#5 前田司郎(五反田団)

五反田団と最初に出会ったのは「家が遠い」公演でした。ヘタウマの筆跡、チープな仕立てのチラシに引かれて劇場に足を運びました。公演はうわさどおりの出来映えでした。柔軟で重心の低い脱力系ながら、だれもが抱えるほろ苦い記憶を定着するという印象が残っています。その後の活動はご存じの通りです。主宰の前田司郎さんは劇作・演出など演劇活動のほか、最近は小説も発表して高い評価を得ています。聞き手は、フリーライーターの梅山景央さん。五反田団と前田さんの謎と秘密に迫ります。(北嶋孝@ノースアイランド舎)【写真はいずれも前田司郎さん】

なんのためにもならない芝居に懸ける 人間のせめてもの救い

教室の制約から生まれたスタイル

前田司郎さん――まずあまりにも基本的なことなんですが、「五反田団」という名前の由来を教えてください。

前田 五反田ってたまに聞く駅名だと思うんです。池上線に乗るときとか、そういえばあったな、みたいな。渋谷や新宿とくらべるとイメージもそんなに強くないですよね。そういう頻度としては月に1回、聞くか聞かないかくらいの言葉なんで、うまく関連づけておけば、五反田って言葉を聞くたびに「そういや五反田団ってあったよな」って感じでなんとなく覚えてもらえるんじゃないかと。つまりマスメディアに「五反田」って言葉が流れるたびに、お金をかけずとも僕らの情宣をしてくれているような効果があるんじゃないか。ただ、それが実際のところ効果的だったかどうかはわからないんですけど。

――たしかに五反田って絶妙な地名ですね。イメージは薄いんだけど言葉のインパクトはある。

前田 風俗のイメージはあるかもしれないですけどね(笑)。

――前田さん自身もずっと五反田ですか。

前田 はい、生まれも育ちも。

――工場見学会などで前田さんの実家にも何度か行きましたが、あのへんっていま、どこもかしこも工事やってますね。

前田 そうなんですよ。ソニーの本社がうちの近くにあってあのあたり全部工場地帯だったんですけど、いまは再開発地域になっちゃって。工場がつぶれて、どんどんマンションが建ってますね。うちの工場も去年の10月で閉鎖になって、いまはアトリエとか青年団のタタキ場に使われてます。

――小さい頃はおばあちゃん子だったみたいですね。

前田 父も母も工場で、工場つっても事務の方ですけど、働いてたので、まあ、おばあちゃん子でした(笑)。

――そのおばあちゃんに学費を出してもらって高校のときに舞台芸術学院に通いはじめますね。きっかけはなんだったんですか。

前田 中学・高校がホントどうしていいかわかんないぐらいつまらなくて。それでまあ、やることをみつけるっていうか、いろいろ本を読んだりマンガ読んだりしてるときに小劇場ってものがあるのを知って。「ぴあ」で見たら2000円だっていうんで、渋谷のジァン・ジァン(注1)にみにいったんです。それが初めての芝居で。そしたらけっこうおもしろかったんですね。いくつかみていくうちに自分でもやりたくなってきたんです。

――どのへんがおもしろかったんですか。

前田 内容はくわしく覚えてないんですけど、その空間っていうか、いい大人が働きもせずにそういうことをしてるっていうのが。なんていうか自分の外の世界だったんで。あと作家になりたくて小学校ぐらいから小説を書いてたんですけど、それがすごく寂しかったんですね。だから大勢でやるのもいいなあって。

――なかなか中学生でジァン・ジァン通いっていないですよね、同級生には。

前田 いなかったですねえ。そもそもそれが非常識っていうか、珍しいことだってことすらわかってなくて。最初は一人で行ってたんですけど、そのうち友達を誘ったりしてスズナリとか行くと、受付の人が「学ランが来た!」って(笑)。

――ちょっとした話題になって(笑)。高校では演劇部に入るという選択肢はなかったんですか。

前田 男子校だったんですけど、演劇部が廃部寸前で。入りにいったら「もう潰すから入らないでくれ」って。

――それで舞台芸術学院に入学、と。

前田 でも、その頃はもう遅いと思ってたんです。音楽とかのイメージがあったんで、幼少期からそういう教育を受けてないとダメだと思い込んでて。いまからでも間に合うのかなって感じで。

――いや、どちらかというと早すぎですよね(笑)。

前田 そうなんです(笑)。他の生徒はみんなだいたい大学生の3年とか4年で、上は30代の人とかもいて。高校1年は僕と、あともう一人いただけでした。

――どんな授業内容だったんですか。

前田 バレエから声楽みたいなことまで一通りやりましたね。いまでも舞芸で教えてらっしゃる大内(三朗)先生に見ていただきながら卒業公演をつくって。

――教わったことは五反田団にも生きてますか。

前田 いや、けっきょく教わることじゃないんですよね。年上の人たちといろんな話ができたのは刺激にはなりましたけど。

――舞芸と高校を卒業して和光大学に入学すると、いよいよ五反田団旗揚げですね。

前田 いや旗揚げとか全然そういう感じじゃなくて。うちの大学、教室がタダで借りられるんですよ。それも自分の名前を書くだけで。そんなに簡単に借りられるんだったらなんかやんないと損だなと思って、別の大学に行ってた友だちと二人で芝居をつくってみたんです。暇つぶしっていうかちょっとした部活感覚ですね。いちおう情宣は学校中にかけてたんで、友人以外の知らない人とかもみにきてくれましたけど。

――そのいちおう便宜上「旗揚げ」っていいますけど、旗揚げ公演にあたる『くりいり』の再演を05年の工場見学会のときにみさせてもらったんですが、なにがおもしろかったって、もういきなり我々のよく知ってる五反田団スタイルなんですよね。散らかった部屋でごろごろしながらだらだらトークするっていう(笑)。走り回ったり、声を張ってセリフしゃべったりみたいな芝居にはハナから興味がなかったんですか。

前田 恥ずかしかったんですね。そういう芝居は論理的に巧くつくられてるんでみるぶんには楽しいんですけど、やるには恥ずかしいなってのがあって。

――その感覚はよくわかります。五反田団の場合、またその照れの部分がおもしろいことになってますよね。

前田 たぶんお客さんもそういう感覚を共有できてるんじゃないかなとは思ってます。

――ただそういう感覚があったにしても、登場する役者二人がほとんどの時間、床にベタ座りするか、ごろごろしているっていう熱気のなさはすごいですよね。どんだけ腰が重いんだっていう。

前田 じつはあれ、物理的な制約から生まれたんですよ。教室でやってわけですけど、新しい大学じゃないんで机とかもうガタがきてるんですね。その机をばっと端に寄せて、舞台にして。だからあんまり動き回るとガタガタいってしまう(笑)。

――ああーなるほど(笑)、それでできるだけ動き回らないようにすむ芝居を。

前田 照明もクリップライトで、60ワットのが2灯だけ。音響も舞台に行く前に自分でスイッチを押して。全部二人だけでやってたんで、いろいろな制約があったんです。それでああいうミニマムな感じに。

――その頃、一緒にやってたのはどういう方だったんですか。

前田 もう芝居を辞めて結婚して……いまはそっとしといてくれって(笑)。俳優としてすごく優れた男でしたね。ほとんどムダな演出をする必要がなく「ここはこうして」って言うだけでよかったので、稽古も短くすんで。

――感覚が似てた?

前田 似てたっていうか鋭かったんだと思います。センスがあって。

――記録を見るとかなりの頻度、教室で公演を打ってますけど、評判はどうだったんですか。

前田 ま、身内だけですけどけっこう評判がよくて。いまだったら「ホントにおもしろいの?」って疑問も持つと思うんですけど、当時はわからなかったんで、「みんなおもしろいって言ってくれてるよ」「じゃ、もう1回やるか」って感じでズルズルとやってました。>>


前田司郎(まえだ・しろう)
1977年、東京・五反田生まれ。1997年「五反田団」旗揚げ。力みのない不思議な劇空間が評判に。2004年「家が遠い」で京都芸術センター舞台芸術賞受賞。「「キャベツの類」が第50回岸田國士戯曲賞の最終候補作。小説「愛でもない青春でもない旅立たない」(講談社)が野間文芸新人賞ノミネート。最新作「恋愛の解体と北区の滅亡」は第19回三島由紀夫賞ノミネート。劇作家、演出家、作家。五反田団主宰。
五反田団webサイト: http://www.uranus.dti.ne.jp/~gotannda/index.html

梅山景央(うめやま・あきお)
1976年11月、東京都渋谷区生まれ。フリーライター/編集者。
九龍ジョーの名で男性週刊誌・実話誌などを中心になんのためにもならない原稿を書き散らかしている。
個人サイト「*S子の部屋

(注1)ジァン・ジァン
1969に渋谷の教会地下に開かれた小劇場。中村伸郎の一人芝居「授業」のロングラン、時代を映した芝居の上演や、シャンソン、フォークのライブなどで知られたが、2000年に閉鎖した。