サンプル「ファーム」

3 なぜこの作品が私にとって残念だったか(酒井はる奈)

 これほどまでに心が動かない作品も、私にとっては、なかなか珍しい。
 どんな芝居を見ても、観劇後には喜怒哀楽であったり、納得であったり、不可解さや不愉快に挑む高揚であったり、たいていは、なんらかのザワザワした感情があふれてくる。それを噛みしめながら、帰りの電車で物語を振り返る時間が好きだ。だが今回は、終演後も感情がまったく動かなかったので、芝居を思い出したいという欲求がまったく芽生えなかった。

 とはいえ原稿を書かねばならないから、無理矢理に振り返る。が、メモを見なければストーリーも思い出せない。チケット代を損したなぁとは思うが、芝居の善し悪しというよりは、好みの問題のような気がするので、怒りの感情もわかない。
 ここまで心が動かないのは、なぜだろう。まずはその理由を考えようと思う。

 物語は、オレンジという少年を中心に展開される。彼は誕生時の遺伝子操作の失敗により、人より早く歳をとり、老いてしまうという。また彼は、他人の臓器を自分の体に移植して育てる「ファーム」という仕事もしているらしい。オレンジの母はパート先の上司と不倫しており、夫に離婚を切り出す(削除)。夫はバイオテクノロジーを扱うエリート科学者。彼が息子の受精卵の遺伝子操作を失敗したことが、オレンジの異常の原因であり、夫婦の離婚の遠因になったことが、徐々に明らかになってくる。

 見たくない現実から目をそらし、責任を互いになすりつけあい、いがみあう父と母。その間で淡々と悟ったようにいる息子。この3人のうち、誰かひとりにでも愛着なり嫌悪なり、なにか引っかかる気持ちを持てれば、もう少し物語のなかに入り込めただろうと思うのだが、誰一人として興味が持てない。

 仕事に没頭して家庭を顧みない父、家事と子育てに燃え尽きて離婚しか考えられない母。よくあるパターンの枠を出ることのない、面白みのない人物設定だ。興味を持てるとするなら、人より早く歳をとり、「ファーム」という不思議な仕事をしているオレンジだろう。
 だが彼は常に植物のように無表情でつまらない。同級生の暴力をあおったり、母の不倫相手を不安にさせる発言をしたり、聖人のようでいてどこかねじ曲がった面も持っているようだが、その点もくわしくは描写されないので、掘り下げて関心を持つことができない。気がつけば私の目は、場面に応じてスルスルといろいろな形に変化する2つのテーブルのセットが面白いなぁ、ということぐらいしか追いかけていない。

 そんな感じだから、ストーリーの中心となる3人の存在に注目できず、作品に没頭できず、ステージの上で起きる出来事が、どこか遠くにある他人事のままなのだ。
 妻の不倫相手である上司や、上司がカウンセリングを受ける怪しいトレーナー、亡くなった飼い犬の目玉を「ファーム」である少年に移植する老婦人など、脇役にはちょっとヘンで愛嬌のある面々が揃い、ときに笑いを添えつつ舞台を盛り上げてくれる。だが、脇は脇のまま、ずっと“彩り”扱いのまま。脇役への興味だけでは、集中力が続かない。
 主人公家族のキャラクターも関係性も紋切り型の描写にとどまり、深みやおかしみを感じられなかった。それがこの芝居に興味を持てなかった最大の理由だと思う。

 息子へ優良なDNAだけを伝えるために遺伝子操作したり、死んだペットの眼球だけを「ファーム」に移植して生かしたり、成長に失敗した弟の一部を培養したりというエピソードは、バイオテクノロジーを駆使し、自分たちの都合で生物の命をかるがるしく操る人間の在りようを風刺したものなのだろう。
 そして家電や造花で飾りつけ、人工的な緑色のライトを当てた舞台美術は、自然の創造物のひとつである人間が、自ら“自然”を創り、支配しようとすることへの違和感を表現したものなのだろう。

 この芝居が、現代社会に警鐘を鳴らすテーマを取り上げていることを頭では理解できるが、そうした事態に悩んだり戸惑ったりしている家族3人の姿を、共感だったり反発だったり、自分の喜怒哀楽を通して受け止めることができない。しらじらとした気持ちで眺めてしまう。だからテーマに対する興味も、輪郭がぼんやりしたままで尽きてしまう。

 ひょっとしたら、芝居の構造やテーマを簡単に頭で理解できたように感じさせててしまう、わかりやすい設定やセリフ、舞台美術に、少しシラけてしまっていたのかな? とも思う。
 たとえ感情移入できる登場人物がいなくても、セリフや展開がもっとぶっ飛んでいて、私の頭を混乱させてくれれば、「これは何の暗喩なのだろう? このシーンとあのシーンはどうつながるのだろう?」などと、感情の代わりに頭を動かす楽しみを味わえたのかもしれない。

 だが、ストーリーはとてもシンプルで、遺伝子操作と命というモチーフが登場人物の組み合わせを変えながら弄ばれているだけのように思えて、「これはどういうことだろう?」と、深層まで考えをめぐらせたくなる気持ちになれなかった。設定や状況ばかりが丁寧に解説されすぎているようにも感じた。
 つまり、芝居の筋書きが方程式のように、あまりに無機的に破綻なく展開することに興醒めしてしまったのかもしれない。
 淡々となめらかな脚本と演出の向こうに、私には気づけなかった複雑な意図や構造が埋め込まれていたとしても、その糸口を見いだせないまま、芝居は終わってしまった。

 唯一、なんじゃこりゃと気持ち悪く心に引っかかったのは、オレンジが死を迎えるシーンだ。死んだ弟の細胞を培養して性器のように育てたモノを自分のおしりに入れたいとトレーナーに懇願すると、彼女は股間に“弟”を装着し、まるで男性同士の性行為のような形で挿入する。
 これは芝居だと分かっていても、目の前で倒錯した性行為の真似事を見せられるのは、居心地わるく気持ちわるかった。だが一方でこのシーンは、はじめてオレンジの心を深読みしたい、と思わせられる場面でもあった。

 この芝居に登場する人物たちは、ただひとりオレンジを除いて、みな仕事や子供や恋愛やペットや新興宗教(?)など、何かに依存することで息苦しい人生を耐えようとしているように見えた。そのなかでオレンジだけは、なににも心を委ねることなく、孤独であることをまるごと受け入れ淡々と生きているようだった。
 だが、死の間際に弟と一体となり歓喜するオレンジを見て、彼にも自分以外の誰かを求める気持ちがあったんだなぁと、意外に感じた。

 同じ親の遺伝子を受け継ぎ、人工的に生命を授かった弟は、オレンジの分身であると同時に他者でもある。分身でなければ愛せないという点に彼の自己愛を感じはするが、子どもの頃から閉じこもっていた自分という殻を弟に突き破られたオレンジは、ようやく他者とつながれた喜びにあふれているように見えた。
 彼に人間らしさをまとわせるのなら、こんな気味のわるい形で示すのではなく、もうちょっと素直に見られる形で見せてくれればいいのに。観客をゾッとさせる露悪的な表現が、サンプルという劇団の持ち味なのかもしれないが。

 あらためて振り返ってみると、自然と人工、依存と無関心、そんな身近で面白いテーマに触れる芝居だったことに気づく。いや、なんとなくではあるが、そうした意欲的なテーマに挑む姿勢が感じられたからこそ、チケット代を損したとは思っても、腹は立たなかったような気もする。
 嫌いではないけど好きではない。わりとどうでもいい。意欲作であることは伝わってくるが、どうも観念的すぎて心に響かず、距離を感じてしまう。設定やテーマなどには面白さを感じるだけに、それらが登場人物たちの魅力とリンクせず、深く読み解きたいという好奇心にもつながらなかったことが、とても残念な芝居だった。
(2014年9月25日19:00の回観劇)

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