そのような暮らしの中で、ごく普通の学園生活や恋愛をして、ひたむきに希望を求めていく姿が、客席に生命の価値を問いかけた。
 逢連児が「ファーム」を繰り返し、次第に劣化して最終的にガンになる姿はそれに重なったが、本作ではそのような犠牲に支えられる人間側の倫理やそれを踏まえての生き方に焦点が当てられている。

 今日の移植医療は倫理的判断や法律の整備を上回る速度で進歩しているが、異種移植については、ドナーとレシピエントのマッチングという大きな問題がある。今後の大きな課題は移植を望まれる患者のための十分なグラフトを確保する手段と、それに伴う倫理法制度を整備することが重要となる。
 人体を使ってグラフトの培養をするような方法はSF的だが、現代の医学において理論的にはありえない話でもなくなってきている。しかしその研究の進捗と検討されてきた倫理からすると、今後の移植医療はこのようなステップは踏まずに、細胞レベルの培養によって進歩していくだろう。

 老婦人が大きくなったお腹の中の逢連児との子どもに「こっちは組み換え、こっちは組み換えでない、こっちは限りなく組み換えでない」と話しかけながら物語が終っていく。それはよく耳にする食糧問題のことではなく、移植時のグラフトの選択肢のことであり、人間に与えられた移植医療の選択肢でもある。逢連児が葬られると同時に、この物語の中で検討された「ファーム」という一つの選択肢が丁寧に葬られていくようでもあった。

 そう考えると、確かにこの作品は今この時に語られるべきであり、いつか思い起こされることがあるとすれば、整った移植医療制度の中で、かつて人間が与えられた方法に対して、ただ命を長らえることだけでなく、どのように人間らしく生きるかを考えて自分たちの道を選んだ証となるだろう。
(2014年9月20日18:30の回観劇)

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