ヤン・ファーブル「私は血」

◎「血」が「身体」から自由になる時
今井克佳(東洋学園大学助教授)

「私は血」公演チラシ舞台にあふれるオリーブオイルの中を、全裸の女性ダンサーがヘリコプターの轟音とともにばたばたと暴れ狂う、『主役の男が女である時』。昨年、同じさいたま芸術劇場でそれをみたときは、過激さやエロティシズムということよりも、何か突き抜けた潔さというか、清々しさを感じたヤン・ファーブルの舞台。今度はどんなものをみせてくれるのか。期待と不安を抱き、会場に向かった。

開場は開演の15分前。客席に通されると既に舞台上には、一目で、ヨーロッパ中世と感じられる世界が展開されていた。広々と奥舞台まで見通せるまっさらの舞台は黒っぽく見える。ほとんど全裸にも見える太った男が葉巻を吸いながら、野獣のような仕草のダンスを展開し、ときたま、客席をにらみつけている。頭上に大きな書物をくくりつけた女性は、黒い装いで、ゆっくりと微笑みながら、舞台の外周をめぐっている。舞台横には、大きな金属の作業台のようなものが多数置かれ、そこで、清掃なのか、料理の準備なのか、何かの作業を続けている人々もいる。直感的に、ボッシュの絵画の世界が思い出された。そして、ミハイル・バフチンがかつて「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」の中であぶり出した混沌に満ちたカーニバル的中世の様相が重なる。すっかり舞台の雰囲気にひきこまれてしまった。

やがて開演。鎧を着たダンサーたちが、舞台に現れ、そのうちの一人が見えない敵と剣での打ち合いを始める。空を切る重い剣。西洋中世の剣は、その重量によって敵を打つか、刺し殺すかしかなく、「斬る」という発想がないことに気づいたのは、この作品がきわめて「西洋的」であることについての最初の認識だった。(それにしても、一つ間違えば客席に鋭い剣が飛び込んでこないとも限らない。ひやひやさせられた。)やがて騎士が力つきて倒れると、裸男が吸血鬼のように、血を吸いによってくる。

「今はイエスキリスト生誕から二〇〇七年である
そして私たちはあいかわらず
中世に生きている
そして私たちはあいかわらず
同じ体で生きている
内側は湿り
外側は乾いた体で」

ファーブル自身の手によるテキストが、本を開いた女性によって語られながら「血」に関わる様々な文化事象が形象化され、混合されていく。ウェディングドレスを着た女性たちの下着ににじむ血。磔刑。闘牛。外科手術。乱痴気騒ぎ。手や足がもがれ、男性の局部も切り取られる。そしてダンサー自身の演奏によるロックミュージック。理性はどこかに吹き飛んでしまう。痙攣のように哄笑する女たち。闘牛の牛になって倒れるまでいたぶられる男。いつのまにか全裸になっていたり、男女の衣装が交換されていたり。そしてなぜかカウボーイハットをかぶった裸身の女性が現れ、英語の曲を歌う。アメリカニズム? ここにあるのは現代なのか、中世なのか。こうした「混沌」こそ、バフチンがラブレーに見た「カーニバル」だろう。個性的なダンサーたちの、これら「イッちゃってる」姿こそ、この作品の最も清々しい魅力である。

ヤン・ファーブル「私は血」公演の舞台
【写真は、「私は血」公演の舞台。撮影=Arnold Groeschel 提供=彩の国さいたま芸術劇場】

さらに、印象的なのは舞台の色彩であった。暗く黒っぽく見える舞台に、鎧や金属製の台の銀色。ウェディングドレスの白。「血」の色である「赤」はほとんど目立たず、全体の中ではアクセント程度なのだ。逆に最も目に残るのは、ある男女のペアの衣装の「緑」。手術前のように、両手を挙げる仕草や、胸や腕にたくさんのメスをつけているところから「外科医」らしき役割を与えられていると思われ、彼らは時に語りも担当する。この衣装の「緑」が美しく、唯一鮮やかな色調を舞台に与えていた。「血」を主題とする舞台でありながら「赤」を基調としないことが新鮮だ。そして色相でいえば、「緑」は「赤」のいわゆる「補色」である。人間の目はある色を見つめ続けた後、白い紙を見ると、その色の補色が見えるというが、補色である「緑」を鮮やかに使うことによって、不在の「赤」が無意識かどこかに、強調されるのではないか、とそんな効果をねらっているのではないかと夢想してみた。

ただ、しばらくこうした「カーニバル」を眺めているうちに、これが大掛かりなリストカット行為の芸術化に思えてきた。「血」を出して喜んでいるその様子は、身体を切り裂き、「血」を流すことによって得られる生命の確認のように思われた。であるならば、西洋文化は(というより自分や同胞の血を流し続けてきた人類の文化はカインの昔より)自傷行為そのものなのだ。

「まことに誠に、なんぢらに告ぐ、
人の子の肉を食はず、
その血を飲まずば、
汝らに生命(いのち)なし」(ヨハネの福音書6:53)

西洋文化の一つの根源であるキリスト教の中心に置かれた「血」による秘儀。床屋が外科医を兼ね、吸血鬼が恐れられていた時代。西欧文化の中には「血」の役割が大きいことを、改めて思い起こさざるをえないのだが、私たちはともするとそこに現れる「血」を、象徴、または形而上の思想としてのみ理解してしまう。が、ファーブルが示すのは、具体物としての「血」である。液体として形は持たないものの、私たちの身体の中にいやおうなく存在する物質としての「血」が、文化の、あるいは人間のいのちの根源であるという事実である。私たちは、あまりにも近代的な視点で、西欧文化は物質から精神を分割し、後者に重きを置いてきたとしてきたのではないだろうか。しかしそれはきわめて「近代」の視点だったのである。

終盤、身体の様々な静脈や動脈の名前を連呼していたテキストは次第に、身体を離れた、未来の人間としての「血」の可能性を語り始める。それは人間が個の身体を離れて、「血」として一体化していく未来のように私には思えた。それはきわめて難解であり、抽象的・象徴的であるとともに、物質的でもあるイメージだ。「集合的無意識」を持ち出しては精神的すぎるかもしれないがそれに近いものだろうか。いわゆる「血のつながり」などというものとは全く違う。ファーブルは、この作品を通じて、ガストン・バシュラールがその詩学で提示した四大元素の物質的イマージュ(火、水、大気、大地)に匹敵するような、文化の根源的イマージュとしての「血」を提示している。そしてそれらはバシュラールのそれとは異なり、人間の身体性と深く結びついているのだ。

金属台を立てて並べた壁の裏側で「私は血」と繰り返すダンサーたちの声が続くなか、壁の下から、「赤」い血が流れ出してくる。壁の横から一瞬歩みだしてくるように見えて後戻りして消えていくダンサーたち。あれは身体を超えた「血」として一体化した未来の新しい人間像であろうか。ファーブルは、西欧文化の底に流れる本質的な根源をあぶり出しながらも、全く新たな認識を切り開いていると感じた。
(注)引用テキストは、ヤン・ファーブル著、宇野邦一訳『私は血』書肆山田、2007を参考にしている。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第32号、2007年3月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学助教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰。http://tabla.cocolog-nifty.com/junrei/
・wonderland に寄稿したこれまでの劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/imai-katsuyoshi/

【上演記録】
『わたしは血 JE SUIS SANG』~中世妖精物語~
彩の国さいたま芸術劇場大ホール(2007年2月16日-18日)
http://www.saf.or.jp/p_calendar/geijyutu/2007/d0216.html

●テキスト・舞台美術・振付: ヤン・ファーブル
●出演: 俳優、ダンサー、ミュージシャン 23名
料金: S席7,000円 A席5,000円 学生A席3,000円


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