AnK「SUMMER PARADE」

◎含羞について
 川光俊哉

「SUMMER PARADE」公演チラシ
公演チラシ

 「ぼくは(と一人称で述べる)、演劇に対して、急速に興味を失いつつある」と、青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」の劇評『カレー礼讃』に、ぼくは書いている。いまも、その思いはほとんど変わらない。舞台芸術は「いまここ」で起こるライブである以上、「急速に興味を失いつつある」「演劇」はもちろん「現在の演劇」を意味するのであって、たぶん過去には興味を持てる・おもしろい演劇があったにちがいないし、明日以降の未来の演劇は、ぜったいに現在のままではいけない。「実験的」「前衛的」と称し、実際には、もっとも「実験的」「前衛的」ならざるもの、「実験的」「前衛的」というジャンルをつくり、そこに安住している演劇人を、ぼくは嫌悪する。
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青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」

◎カレー礼讃
 川光俊哉

「アンドロイド版『三人姉妹』」公演チラシ
アンドロイド版「三人姉妹」公演チラシ
 チェーホフの『三人姉妹』は、『かもめ』や『桜の園』に比べても、読みにくい戯曲のように思う。私がそう感じるだけかもしれないが。
 いったい何が書いてあるのか、よく分からない。いや、大ざっぱには分かるのだけれど、一人ひとりの発話が、大きなテーマと結びついているのかいないのか、よく分からない。はっきりしない。ただ、巨大な寂しさだけが、そこに残る。十九世紀末、あるいは、二十世紀初頭のロシア帝国の地方都市という、とてつもなく特殊な背景を題材としているのに、この作品が大きな普遍性を獲得しているのは、たぶん、この曖昧さにある。たとえば聖書に書かれたこと、あるいはイエスの発言自体が、いかようにも解釈できるために、のちに、いくつもの偽書が生まれてきたように。
 アンドロイドを使った本格的な演劇を作るにあたって、すぐに思いついたのは『三人姉妹』の翻案だった。
 アンドロイド、あるいはロボットが根源的に持つ寂しさを描きたいと思った。いや、厳密に言えば、ロボットは寂しがらないので、寂しく感じるのは私たち人間なのだが…。

 『アンドロイド版 三人姉妹』の当日パンフレットで、作・演出の平田オリザはこのように書いているが、平田の翻案に対して、よくも悪くも、「分からない」という印象(全体的な、腑に落ちないという感じ)はない。
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三宅島在住アトレウス家《山手篇》

◎転々とする感想
 川光俊哉

 朝の7時から、観劇に出かけました。自分で公演をやるときは、7時に劇場集合なんてよくやったと思うが、なかなかこの時間に公演はやらない。15時、19時の回もあったが、せっかくなので、という気持ちで7時の回に予約した。せっかくなので、と思った人がほかにもたくさんいたのでしょう、どの日も7時の回から予約が埋まっていったようです。
 鴬谷駅から、ラブホテル街をぬけて、会場の平櫛田中邸に到着した。おじいちゃんおばあちゃんの家を思い出すような、ただの民家です。
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