忘れられない一冊、伝えたい一冊 第33回

◎「如月小春のフィールドノート」(如月小春著 而立書房)
 オノマリコ

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 如月小春が生きていたら、と思うことがある。彼女がいれば、いまの日本の演劇はもう少し広かったんじゃないか。
 わたしは如月小春に会ったことはない。彼女が演出している舞台を見たこともない。ただ戯曲や演劇についての論集を読んだことがあるというだけ。(それも数冊しか読んでない。)1980年代の演劇についての知識もいびつだ。そんな頼りのない頭からの推論なのだが、1980年代から彼女が急逝した2000年までの間、演劇に関わる多くの人たちの中で如月小春だけが注目し、耕していたものがあったのではないだろうか。
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サンプル「永い遠足」

◎奔放な想像力、「オイディプス王」の物語が背骨
 水牛健太郎

 にしすがも創造舎の劇場は、もともと中学校の体育館だ。がらんとした広さをそのままに、左奥の隅には白いプラスチックの大きな植木鉢がいくつも置かれ、そこから緑のツルが周り回廊の柵にまで伸びていた。持ち主に捨てられたかのような寂しさと、裏腹のたくましさ。右奥の隅にはブルーシートが何枚も、床から周り回廊の上あたりまで覆い、その中にはたぶん足場が組まれている。周囲には立ち入りを阻む黄色いテープとレッドコーン。これもセットなのだろうが、実際に補修工事か何かをしていても違和感はない感じ。全体の印象は、よく計算された雑然さ。
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AI・HALL「寿歌Ⅳ〜火の粉のごとく星に生まれよ〜」

◎劇場と観客を祓い、喜びを寿ぐ
 岡野宏文

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 AI・HALLで北村想作・演出「寿歌Ⅳ」を見ました。
 「寿歌」は「ホギウタ」と読みます。「ジュカ」とか読むと、「本当にあった怖い話 呪歌」になってしまうのでよろしくありません。呪いの歌よりもむしろ寿歌は「寿ぐ歌」ですから佳き時、祝うべき時に歌う、あるいは歌われる歌ということになります。なにが寿がれるのかはまだちょっと後に書きましょう。
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『観る身体』身体×カメラワークショップ by 岩渕貞太

◎ダンスを観る、撮す、生まれる
 日夏ユタカ×廣澤梓

●踊らない、ダンスのワークショップ

 それはちょっと珍しいダンスのワークショップだった。参加者がまったく、踊らないのだ。いわゆる、ダンス的な動きを求められることもない。
 それでも舞台はあって、照明も灯り、録音された音楽が流れるなか、ダンサーの岩渕貞太がひとり、踊る。それは以前、おなじくSTスポットで上演された岩渕の作品である『living』のワンシーン。時間にすれば10分程度、それが3回繰り返された。

 ワークショップの約10名ほどの参加者は、1回目は、設えられた観客席にただ座って、岩渕が踊るのをみていた。2回目と3回目のダンスについては、持参したカメラでその様子を撮影する。
 ただし、『living』はその場で繰りだされる音を聞きながら即興的に踊る作品である。また、岩渕の作品は、本人曰く、「触媒によって変わるところがあるダンス」でもある。ワークショップではCDにパッケージ化されている音楽※を再生し、それ自体は変化しないものの、作品の特性上、写真を撮影する参加者が発する音や気配、動きにも影響されるため、3回とも、似てはいるけれども、まるでちがうダンスになる。
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劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」

◎理想主義と保身と糾弾欲求
 北野雅弘
 

「起て、飢えたる者よ」公演チラシ
「起て、飢えたる者よ」公演チラシ

 劇団チョコレートケーキの「起て、飢えたる者よ」を観た。新宿御苑駅の近く、サンモールスタジオでの上演だ。
 スタジオが三つの空間に分けられ、中央の舞台を挟んだ形で客席が作られている。舞台はあさま山荘の小さな居間。テーブルに椅子が四脚、片方に窓、もう一方に本棚。セットは柱を何本か残し、観客の視界をさえぎる。

 冬になって利用者のいない軽井沢の山荘。管理人の妻で、一人山荘に残った西牟田が居間に入ってくると、突然五人の男たち(坂上・坂内・吉田・江藤兄弟)が乱入してくる。男たちは家具をひっくり返して窓際にバリケードを作り、自分たちは、「連合戦線」で、銃による殲滅戦を遂行する革命戦士だと名乗る。
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忘れられない一冊、伝えたい一冊 第32回

◎「後宮小説」(酒見賢一著、新潮社)
 玉山悟

【「後宮小説」表紙・玉山さん蔵書】
【「後宮小説」表紙・玉山さん蔵書】

 「忘れられない一冊」という企画ですが、私は演劇の本はあまり読んでなくて、読んでも全部忘れてしまうので、「忘れられない一冊」って実はないんですよね(笑)。私の「忘れられない一冊」は酒見賢一のデビュー作「後宮小説」です。酒見賢一は好きですね。全作品初版で持ってるんじゃないかな。「後宮小説」に至っては、3冊持っているんです。最初に手に入れた単行本が6刷りで、初版が欲しくて古本屋を6年も探してようやく手に入れました。それに文庫本。合わせて3冊持ってます。

 酒見賢一の好きなところは、非常に博識なところと、文章が格調高くて美しいところ、作品の設定の面白さですかね。ただ、すごく寡作な作家なので、新作を待っている読者は読むものがなくて。単行本を持っているのに、文庫本あとがきが読みたくて文庫本も買ってしまうみたいなところがあります(笑)。
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劇団鹿殺し「無休電車」

◎泣き顔の青春グラフィティ
 岡野宏文

 しょっちゅう尊敬しているものだからまるで無分別のように見えなくもないが、わたしの畏敬する歌手・中島みゆきは、「ファイト!」という素敵な青春応援歌の中でだいたいこんなようなことを歌っている。正確な歌詞を書き写せないさる陰険な事情のあることはお察しいただきたい。

 −闘う君を闘わないものが笑うだろう。だけど、ファイト!  君はつらさの中をのぼっていけ

 今から書く劇評において、批評される舞台は「闘うものたち」の作り上げたそれであった。そして私は、嗤っていはしないものの、少なくとも「闘わないもの」なのだった。まったく、この業界において私ほど闘わないものは珍しいといわねばならない。へこたれることにかけて私はかなり卓越している。朝目が覚めたといってはへこたれ、部屋から玄関までが遠すぎるといってはへこたれ、なんのかんのといってはへこたれてばかりいる。

 そこで、「闘うもの」と「闘わないもの」はセーヌの左岸と右岸にたたずむ二人の人に似ていることになる。いや、別に善福寺川でもいいのだけれど。とにかく、両岸にそれぞれ向かい合って立つ二人にとっては、流れが逆方向なのである。同じ右へスタートを切ったとて、わたしはヘナチョコにあえなく水に流されていくだけだ。踏ん張って流れをさかのぼっていく方の裳裾にも触れる暇がない。その遠近法を手元に以下をお読みいただきたい。
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忘れられない一冊、伝えたい一冊 第31回

◎「巨匠に学ぶ構図の基本—名画はなぜ名画なのか?」(内田広由紀著 視覚デザイン研究所)
 山田宏平

「巨匠に学ぶ構図の基本」表紙
「巨匠に学ぶ構図の基本」表紙

 演じるときも、演技を指導するときも、誰かの上演を観るときも、いつも関係性について考えながら演劇に接している気がする。演劇は、時間や事件を経て変わりゆく関係性と、その中で変わってゆく人々の状態を味わうものだと、個人的に思っているからだと思う。

 関係性は、基本的に空間と身体の使い方で表わせるものだと思う。空間は言い換えると距離や配置で、身体は視線と姿勢と言い換えたくなる。
 僕は演劇に関わるとき、距離と配置と視線と姿勢の変化を楽しんだり工夫したりしているのだと思う(ここに速度と熱量、呼吸と動作を足したくなる)。
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悪魔のしるし「悪魔としるし/Fiend and Symptom」

◎「と」が示す距離
 柴田隆子

「悪魔としるし」公演チラシ
「悪魔としるし」公演チラシ

 パフォーマンス集団「悪魔のしるし」の新作タイトルは、集団名にある所有ないし所属を表す格助詞「の」を、並列接続詞「と」に置換えただけのタイトルである。だが、この「と」によって「悪魔」とその「しるし」は別々の存在となった。この「悪魔」を演出家、その「しるし」を演出作品と考えると興味深い。わずか一音節の違いではあるが、演出家である危口統之と作品との間に距離が生じる。本作では、この距離が作品の見え方を大きく変えたように思えたのだ。
 換言すれば、これまでの悪魔のしるし作品は、多かれ少なかれ演出家危口が舞台上に地縛霊のごとく張り付いた、「危口ワールド」的展開であったとも言える。作品の素材も世界観も「危口」ならば、舞台上にも「危口」が可視化されていた。もちろんそれは演出家の死と執着を示す記号としての人形であり「ゾンビ」なのだが、ともすると他者不在の自己充足的な世界観にも見えた。そしてそれを避けるためになされる「物語」や「意味」や「解釈」などの形象化を脱臼させる演出上の試みが、作品へのアプローチを困難にしていた。
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