桃園会 『もういいよ』

◎混沌で空白的な 今はやや沈静化しているだろうか。「静かな演劇」というタームが90年代前半以降、現代演劇の新たなジャンルとして持て囃された時期があった。アングラ芝居的、大仰な台詞や演技を舞台上から綺麗さっぱりと排除し、代 … “桃園会 『もういいよ』” の続きを読む

◎混沌で空白的な

今はやや沈静化しているだろうか。「静かな演劇」というタームが90年代前半以降、現代演劇の新たなジャンルとして持て囃された時期があった。アングラ芝居的、大仰な台詞や演技を舞台上から綺麗さっぱりと排除し、代わりに上げられるのは日常生活を切り取った動きが小さく、日常会話を淡々と喋る人間を通して関係性の機微を通して個人の暗部を暴路するような芝居がこまばアゴラ劇場を拠点とする平田オリザと青年団を中心として時代を席巻した、と一般には演劇史に刻印されている。その「静かさ」を全国的なものにしたのは関西、特に京都で主に活動する演劇人と劇団のある種の作風が似ていた為にそれを後押ししたともいわれている。その当時の京都系の舞台を観ていない私には果たして本当に「静か」だったのかは知る由もないが、少なくとも近年、そういった舞台を観るようになってから、私は平田オリザにも鈴江俊郎にも土田英生にもそのような思いを抱いたことはないし、そもそも演劇が日常生活を切り取ったからと言ってそれが我々が生きている現実そっくりのリアルな表現になるわけでなく、舞台表現として成立させるには観客を非日常空間に誘うための作為が必要である。それが例え異化的表現だとしてもそうならしめるための「演劇としてのリアル」さが前提とした上でのものである。

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