イディオ・サヴァン「黒縁のアテ」

「黒縁のアテ」公演のチラシイディオ・サヴァン第2回公演「黒縁のアテ」は今年1月末に新宿タイニイアリス劇場で開かれました。だいぶ時間が経ってしまいましたが、小劇場レビュー新聞「Cut In」第58号に掲載された公演評を再掲します。
当日、劇場の前で主宰者がビデオ片手に呼び込みをしている姿を見かけてまずあれっと思いました。なにか仕掛けがあるらしいと思って地下の劇場にはいると、入り口の映像が正面のスクリーンいっぱいに映し出されているではありませんか。新宿2丁目の夜の街-。その漂流感は、手ぶれの激しい映像にぴったりです。外と内、地上と地下がデジタル回路でつながったまま芝居は始まります。中身は、演劇に関する演劇であり、しかも内と外が入れ子状になり、終わりがそのまままた始まりになるという複雑怪奇な円環構造になっていました。その環からはみ出したしっぽをめくってみたのが以下の文章です。

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吾妻橋ダンスクロッシング「The Very Best of AZUMABASHI」

◎アメーバ化したぞ「吾妻橋」
木村覚(ダンス批評)

「The Very Best of AZUMABASHI」公演チラシ3月の上旬に行われた「The Very Best of AZUMABASHI」の話をする前に、ひとつ寄り道をしておきたい。
もし吾妻橋ダンスクロッシングが存在していなかったら、日本のダンスシーンはどうなっていただろうか。
ちょっと現在と過去を振り返り、そんなこと考えてみたらどうだろう。「吾妻橋」以前すでにその兆候が如実にあらわれていたように、きっと、曖昧模糊とした「コンテンポラリー・ダンス」という言葉を曖昧なままに利用する有象無象の手によって、リアリティを欠いたまま何だか立派そうでアーティーな(芸術気取りの)存在として今日のダンスシーンは社会に位置づけられ(棚上げされ)、それによってわずかな例外を除いてどんどん時代から無視され取り残されていったことだろう。

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Port B「雲。家。」

◎他者、他者、どっちを向いても-現代日本へ、Port Bのメメント・モリ
村井華代(西洋演劇理論研究)

Port B「雲。家。」公演チラシ日本にも、このような舞台をつくる人々が現れたのか。
1969年生まれ、90年代後半ドイツで演出を学んだ高山明の率いるPort B は2002年旗揚げされた。今回初見である。東京国際演劇祭参加作品『雲。家。』は、エルフリーデ・イェリネクの1988年の戯曲Wolken. Heim.の日本初演。ノーベル文学賞受賞者イェリネクについては、ここで詳述する必要はないだろう。演劇作品からも現在まで3作が邦訳されているので、劇作家イェリネクについてもそちらを参照して頂きたい(末尾にリンクあり)。そもそも、Port B の今回の公演は、イェリネクに基づきながらもこれを意識的に逸脱しているので、イェリネク本人に拘泥している余裕がない。むしろPort-B が書き上げた、自分たちの、現代日本の新たな上演テクスト、その見事な演劇的「展開」こそ評されるべきだろう。

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NEVER LOSE 「四人の為の独白 ver.7.0」

◎辺縁を目指す孤独な精神
矢野靖人 (shelf主宰)

NEVER LOSEのメンバーNEVER LOSEは1998年、谷本進を中心に結成。旗揚げ後はこまばアゴラ劇場を中心に年二~三回のペースで公演を行ってきた劇団である。2002年には、旗揚げ四周年記念として青山円形劇場に進出。東京、岡山、名古屋での活動を軸に、劇場のみならず、ライブハウスやクラブでも公演を行っている。

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DULL-COLORED POP「ベツレヘム精神病院」

「ベツレヘム精神病院」公演チラシ以前の「新劇」で言えば開幕を告げるベル。オルタネイテイブ演劇でいえば携帯は~、場内の飲食は~などと開幕前に言うお決まりの諸注意。これぐらいキライなものはない。とくに「新劇」の芸術至上や教養主義に背を向けたはずの後者の場合、劇場への配慮かも知れないけど、そんなことぐちゃぐちゃ言ってないで、もし迷惑な人がいたら周りの客がシーッとその人を睨むぐらいの芝居すりゃいいのにと内心いつも思ってた。ところが谷賢一作・演出の「ベツレヘム精神病院」。まあいちおう、制作のひとが前に出て何かそんなことも言っていたようだけど、そんなことお構いなしに、同時進行で白衣の医者が舞台を横切り職員が出てきて芝居はどんどん始まっていく。お、すっごくいいセンス!と初っぱなから期待が膨らんだ。

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dots「MONU/MENT(s) for Living」

◎人間存在の表裏を可視的にする鮮やかな手法
藤原央登(「現在形の批評 」主宰)

「MONU/MENT(s) for Living」公演チラシ我々が自明のごとく見聞きしたり用いる言説は多く、こと舞台芸術に関してはパフォーマンスがその一つに挙げることができるが、改めて吟味すると何とも曖昧模糊としている。演じ手が居てそれを見る者が同席することで共に生成するその時、その場の唯一無二の親和的宇宙を開示する見せ物が演劇の原初的な在り処である。ならばパフォーマンスもそういった演劇の枠内に収まるものであるはずであるがそうならずに別の印象を自動的に誘発されてしまう。すなわち身体言語を上位概念と捕えてなされる演劇の解体であり、そこから容易く前衛的なるものの匂いを嗅ぎ取ってしまうのだ。今作が所見のdots『MONU/MENT(s) for Living』もパフォーマンス・グループと自らを位置付けているようにしっかりパフォーマンスを展開していた。

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ク・ナウカ「奥州安達原」

◎ &ltシニフィアン=音&gt としての言葉で表す物語の根源
田中綾乃(東京女子大非常勤講師)

「奥州安達原」公演チラシク・ナウカはやはり面白い!! 2007年2月27日、『奥州安達原』の千秋楽。ク・ナウカ俳優たちの漲る身体を前に、私は喝采の拍手を送りながら、そう確信していた。千秋楽ということもあって、4回のカーテンコール。舞台も客席も一体となって祝福の拍手に包まれた。
では一体、ク・ナウカのどこが面白いのか・・・? それは、月並みだが、ク・ナウカという集団が最後まで<演劇なるもの>の可能性を極限まで追求した、ということに尽きるだろう。

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アジア現代演劇プロジェクトが16日から開始

「アジア現代演劇プロジェクト」チラシ「アジア現代演劇プロジェクト/コラボレーションとネットワークの未来」がシンポジウムと公演「モバイル」として3月16日から6日間の日程で、東京・世田谷パブリックシアターで開かれます。18日まで開かれる公演「モバイル」は、シンガポールの劇団ネセサリー・ステージの呼びかけに応えてフィリピン、タイ、日本の演劇人が1年以上に渡り、各国でリサーチやワークショップを実施して作り上げた4カ国共同作品です。国や地域を越えて働く人々の移動と移住を巡る多くの物語が、現代の複層的なアジアを表象するエピソードで構成されています。昨2006年6月にシンガポール・アーツフェスティバルで初演、マレーシア公演も開かれました。日本からは作・演出の一員として鐘下辰男さん(演劇企画集団THE・ガジラ)が参加しています。

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OM-2「ハムレットマシーン」

◎ぎりぎりのところで成立している<極限の演劇>
 芦沢みどり(戯曲翻訳者)

 1月の中旬に帯状疱疹になってしまった。特に疲れがたまっていたわけでもないから、たぶん加齢とストレスが原因だろう。帯状疱疹というのは、ほぼ24時間、とても痛い。筆者はひと月間、デスクワークはあきらめてワープロから自分を解放し、「ことばと身体」がせめぎ合う舞台芸術を求めて、劇場通いの日々を過ごした。幸いにもこのテーマに絞って演劇、ダンス、パフォーマンスを観ようと思えば、選択肢はいくらでもあった。この傾向は、3月に入ってますます勢いづいているように思う。劇場入り口で配布されるチラシの分厚い束―最近は座席に置かれていることが多いが―それを開演前に眺めていると、「国際」とか「アジア」が付いた芸術祭や演劇祭が目白押しで、領域横断的な演目も数多い。これでは病気が癒えてもなかなかデスクワークに戻れないわけだ。

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ヤン・ファーブル「私は血」

◎「血」が「身体」から自由になる時
今井克佳(東洋学園大学助教授)

「私は血」公演チラシ舞台にあふれるオリーブオイルの中を、全裸の女性ダンサーがヘリコプターの轟音とともにばたばたと暴れ狂う、『主役の男が女である時』。昨年、同じさいたま芸術劇場でそれをみたときは、過激さやエロティシズムということよりも、何か突き抜けた潔さというか、清々しさを感じたヤン・ファーブルの舞台。今度はどんなものをみせてくれるのか。期待と不安を抱き、会場に向かった。

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