◎根こそぎにされた存在の遍歴と出会い
チンツィア・コデン
1ヵ月以上前に観劇した鵺的の「丘の上、ただひとつの家」(高木登作・演出)を振り返って、ジョン・レノンの「マザー」(1970)の歌詞を台本の骨組に照らし合わせてみると、その歌詞の背景に存在しうる人間の心境が、鵺的の上演から浮かび上がってくるように思った。
“鵺的「丘の上、ただひとつの家」” の続きを読む
小劇場レビューマガジン
◎根こそぎにされた存在の遍歴と出会い
チンツィア・コデン
1ヵ月以上前に観劇した鵺的の「丘の上、ただひとつの家」(高木登作・演出)を振り返って、ジョン・レノンの「マザー」(1970)の歌詞を台本の骨組に照らし合わせてみると、その歌詞の背景に存在しうる人間の心境が、鵺的の上演から浮かび上がってくるように思った。
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◎観客の世界を開く
澤田悦子・田中瑠美子・黒田可菜・廣澤梓(発言順)
―ワンダーランドのとりあえず最後の企画は、観客から見た演劇を明らかにしたい、という狙いがあります。今回、芝居に関心がある人で、話していただけそうな人を選んだら、たまたま女子会になった(笑)。みなさんはワンダーランドの「劇評を書くセミナー」に参加しています。顔見知りだとは思いますが、あらためて演劇に関心を寄せているわけ、何が劇場に向かわせているのか、ご自身と演劇の関わりについてお話いただくところから始めたいと思います。
“連載企画 観客が発見する 第4回(座談会)” の続きを読む
ワンダーランドサイト休止に伴い、2008年より掲載して参りました【レクチャー三昧】も最終回となりました。長年ご愛読いただきまことにありがとうございました。
元々はわたしが個人的な趣味で収集したレクチャー情報を友人知人に送りつけていたのを、北嶋孝さんが、ワンダーランドの企画にしてみませんかと声をかけて下すったのが、【レクチャー三昧】の始まりでした。ワンダーランドという公共の場を提供していただいたことで、一個人の趣味を越え、より多くの方々、一面識もない方々のお役に立てたこともあったのではないかしらと仕合せに感じております。
“【レクチャー三昧】最終回” の続きを読む
◎「そこに人がいる」魅力
高野しのぶ
蓄積できるブログ形式
-高野さんはブログとメールマガジンの「しのぶの演劇レビュー」、それにツイッター、フェイスブックなどネットで発信しています。始まりは2004年でしたか。
高野 ブログは2004年からですが、友人が2000年に、誰でも書き込める「しのぶの観劇掲示板」というサイトを作ってくれたのが始まりです。掲示板は投稿が増えると過去ログが消えてしまう。それはもったいないから蓄積できる形式にしたらと勧める人がいて、ブログになりました。
“連載企画 観客が発見する 第3回” の続きを読む
◎踊る肉体に表現の基盤を置いた作品が目立った
竹重伸一
今年横浜ダンスコレクションは記念すべき20年目を迎え、例年のようにコンペティション以外にも様々なプログラムが展開された。その内私はオープニングプログラムである 20th Anniversary Special Performancesと題された横浜ダンスコレクションの歴代受賞者の中から選ばれた2人、山田うんと伊藤郁女の過去の作品の再演、そして9カ国90組の中から選ばれた4カ国10組の振付家が2日間に亘って競ったコンペティションⅠを観た。
“横浜ダンスコレクションEX2015” の続きを読む
◎1+3=1+23
辻佐保子
資料調査のためにマサチューセッツ州ケンブリッジに一週間滞在することが決まった時、真っ先に “Cambridge theater” とキーワードを打ち込んで検索をかけた。当地の演劇事情には明るくないものの、行くからには何かしら演劇作品を見たかった。結局2作品のチケットを予約した。
“べドラム・シアター「聖ジョーン」” の続きを読む
2月は各大学は多忙をきわめているので、イヴェントもあんまりないだろうとたかをくくっておりましたんですが、意外や結構見つかりました。寒さに負けず元気に出かけましょう。(高橋楓)
“【レクチャー三昧】2015年2月” の続きを読む
◎2Φ14:気の毒でもすてきでもないエージェント人たち
高橋英之
最初の観劇では、まったく、笑えなかった。それは、よく言われるように、原作者チェーホフが『桜の園』を“喜劇”とした理由がよくわからない[注1]…というような理由ではなかった。ミクニヤナイハラが、その『桜の園』をモチーフとして現代の東京に展開してみせた作品は、自分の痛い部分にストレートに差し込んできた。当事者間の正当な売買の結果、長くその地にあった桜の木を、別の場所に移す。単にそれだけのことじゃないか。その単純なことに、過剰な意味を込める闖入者を登場させ、感傷的な言葉を吐かせるミクニヤナイハラに、自分自身のそっとしておいてほしい心の傷口を、無遠慮に広げられた気がした。拍手もせず、上演後のトークもすっ飛ばして、劇場を後にした。現実の世界で身に着けた心の鎧は、堅牢すぎて、笑いも感動も寄せ付けず、過剰な防衛反応だけがおきていた。ちょうど、海外の開発案件を進める中で、3つの訴訟に巻き込まれ、2つ勝ち、1つ負けたばかりだった。
にしすがも創造舎の屋外。工事用やぐらの上、体育館の上、そして倉庫の上と、3つの離れ離れの場所に、登場人物が現れる。体育館の上から、拡声器で、女(笠木泉)が語り掛ける。東京には木々がたくさんあるように見えるが、そうではないのだと。よく見かける桜はソメイヨシノであって、日本古来のヤマザクラは、希少種なのだと[注2]。それゆえ、自分は、この場所にある桜を守りにきたのだと。ミクニヤナイハラは、土着の桜を守ろうとする存在を、<緑を守る会>を名乗る女に担わせた。当事者ではない、よそ者に。
“ミクニヤナイハラプロジェクト「桜の園」” の続きを読む
◎素材としてのテクスト、揺るがされる観客
辻佐保子
これは演劇のテクスト?
イギリスの劇作家サラ・ケイン作の『4.48サイコシス』(4.48 Psychosis, 1999) には、登場人物がいない。文頭に付されたハイフンによって複数人による対話と読める部分はあっても、対話であるという根拠はどこにもない。幕や場といった区切りもされておらず、明確な起承転結もない。誰のものともつかない断片的な言葉が、意図的に組まれたであろう不規則なインデントで綴られていく。言葉どころか、数字のみが羅列される部分すらある。初めてテクストを読んだ時、上演されることを拒んでいるようだと圧倒されたことを記憶している。『4.48サイコシス』を書き上げた一週間後にケインが命を絶っていることから、演劇のためのテクストというよりも遺書であるとしばしば考えられてきた。それにも関わらず、上演へと引きつける磁力が備わっているのか、『4.48サイコシス』はケイン作品の中でも上演回数が比較的多い部類に入る。本稿では、2014年10月にブルックリンの小劇場セント・アンズ・ウェアハウス (St. Ann’s Warehouse) に招聘されたTRワルシャワによる上演を取り上げる(註1)。
“TRワルシャワ「4.48サイコシス」” の続きを読む
今年もご愛読まことにありがとうございました。2015年もまたどうぞよろしくお願いいたします。
(高橋楓)
“【レクチャー三昧】2015年1月” の続きを読む