#8 岸井大輔(ポタライブ「元」主宰)

「ぼくの仕事は、集団の取り扱いと形式化です」

岸井大輔さん-ポタライブは劇場の外で公演を成立、成功させた点で注目されたと思いますが、岸井さんはじめ、ポタライブに取り組んでいるみなさんは、野外で演劇がしたかったからポタライブを始めたというわけではないですよね。岸井さんが演劇に関わるなかでどうしてポタライブに行き着いたか。どうして野外に出ていくことになったのか。その理由をお聞きできたらと思います。その理由を解きほぐす上で、岸井さんの演劇との関わりを第一歩から振り返ってみたいと思います。岸井さんは中学時代から演劇に浸かっていたと聞きました。そのあたりから話を始めましょうか。(聞き手=柳沢望)

中高時代は小劇場全盛期

岸井 小学校のお楽しみ会で僕と一緒の班になると劇をさせられる、と、みんな逃げてしまって、しょうがなく一人で劇をやった記憶があります(笑)。小さいころから演劇好きでした。毎週日曜の朝は家で妹相手に人形劇を創って見せていました。中学受験をしたのですが、親は、受かったら好きなことしていいよと言っていたので、演劇部に入ろうと決めていて演劇部に入りました。

-進学されたのは有名な受験校だそうですが、学校名をうかがっても良いですか。

岸井 開成です。中高一貫校だから、高校生から直接情報をもらえるんですね。小劇場を教えてもらい、どんな劇団がおもしろいか紹介してもらいました。演劇部の顧問の先生が宮沢賢治研究で知られた方で、ブレヒトの芝居小屋や黒テントに出入りしていて、公演情報をいただいたり。いま思うと先生や先輩に恵まれていたんです。

-劇作への興味は高校生になってからですか。

岸井 高校生男子だけでできる台本が当時あまりなかったので、自分で書きました。処女作は高校一年で、タイトルが「遠近法の消失点」(笑)。根暗な若者が頭で考えましたという台本で、全然受けない(笑)。それで、あっさり時代精神にのまれ、「やっぱり笑わせて感動させよう」と。そのころ僕の周りでは、「ラジカル」がはやっていて、僕も宮沢章夫さんが好きで。彼が放送作家をしていた深夜番組をエアチェックしたりテープ起こしたりしてそのまま稽古をしたりしていました。

-時代的には1980年代の初めごろでしょうか。

岸井 82年から88年まで開成にいて、小劇場全盛期に立ち会ったことになります。野田秀樹さんと太田省吾さんの舞台は欠かさず見に行っていました。

-野田さんと太田さんはタイプが違いますが、野田さんのどこが好きなんですか。

岸井 ぼくは、よく、「これは劇になっていない」と言いますが、お二人の作品は、僕が見たときはいつも「劇だ」と強く感じました。ぼくはこの二人で、演劇を体験した。

-その頃から、一貫して「演劇」の概念を持ちながら、自分でも「演劇」を実現したいと思い続けてきたわけですね。

岸井 22歳までは自分は劇になってないと感じても、お客さんを飽きさせるのがとても怖かったんです。お客さんが楽しむのを第一に作っていた。そしたらある時期ドンドン体調が悪くなって、作れなくなってしまった。で、22歳でいったん創作をやめたんです。

-当時は、お客さんがどうやったら楽しむか、お客さんにどんなことをしたら受けるかを心得ていて、そんなやりくちはいくらでも繰り出せたということでしょうか。

岸井 そうですね。お客さんを笑わせることも泣かせることもできるぞ、テクニックでお客さんを集めることができるぞ、と、思ってましたねえ。あ、でも、当時、お客さんがそれほど集まらなくてよかったと思う(笑)。そのころぼくの芝居を見たお客さんにときどき、「あのころもおもしろかったね」と言われると、それだけで体調が悪くなるので(笑)。今はちょっとおもしろければインターネットで話題になってお客さんが集まりますよね。当時ネットがあったらと思うとぞっとします。

-楽しく高校演劇をした後、早稲田大学に入学したらもっと本格的に演劇を志そうと…。

岸井 そう思ったんですけど。早稲田の演劇サークルをほとんど回ったんですが、おもしろいところがない(笑)。なんと倣岸な若者であったことか! 一つだけ、旗揚げ前のカムカムミニキーナがはおもしろかったんだけど、ここに入ったら松村さんがいるわけだから書けないなと思った。ぼくは書きたいわけだから。

-ちなみにカムカムミニキーナはどんな芝居を見せる団体なんですか。

岸井 野田さんの劇作術をきちんと受け継いで咀嚼し、成功したほとんど唯一の劇団ではないでしょうか。

高校の仲間と演劇活動

-学内で演劇する場所が見つからないとなって、ではどうしたんですか。

岸井 高校時代の仲間と演劇を始めました。

-劇団を作ったんですか。

岸井 劇団という語感に当時抵抗があったんです。で、どのような集団がいいのか毎回悩みながら、台本を書いては周りの人に出てもらっていた。ともかくおもしろい奴と会いたいと思っていて、面白そうな人がいるときくと、すぐに会いにいって、「一緒になんかやろう」と声をかけて。

-東浩紀さんと知り合ったのはそのころですか。

岸井 ああ、そうですね。彼は高校時代からドストエフスキーを原書で読んでいたとか、別格でしたが、そのころ知り合った人は、みんな自惚れが強くて、自分が一番賢くて面白いと思っているようなやつばかりでした。

-いろんな人が集まる文化サークルのような所で出会ったという感じですか?

岸井 ぼくは早稲田にいても劇研(演劇研究会)などに入らずに演劇活動をしてきました。あっちは、毎日走っているし、発声練習をしているので、内心とてもあせっていて(笑)。口では「毎日体鍛えたってなんになる。それよりも、面白いやつと面白いことがしたいんだ」とかいっていたけど、とりつかれたように、人に会いに行っていた。その習慣は最近まで続きます。

-そうすると、開成人脈が大きいのでしょうか。

岸井 うーん。たとえば、高校の同級生の紹介は多かったので、だから、そのとおり、ですが、たとえば、宮台さんとかが語られるような、エリートの人脈(笑)があったというわけではないですね。偶然出会った人から、また友人を紹介されて、の繰り返しですよ。たとえば、木室と知り合うのもそのころですが、友人が出る大学(ICU)のダンスサークル公演を観にいったら、出ていたのをナンパしたんです。木室は、そのとき、ただ何の工夫もなく、コンタクトインプロを舞台上でやっていたんですが、そのころはダンスの知識がなかったので、あんな風に動けるなんて天才なんじゃないかと思って(笑)

-大学は第一文学部ですよね。最初からドイツ文学ですか。

岸井 二年から分かれるので、そこからドイツ文学専修です。ただぼくは一年を3回もやっているんです。

-「夜魚の宴(ヨザカナノウタゲ)」(夜魚の宴第1回公演)という作品は、岸井さんの作・演出となっていますね。これは高校生の仲間と一緒に上演したんですね。

岸井 そのころには友人のネットワークも少し広がっていました。上演した1993年は23歳でそれ以前を振り切ろうと始めた芝居です。

-「夜魚の宴」を始めた時点で、80年代的な小劇場演劇がやりたいわけではない、とお考えになっていたんですか。

岸井 22歳の活動停止のあと、突然勉強し始めたんですよ。中学高校時代はいわゆる「80年代小劇場」どっぷりで、「軽く消費できるおもしろいことがすべて」という時代でしたし、僕もそう思っていました。だから、古典なんて読む前から馬鹿にしていて、まったく読まなかったんです。ところが、軽く消費できる演劇、笑えて泣ける演劇をいくらみても、やっても、野田さんや太田さんの舞台を見た後のような、満足を得られない。比喩的にいうのではなく、演劇から満足を得られないと、ぼくは、どんどん体調が悪くなってしまうんです。で、面白いものはポップの外にもあるんじゃないか、と思って探していたら、古典も結構おもしろいということを発見したわけです。>>


岸井大輔(きしい・だいすけ)
劇作家。1970年生。
インタビュー以外の主なプロフィールとして
主宰団体:劇団「simple」 パフォーマンスユニット「a round」 アートプロジェクト「-2LDK」
代表作:「日記」「祝宴」「お惣菜やさん」
参加企画:金沢文庫芸術祭2004 MSAコレクション 冬のサミット2006 夏のサミット2007

柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年、長野県生まれ。2005年3月法政大学大学院哲学専攻博士課程単位取得退学(フランス哲学専攻)。主要な論文に「『笑い』における苦々しいもの -『ゴドーを待ちながら』の悲喜劇性について-」(2004年、法政大学大学院紀要第53号)がある。在学中からアトリエサー ドのTH叢書や『美術手帖』誌、商品
劇場のブックレット、Cut In などで舞台関連の記事を発表。2001年から2003年まで、ダンスの学校PASで「ダンス批評」の授業を担当した。現在会社員。