観客のあいだで考えつづけるということ
―「ワンダーランド」休止によせての覚書き

 堀切克洋

1.「面白い/面白くない」の二分法を超えて
 劇評は誰のために書くのか? 公演初日に書かれたものであれば、千秋楽までに劇場に足を運ぶ観客のための指針ともなるだろうが、大抵の場合は劇評を読んだ時点でその公演はすでに千秋楽を迎えている。では、読者が活字を通じてその未見の舞台を「追体験」することが目的かというと、必ずしもそういうわけではない。むしろ、読者が追体験するのは、書き手が「頭の中で考えたこと」のほうだろう。
 だから結局のところ、公演自体がいかに面白かったとしても、書き手が面白くなければ劇評はつまらないものになる。いかに素晴らしい食材を仕入れようとも、シェフが三流であれば、できあがる料理の質はたかが知れたものとなるのと同じことだ。

 もちろん、この喩えはある面において適切ではない。なぜなら、何が素晴らしい食材かということは、実際の料理であればそれなりの客観性(鮮度や糖度や旨みなど)が担保されるものだが、舞台芸術分野においてはあらかじめ答えがあるわけではないからだ。正確にいえば、公演は「食材」ではなく、すでに調理された「料理」に喩えられるべきものである。一流のシェフはそれ自体において一流の評論家でなければならない。

 しかし、美味しい料理を口にしたときに「美味しい!」としか言えなかったとしたら、その体験は自分だけのもので終わってしまうことだろう。もちろんシェフが三流なら、微笑みながらこう言ってくれるはずだ。「お客さまに『美味しい』の一言をいただけるのが何よりも励みになります」。だが、私たちは必ずしも「美味しい/美味しくない」の二分法の世界に生きているわけではない。舞台芸術においても事態は同じだ。私たちは別に「面白い/面白くない」の二分法の世界に生きているわけではないのである。

2.インターネットが欲望するもの
 劇評サイト「ワンダーランド」が北嶋孝氏によって立ち上げられたのは、2004年のことだった。ちょうどブログという形式が世間に浸透しはじめていた頃のことだ。ホームページが無料でかつ簡単に開設できるというだけでなく、さまざまなデザインからページをカスタマイズできるという強みもあって、SNSがまだそれほど普及していなかった当時、個人が「日記」をブログにつける(そしてそれらを閲覧しあう)ということ自体が強靭なコミュニケーションツールとなっていたことを当時大学1年生だった私は思い出す。

 ブログは「日記」であるから、演劇やダンスを観劇した人はそこに感想や雑感を書きつけることになる。2004年から劇場通いをはじめた私もまた例に漏れず、ブログに感想を書きつけていたひとりであった。当時の空気をもっとも象徴するのは、中学生ブロガー(当時)の藤田一樹くんによるブログ(「藤田一樹の観劇レポート」のち「The review of Kazuki Fujita」)であろうか。もうログが残っていないので閲覧できないが、彼は、中学生にして劇場に足繁く通い、それをブログに記事として毎日のようにアップしていた。

 だが所詮、日記は日記にすぎない。友人の結婚式で見せられる思い出のポートレイトの数々がきわめて退屈であるのと同じように、個人的な感慨はどこまでいっても「個人」の域を出ない。私自身、かつてブログに書きつけていたこともまたそうで、いまから思えば好き勝手なことを書いていたものだと思う。「個人の意見である」ということは、そこに「責任」が発生しないということを意味する。健康食品やダイエット法の宣伝映像の右下に小さく「※個人の見解です」と書かれているアレだ。

 あれから10年が経過してみてよくわかったのは、インターネットを通じて欲望されるものは「個人の見解」の「平均値」だということである。それは「食べログ」や「トリップアドバイザー」といった口コミサイトに顕著な傾向であろう。ひとつの口コミの信頼性は低くても、それを平均化すれば信頼性はぐっと高まる。つまり、求められているのは「書き手のオリジナルな意見」などではないのだ。むしろ逆に、大多数の意見の一致という「非オリジナリティ」なのである。

 冒頭でわたしは、面白い舞台を「面白い」という幼児的な一言で片付けてしまわないような劇評を読みたいと言ったのだった。この言葉は「美味しい」という言葉と同じくらいに便利なことばだが、そのぶんだけ空疎なことばでもある。もちろん、美味しいワインを飲んで滔々と蘊蓄を語りだす男は面倒であるが、かといってどんなワインを飲んでも「美味しいね」(あるいはその派生語としての「飲みやすいね」)しか言えない男と付き合うのはやめておいたほうがよい。

 しかし、このように「劇評」を定義するのならば、インターネットを通じて「劇評」などそもそも欲望されていないということになるだろう。

3.劇評は「パブリックなもの」である
 「劇評を書く」ということは、多かれ少なかれ、「個人であること」を括弧にくくるということでもある。つまり、個人的な関心や世代をいったん棚上げにしたうえで、公演のもつさまざまな意味(社会的、美学的、歴史的、あるいは政治的な意味)について言葉を紡ぐということである。それはつまり自分自身が「社会」をどのように考え、どのような「美学」を規範とし、どのように「歴史」と向かい合い、どのような「政治」を理想に掲げるかを表明するということでもある。劇評とは「公的議論の場」なのである。

 別の言い方をするなら、ある一定の人々が共有できる問いに対して、ある反論を想定しながら、暫定的な答えを出してみせるということ。別にとりたてて論争的になったり戦闘的になったりする必要はないが、ひとりの「わたし」にすぎないはずの自分が「わたしたち」を仮構しつつも、その「外側」にいる人たちの存在も意識しつつ、その「両側」に向けて書くということ、それが劇評の作法である。そうでなければ、劇評ではなくもはや「ファンレター」か「ただの愚痴」になってしまうだろう。

 といいながらも私はいま、もしかしたら「劇評」という言い方がよくないのかもしれないとも思いはじめている。そもそも「劇評家」などという言葉ははたして昔から通用していたのだろうか。調べてみないとわからないが、ごく最近に使われはじめた言葉ではないのか。美術の展覧会を評する人のことを「展評家」といったり、映画を評する人のことを「映画評家」といったりしない以上、「劇評家」というのはどことなく違和感のある言葉であることは確かである。私自身、そのように自己規定をした試しは一度もない。

4.フリーズドライとしての劇評
 インターネットの特質は、「誰もが情報を発信できる」ということである。そのようにいえば聞こえがよいが、逆にいえば発信できるのは「情報にすぎない」ということでもある。机に座って本を読む仕方と、タブレットで記事を読む仕方には、大きな落差がある。端的にいって集中力がちがう。パソコンやスマートフォンではなるべく「早く」「役に立つ」情報を得ようとする。こちらから頼んでもいない大量の情報が、メールボックスからフェイスブックからRSSから流れ込んでくるのだから、読み方はどうしたって「流し読み」となる。そのような人々に向かって「情報」以上のものを発信しようとしたところで徒労に終わってしまうだろう。

 しかも、一般的な通念に反して、これらの「情報」は思いのほか蓄積していかない。ページ検索ができる、タグづけができるといった利点はあるかもしれないが、古い情報はどんどん「奥」へと追い込まれることになり、ひいてはその記事があったことさえも忘れられてしまう。しかも、過去のログが消去されれば、外部からその情報にアクセスすることはできなくなってしまう。実際のところ、過去のさまざまなページは(下手すれば数時間前の新聞記事さえも)「ページが見つかりません」という一言で片付けられてしまうことになる。

 このような事態はこれからますます加速していくのだろうか。そうだとすれば、数十年後の演劇愛好家たちは、現在の演劇やダンスについて書かれたものの「少なさ」にむしろ驚くことになるのかもしれない。かつて有益な情報として即時に共有されていたものは、即時性と有益性が強ければ強いほど、皮肉なことに鮮度が落ちるのが早い。「冷めたピザ」がその時点でピザのピザらしさを著しく失っているのと同じことだ。ピザは焼きたてでなければならない。寿司は握りたてでなければならない。

 劇評とは「保存食」のようなものである。保存食は毎日食べるものではない。それをつくるための調理の幅もそう広くはないだろう。しかしそんな制限のなかから、日持ちのする、しかも美味しい保存食が時折現れてくるものだ。オレゴンフリーズドライ社の商品のなかでも「サバイバルフーズ」と呼ばれる缶詰は、缶内の水分と酸素のほとんどを除去することによって、なんと「25年」も備蓄可能なのだそうだ。しかも、合成保存料等を使用しておらず、美味しいとのことである。

 劇評は誰のために書くのか? もちろんまずは同時代に生きる観客に対してという答えが返ってくるだろう。しかし同時に、「25年後」の演劇研究者や愛好家たちに「この当時は、このような社会的状況で、このような議論がなされていたのですよ」ときちんと伝えることも重要な役割である。自分の書いていることばや歴史観が、「25年後」の読者にも通用するものであるかどうか。それは情報が溢れかえるインターネット時代の「読み書き」の作法に抗うことなのかもしれないが。

5.出版不況のはざまで
 インターネットの普及のおかげで、誰もが自分の意見を口にすることができるようになり、そのうちの一部の人は「劇評を書く」ということに貢献するようにもなっている。しかし、そこで書かれたものは、なんらかの公的機関によってデータベース化がされないかぎりは、紙媒体として「残す」ことが絶対的に必要なのだと思う。もちろん、構造的不況を抱える出版業界のなかでも「雑誌が売れない」ことを思えば、その困難は明らかだ。

 JPAF(舞台芸術財団演劇人会議、理事長=平田オリザ)が発行する『演劇人』は2009年を最後に刊行が休止しているし、日本劇作家協会(会長=坂手洋二)による戯曲雑誌『せりふの時代』は2010年に休刊、AICT(国際演劇評論家協会)日本センター(会長=新野守広)から季刊として出版されてきた批評誌『シアターアーツ』は2015年から原則ウェブに移行した(演劇以外でいえば、『ぴあ』が2011年に休刊、『美術手帖』を刊行する美術出版社は2015年3月に倒産して民事再生法の適用を申請したことは記憶に新しい)。
 そのようななかで、京都造形芸術大学舞台芸術研究センターが刊行している『舞台芸術』は2009年にいったん休止をしていたが、2012年から年1回のペースで刊行が続いていることは喜ばしいことである。だが、逆にいえば、このように大学の研究センターが予算を確保しなければ、演劇雑誌の存続はほとんど不可能であるということでもある。

 したがって、必ずしも「雑誌」である必要はないのかもしれない。たとえばパリの劇場入口では「ラ・テラス」という月刊のフリーペーパーが配られていて、そこには前記事だけではなく、劇評も合わせて掲載されている。無料ではあるが70ページ以上のボリュームで読みごたえがあり、演劇・ダンスだけでなくサーカス、音楽などと対象も幅広い。毎年夏にはアヴィニヨン演劇特集号が発行されるが、部数は10万部だという。だが、これだけのものを作るには劇場の協賛も必要になってくるだろう。

6.劇評の文体について
 最後に、文体についても少し触れておかなければならない。劇評というよりは批評といったほうが正確かもしれないが、基本的な位置づけとして批評は「研究」でもなければ「ジャーナリズム」でもない。アカデミズムの文体とは、まだ誰も言っていない仮説を証明するために、すでに確立された方法論によってロジカルに検証していくものである。一方、ジャーナリズムの文体とは、現在起こっていることを記録として、事実として淡々と伝えるというものである。

 ジャーナリズムの文体は、簡潔で簡明でなければならない。「この新聞記者は実に難解な記事を書く」ということはあってはならない。現在起こっている出来事に対して、オリジナルな問いを立て、検証し、誰もが驚くような答えを導き出す必要はない。他方、アカデミズムの文体も、簡潔かつ簡明であるのが望ましい。しかし、「いままで誰も考えなかったこと」を示さなければならないので、いかに簡潔かつ簡明に書こうとも、しばしば難解さを伴うという事態が起こりうる。検証が実に緻密だったり、論理がアクロバティックだったり、他分野の知が援用されたりするためである。

 インターネット上で欲望されるものは、どちらかといえば「ジャーナリズムの文体」のほうである。ただし、そこには「問いかけ」がなく、現状の追認以上のものではないということが多い。かといって研究者の書くテクストは、数名の批評家を除けば、「問いかけ」があったとしても退屈するものであることが多い。その理由はといえば、専門分野の知識がフルに活用されすぎていて「黙ってわたしの話を聞きなさい」という声がどうも後ろから聞こえてきてしまうのだ。そういう「声」が聞こえた瞬間に、その人の話にはもう耳を傾けたくなくなってしまう。

 冒頭にも書いたように、料理とちがって舞台芸術では「客観性」があらかじめ担保されているわけではない。それをあたかも客観性があるかのごとく振舞っていること自体がおそらく問題なのである。客席にはさまざまな観客が座っており、全員がその日の「観客」という集団をかたちづくりながら、かつ自分は隣の人とはちがう観客でもある。しばしば指摘されるように、「個」でありかつ「全体」であるのが演劇の観客のあり方の特徴なのだ。したがって、書き手が観客全体を「代表」してしまうような書き方は、文体を問わず、おそらく退屈なものとなってしまうのである。

 自分とはまったくちがう見方や考え方をしている「自分の横に座っている観客」に向けて言葉が発せられているかどうか。繰り返しになるが、それは「平均的な意見」に照準を合わせることでもなければ、「個人の意見です」と開き直って勝手なことを書くことでもない。客席における経験とは、おそらくその両者のあいだでつねに揺れ動いているものなのだ。劇評や批評が「公共的な言説」であるとすれば、それはまさにこのような意味においてであり、そのような「観客の複数性」をきちんと自覚している劇評こそが、「酸素」や「水分」がしっかり抜けて長期保存可能なものなのだろう。

7. むすびにー25年後の観客へ
 「ワンダーランド」の活動はいったん幕を閉じる。最後に結論めいたことを述べておくなら、おそらくワンダーランドの功績のひとつは、まさしく「さまざまな観客がいる」ということを、文体のレベルで可視化したという点にあるのだろう。言うなれば、このサイトは会社勤めの演劇愛好家から、演劇やダンスを専門とする研究者までが同居している空間であった。それは実際の観客席そのものでもある。
 ただし、インターネット的な「個人化」の推奨は、多様な観客の声を拾ううえでは有用であっても、クリティークの深度を深めることにはならない。そのことだけはしっかりと自覚しておく必要がある。

 自分がある作品を「面白い」と思うということは、その裏側には、その面白さを理解しない、あるいは反発する観客がいるということを意味する。劇評や批評は、誰よりもまずその人たちに向けられていなければならない。なぜなら、その人たちはその作品を見たことがない「25年後の観客」にもっとも近い立ち位置にいるからだ。フライドポテトはなるほど美味しいが、それが25年後の自分が「食べたい」と思っているものだろうか。それは自分がいまフライドポテトを食べるかどうかにかかっている。

 この期に及んでとりとめもなく原稿を書かせていただき、ありがとうございました。最後になりましたが、ワンダーランド代表の北嶋孝さん、そして歴代の編集部の皆さま、いままでお疲れさまでした。25年後にまたお会いいたしましょう。

【筆者略歴】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
 1983年福島市生まれ。演劇研究・批評。東京大学大学院総合文化研究科博士課程(表象文化論)。早稲田大学演劇博物館(演劇映像学連携研究拠点)研究助手を経て、2013年9月よりパリ第7大学博士課程に留学。専門はアントナン・アルトー研究、現代舞台芸術論。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に『北欧の舞台芸術』(三元社)。2013年、第17回シアターアーツ大賞受賞。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/

 

 

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