チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」

◎うすっぺらいかもしれないわたしたちの、ささやかな抵抗
 廣澤梓

「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」公演チラシ 職場から90分ほどかけて帰ってきた最寄駅の、改札を出てすぐ右手に見えるコンビニに寄ると、おじさん3人が今日も働いている。若者バイトの入れ替わりが激しいのに対して、彼らはもう5年以上はいる。ひとりは必要のない割り箸やプラスティックのスプーンを、手当たり次第レジ袋に突っ込んでくる。ひとりは昨夏になって急に、客がレジに持ってきた商品に対してコメントをするようになった。もうひとりはうっとりする美声で、その接客、商品を扱う手つきに気品すら感じる。

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 チェルフィッチュの「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」は2014年5月、ドイツのマンハイムで行われた国際舞台芸術祭「Theater der Welt 2014」(世界の演劇の意)にて初演された。その後ヨーロッパの都市を中心に巡り、日本ではようやく12月に神奈川芸術劇場(KAAT)で公演が行われた。これからの作品についての記述は、このKAATでの上演に基づく。

「むかしむかしこの世界にはコンビニがなかった」。(※1)この冗談めいた台詞に、うっかり頷いてしまいそうになるほど、日本人の生活と切り離せない存在である、コンビニを舞台にしている。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集にあわせて作られたという、48シーンから構成されている。俳優は台詞を発しながら、終始奇妙な身振りをしている。「チャラチャラチャラーっとね」。ひとりの店員が新人バイトに仕事のやり方を教える際、発せられたこの台詞の意味するものは曖昧ではあるが、どこかコンビニという場所に漂う空気を伝えるものとして、納得させられてしまうところがある。

 コンビニエンスストア―舞台上方のスクリーンに文字が映し出される。お揃いのオレンジとグリーンのストライプ柄のシャツを身にまとった長髪の若者2人、いがらし(鷲尾英彰)とうさみ(太田信吾)が登場する。うさみが「じゃあ、はじめます。」とチェルフィッチュではお馴染みの宣言を、客に対して行う。彼らは店長と呼ばれる人の噂話をしている。2人がコンビニで働くバイト店員だと理解できる。彼らがバイトであるという紹介はない。けれど、まず正社員であるはずがないということを、わたしたちは知っている。

 続いて店長(矢沢誠)も登場する。客に向かって、店舗で取り扱っている商品とそのレイアウトについての説明を、「~になっております」といったいわゆる「バイト敬語」で行う。そうして語りかけられることで、わたしたちは彼のコンビニの客へと仕立てられる。コンビニの多くが入口のある面に横長なのと同様に、舞台は横に細長く作られている。その方向と平行に、つまりは客席に対して平行になるように、黒いストライプ状のものが床に貼られている。店長はその1本1本に沿って歩きながら、しかし顔は客に向けている。かつ両手両足をせわしなく動かしている。彼は客席に近いところから舞台奥へとじわじわ進みながら、長々説明を続ける。実際舞台には何も置かれてないが、ストライプ1本1本がコンビニの棚什器を示しているというわけだ。

 陳列棚の説明を終えて、客の視線が行き着くのは、布のようなものに緻密に描かれた書割なのだった。そこは壁沿いの飲料や惣菜などの冷蔵コーナーを表している。舞台が横長で奥行きを欠いているのは、後方と舞台上手にこの書割がL字型に立っていることによる。そしてこの書割は、書割の常套手段である遠近法的な画面構成になっていない。それはコンビニの、全ての商品がパッケージの正面を客に向けて隙間なく並んでいる、あの冷蔵ケースの絵である。この部分の説明として、店長は「それであとはまあ、見ての通りです。」と言うだけだった。一瞥すれば分かる。見渡せる。すべてはわずか「100平方メートル」の店内で起こったことだ。

 こうしてコンビニについてのひとつひとつを説かれながら、海外の客席は見えない棚を想像し、イメージを立ち上げたかもしれない。だが、わたしには自らのコンビニ体験を確認していく時間のように感じられた。全国どこのコンビニに行っても、ほぼ迷わずお目当ての商品が並ぶ陳列棚に辿りつける。なぜなら店のレイアウトは、どこでもだいたい同じであることを経験的に知っているからだ。「コンビニ レイアウト」で画像検索すると出てくる図(※2)は、まさに店長が説明したものである。舞台となるのは「スマイルファクトリー新花みずきヶ丘駅前店」であり、またわたしがかつて行った/これから行くだろうコンビニでもある。

「ぼおうっていう光の中に、半分自然に引き寄せられていってしまうところのある、わたし」。真夜中のコンビニに毎晩やってきてアイスを買う客1(上村梓)が、そう口にするのを聞きながら、わたしは脳内に浮かんだ、明るく光るコンビニをなぞる。イメージしたコンビニは、ガラス面をこちらに向けている。ちょうど、舞台が客席に向かって開かれているのと同じように。

■コンビニ/劇場のまなざし

 これから少しだけ、コンビニができる前の、更に前のことを想像してみたい。コンビニとは、小規模小売店である。わたしたちが買い物をする上で当然だと思っていることの多くは、実は150年そこらしか歴史がない。商品をまるで美術館の作品のように、人目に晒して行う陳列販売もそのひとつだ。(※3)奥まで一目で見通せる、ガラスでできたショウウィンドウが普及したのも、この時期のことであると言われている。

 以来、商品は見られることで欲望を喚起する、まさしく「ショウ」へとしつらえられるようになった。こうした商品のあり方は今だに継承されており、小売の最先鋒たるコンビニもその延長線上にある。見せるには、明るさもまた重要だ。ガラス窓に対して平行に何本も並んだ蛍光灯は、商品をもれなく明るく照らしており、店内を見渡すことができる。客1は、真夜中に自ら「無駄な消費」と認めながら、欲望を引き起こされアイスを買う。

 深夜の明るく光るコンビニの、ガラス窓の前に立って、店内の様子をうかがってみる。中身を見せながらも遮蔽するガラスについて、まるで「観劇」をしているようだと思うとする。それはあながち世迷いごとというわけでもないようだ。暗がりで「危険なく」覗き見する欲望。一方的に、見られることなく見る人としての客。それに基づく演劇の制度が確立されたのも、ちょうど先の時代に重なる。自身のコンビニ体験をなぞりながら、薄暗い客席に身を潜めて、煌々と光る舞台を見やる。こうしてコンビニの商品へのまなざしと、劇場でのまなざしは接続される。むしろ、見る欲望が全ての契機になるような時代の、その流れの上にわたしたちはいると言ったほうが正しい。(※4)

■客/店員の、まなざしをめぐる複雑な関係

 さて、そろそろコンビニの話を切り上げ、登場人物の話に移ることにしよう。しかしその前に、まなざしが150年前と比べて随分複雑になっていることは、自明であるかもしれないがおさえておきたい。わたしたちは、カメラ付き携帯電話やスマートフォンを手にし、カメラマンでなくても常にシャッターチャンスをうかがっては、逐一SNSに投稿することを繰り返している。世界は常に自ら切り取ることができ、かつ自らも常に世界として切り取られるものだ。2013年7月の「コンビニのアイスケースに入ってみた」写真を皮切りに、同じような事例が相次ぎ注目を集めるようになった一連の「バイトテロ」(※5)も、この見せるという要素がポイントになっている。

 バイトテロはあくまで仲間内の「悪ふざけ」に端を発したもので、SNSへの投稿者自身は「炎上」と呼ばれる現象を引き起こすとはゆめにも思っておらず、よって過失といった切り口から語られることが多い。「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」において、奇しくもいがらし自身、POSデータを狂わせる行為を「テロくらいのつもりでやっている」と述べている。いがらしの行為は明らかに故意であるが、この見せるという視点には欠けている。

 しかしバイトテロの因子を、彼らの過失にだけ求めるのは、指摘としては足りないのではないか。彼らがSNSにネタとしてアイスケースに入る自らにカメラを向け(させ)たとき、そのサービス提供者としての店員という姿は、「客」観視されていると言える。彼はそのとき店員なのか、それとも「客」なのか。彼らは正社員でなくバイトだった。その不安定な立場が引き起こしたものであるとも言え、実際その騒動により、彼はあっけなく解雇された。更に店舗もフランチャイズ契約を解約され、閉店へと追い込まれる。

■差し出された笑いへの抵抗

 さて、かく言うわたしも深夜のコンビニユーザーでありながら、仕事をしてる時間はサービス提供者である。また、コンビニを利用するとき、店員の手つきを観賞することもあれば、選んだ品物を「批評」されたりもする。客席の客だって四六時中ずっと客ではあり得まい。客とサービス提供者の立場はそのときどきで入れ替わる。いずれか一方の立場でい続けるなんてことは、社会生活を送る上であり得ない。

「俺、コンビニの店員やってるとき、客のこと、こいつら全員バカなんだって思ってるのよ」。いがらしだって、自分が客を見ていると告白している。こう言いながら、いがらしとうさみは舞台上に現れた客役の俳優を挑発するように、頭の横で両手を広げてぴらぴらと動かす。そのとき、客役は無反応だ。人をバカにする身振りに反応して、怒ることを許されない存在である。彼らを通じて2人に同じく挑発される、客席の客と同じ状態である。

 いがらしは続ける。「むしろ客なんて大抵逆に俺ら店員のことバカにしてるもんね」。ここには確かに見る/見られるの関係が、双方向のものとしてある。ただ、それは自分がバカにしているから、相手もバカにしているだろうと思うのと同じレベルの、あまりに単純なものであるという印象だ。その単純さは物語中、彼らが店員であるということが揺るがないことと関係しているように思われる。狭いコンビニの店内で繰り広げられる作品において、店員は常に店員であり、客は自らの客としての権利をひたすら主張するだけだ。その意味で舞台装置同様、登場人物もうすっぺらく、奥行きがない。(※6)

 ラストシーンでは、トイレを貸してほしいとやってきた客2(渕野修平)に対し、うさみが「お前に貸すトイレはないよ。」と言って追いかえす。客2は「コンビニの中での自由」のため、コンビニに来て商品を買わない、という挑発的な態度を取ってきた人物だ。もちろん、何も買わないのも、コンビニが用意した客の身振りであるから、彼の考えは間違っているのだが。ともかく、やられてきたことの復讐という形で、この物語はあっさり終結する。トイレを我慢する客2の下半身を大きく震わせる、あまりにわかりやすく滑稽な身振りとともに。

 最後に、この作品を飲み込む「チャラ」さについて、奥行きを欠いて、物語を表層だけをなぞる、まるで商品を見るようなまなざしのことを言っているのではないか、と考えてみたいと思う。書割の冷蔵ケースを眺めるときに気づくのは、わたしたちが商品をまなざすとき、それはあくまで表層を「チャラ」っと見ているに過ぎなかったのだということだ。実は、当日パンフレット掲載の演出家・岡田利規による文章において、客も「チャラチャラーっとした感じで」見ることが推奨されている。それはつまり、客と店員の関係を見る/見られるだけに単純化することを肯定することだと言えるのではないか。それは復讐される客2を積極的に笑うことでもあろう。であれば、わたしはそこに差し出された笑いへの誘いには乗りたくないなと思う。

 コンビニから脱せないように、商品へのまなざしからも抜け出せない。劇場で黙って舞台を見る客の身振りもまあ続くだろう。だが、わたしは近所のコンビニのおじさんに、お箸とかスプーンとかは要りません、とこちらから伝えるくらいはやっている。コメントおじさんに対しては、彼がそれをするようになってから急に生き生きとして、働くのがなんだか楽しそうなので、ちょっと迷惑だなと思いながらも、黙って頷いてあげるくらいのことはするのだ。

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※1 以下、本稿の台詞の引用部分は、『悲劇喜劇』2015年1月号(早川書房)掲載の同戯曲による。

※2 正確にはコンビニが消費者行動を分析して練り上げた導線を元に店舗が作られているから、レイアウトは同じである。参考:画像検索「コンビニ レイアウト

※3 現代の買い物の仕方は、一般的には、1852年創業のパリのボン・マルシェ百貨店に端を発すると言われている。鹿島茂『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、1991年)に詳しい。

※4 高山宏『目の中の劇場 アリス狩りⅡ』(青土社、1985年)は、美学、遠近法、額縁舞台、映画など壮大なフィールドを射程にした、「〈視〉の各種〈発明〉」の数々、それらを生みだした大衆のスペクタクル嗜好について書かれている。特に「死の資本主義 マガザン・ド・デーユ周辺」は、ガラス越しに見る死体ですら、見世物として消費することが流行した事実について書かれており、本稿を書く上で参考にした。

※5 バイトテロについてはwikipediaを参照のこと。

※6 もうひとり、みずたに(川﨑麻里子)という3人目のバイトが作品には登場するが、彼女は唯一、「いちコンビニのお客さんとしての側」について語る人物である。しかし、彼女はこの客の立場に立つということによって、バイトをやめることとなり、物語から脱落する。

【筆者略歴】
廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

【上演記録】
チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」(神奈川芸術劇場、2014年12月12日-21日)

作・演出:岡田利規

出演:矢沢誠 足立智充 上村梓 鷲尾英彰 渕野修平 太田信吾 川﨑麻里子

美術:青木拓也
衣装:小野寺佐恵(東京衣裳)
舞台監督:鈴木康郎
照明:大平智己

音響:牛川紀政
編曲:須藤祟規

主催/KAAT神奈川芸術劇場(指定管理者:公益財団法人神奈川芸術文化財団)
企画・制作/KAAT神奈川芸術劇場、プリコグ
助成/平成26年度 文化庁 劇場・音楽堂等活性化事業(特別支援事業) 
協力/急な坂スタジオ

Theatre der Welt 2014 (マンハイム/ドイツ)委嘱作品
製作:チェルフィッチュ
共同製作:Theatre der Welt 2014 (マンハイム/ドイツ)、KAAT神奈川芸術劇場(横浜)、LIFT-London International Festival of Theatre (ロンドン/イギリス)、Maria Matos Teatro Municipal (リスボン/ポルトガル)、CULTURALSCAPES(バーゼル/スイス)、Kaserne Basel(バーゼル/スイス)、A House on FIRE co-production, with the support of the European Union

 

 

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