薪伝実験劇団『ゴースト 2.0-イプセン「幽霊」より』

◎イプセン戯曲の限界と、その可能性について
矢野靖人

 2014年11月24日(月)、フェスティバル/トーキョー14のプログラムの一つ、薪伝実験劇団(中国)の『ゴースト 2.0-イプセン「幽霊」より』を観劇した。演出は、2012年の利賀・アジア演出家フェスティバルにも参加していたワン・チョン(王翀)氏。1982年生まれ、とおそらく中国ではまだまだ若手の扱いだろうにも関わらず、非常に洗練された、“巧い”演出であった。

 イプセンの戯曲『幽霊』(1881年)は、ギリシャ悲劇にも比せられるイプセンの傑作の一つである。三幕の家庭劇と銘打たれたその物語は、愛のない結婚を否定しつつも、因襲的な観念に縛られて放縦な夫のもとに留まり、夫亡き後も家名を守るため偽善に終始してきたアルヴィング夫人を主軸にして展開する。夫の偽りの名誉を讃える記念式典を前に、可愛い一人息子のオスヴァルが、病を患って帰ってくる。帰国した息子は夫人の召使いのレギーネを自分の伴侶にと望むが、彼女が他ならぬ彼自身の異母妹であることを知らされる。親の犯した過ち。その償いをさせられる子。誰もが無自覚なままに繰り返される悲劇。――法や道徳、宗教への不敬、近親相姦や自由恋愛の擁護、性病など当時の社会ではタブーであった様々な題材を取り扱いながら、イプセンは深く、近代以降の人間の精神の在り様に迫っていく。

 『ゴースト 2.0-イプセン「幽霊」より』では、演出のワン・チョンは、この戯曲を大胆に、現在の中国に、その時代と文化的背景を置き換えた。登場人物たちの名前もすべて中国名に変えられ、またストーリーの進行上、重要な役割を担う「牧師」マンデルスについては、「(党)書記」とその役職までが変換され、演出のいうところの「中国のリアル」を獲得し、そのことでアクチュアルな批評性を獲得しようと試みていた。
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地点『光のない。』

◎直示の倫理について
 よこたたかお

 本論考では、三浦基演出のイェリネク『光のない。』を扱う。本作品で用いられた演技術に焦点を当て、劇場倫理・表現の倫理について考察していく。分析の細かいところは、上演の回ごと・観客の視点ごとに違っていても不思議ではない。ご理解いただければ幸いである。

 2014年10月10日から13日、KAAT神奈川芸術劇場にて地点によるエルフリーデ・イェリネク『光のない。』が上演された。同作品は2012年の再演で、京都でも10月18日から19日に上演された(フェスティバル「KYOTO EXPERIMENT 2014」、京都芸術劇場 春秋座にて)。演出は三浦基。
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三野新「Prepared for FILM」

◎Prepared for FILM
 山崎健太

はじめに

チラシ 三野新構成・演出によるパフォーマンス作品『Prepared for FILM』はサミュエル・ベケット唯一の映画作品『フィルム』の翻案であり、同時にタイトルが示す通り、これからベケットの台本に基づいて『フィルム』を撮影する者たちのために「準備されたprepared」ものとして構想されている。ゆえに、『Prepared for FILM』という作品は『フィルム』「以降」と「以前」とに同時に位置することになる。
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世田谷パブリックシアター「マクベス」

◎二つの誘惑、一つの限界
 山本博士

【「マクベス」公演チラシ】
【「マクベス」公演チラシ】

 能楽師であり俳優の野村萬斎が、シェイクスピアの悲劇『マクベス』の構成、演出、主演を担う本公演は、2008年、シアタートラムでのリーディング公演を経て、2010年に世田谷パブリックシアターにて初演を迎え、ソウルやニューヨークでも上演されたものの再演である[注1]。6月初旬のパリと、ルーマニアのシビウでの公演を経て、日本公演が執り行われた。彼は2002年から世田谷パブリックシアターの芸術監督を務めており、1990年のジョナサン・ケント演出の『ハムレット』では主役を演じ、2007年の『リチャード三世』の翻案作品『国盗人』で主役を演じるとともに、演出も担当した。もちろんそれだけには留まらずにシェイクスピア作品に深く関わってきた萬斎だが、そんな彼の『マクベス』は劇の始めから不穏な空気が漂っていた。
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KYOTO EXPERIMENT2013「使えるプログラム」

◎「劇は使える」という限定解除 ―『2013使えるプログラム記録集』から
 柳沢望

【表紙写真=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム】
【表紙写真=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム】

 国内でフェスティバル/トーキョーに次ぐ規模とも言われている京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)だが、そのフリンジ企画として、昨年に引き続き、「使えるプログラム」が今年も実施される(注1)。
 そのプログラムディレクターは「けのび」と名乗るグループの活動を積み重ねて来た実績はあるものの、まだ作家として評価が定まっていたとは言えない羽鳥嘉郎だ。むしろ、この20代の若手作家の評価は、KYOTO EXPERIMENTによる起用によって方向付けられたと言うべきかもしれない。その判断には、舞台芸術の未来に向けて舞台をめぐる状況を更新し続けるべきだという認識があっただろう。

(注1)「表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉20」の江口 正登「『使えるプログラム』のこと―『インストラクション』としての上演」参照。
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身体の景色「戦場のピクニック」「Lady Macbeth」

◎表現の深さについて、あるいは新しさはどこから生まれるのかということ。
 矢野靖人

 5月18日(日)、身体の景色の主宰である俳優・演出家の岡野暢さんから依頼を受けて、身体の景色のポスト・パフォーマンス・トークにゲスト出演するために、日暮里はd-倉庫に観劇に出かけた。
 岡野さんとの最初の出会いは、あれは確か、2011年3月のことではなかったかと思う。忘れもしない、あの3.11(東日本大震災)の起こったその直後だった。それ以前から岡野さんのお名前や、身体の景色の評判は聞いていて、興味は持っていたのだけれどまだ観たことがなくて、そしてあの3.11の後、予定していた公演を断行するか、中止にするか? について、演劇や舞台芸術を取り巻く環境でいろいろな人たちが、様々な懊悩を抱え、そして身を切るような決断が為されていたさなか、身体の景色は、公演の断行を決めた。しかし相変わらず余震も続き、あるいは“自粛”というムードも漂い始めているなかで、果たして観客は劇場に来(られ)るのか。岡野さんや、身体の景色のドラマトゥルク・田中圭介君、その作品の出演者たちもこの問題に関しては相当苦しんでいたようで、確か、田中君から何とはなしに、宣伝・広報の協力を頼まれたんだったんじゃなかったかと思う。その辺りの記憶は曖昧だが、果たして僕は、身体の景色の稽古場に赴いた。そしてその身体の景色の、というか岡野さんの、自分の魂を剥き出しにしてそのままに舞台に乗せようとしているかのような仕事に心を揺さ振られ、熱に浮かされるままに多くの友人にお知らせを書いたのだった。や、順番は逆だったかもしれない。稽古場を見て、応援を勝手に買って出たのだったかもしれない。
 いずれにしても岡野さんとのお付き合いはそこから始まって、その後、観劇した作品は、稽古場で観た「舞え舞えかたつむり&椅子と伝説」(作/別役実、身体の景色 vol.6)と、「エレクトラ」(作/ソフォクレス、身体の景色 vol.7)等々と続く。こちらも観に行ったし、岡野さんや田中君もshelfの作品をよく観に来てくれた。
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アトリエセンティオの8年

◎消費文化のサイクルから離れて(インタビュー)
 山田裕幸(ユニークポイント)+鳴海康平(第七劇場)

 東京・北池袋にあるアトリエセンティオが、8年間の活動を経て3月いっぱいで閉鎖になりました。ユニークポイントと第七劇場という二つの有力劇団の活動拠点であり、毎年開くSENTIVAL!という演劇フェスティバルの会場でもありました。アーティスト本位の運営、地方劇団の招聘、公演終了後に毎回開くトークが観客に好評でした。拠点の開設から閉鎖まで、活動のようすを両劇団の主宰者である山田裕幸さん(ユニークポイント)と鳴海康平さん(第七劇場)に伺いました。(編集部)

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座・高円寺 劇場創造アカデミー4期生修了上演「戦争戯曲集・三部作」

◎「劇作」と「文体」と、創作に必要な在り得べき「姿勢」の在り方の問題について
 矢野靖人

 3月1日(土)、座・高円寺劇場創造アカデミー4期生修了上演、エドワード・ボンド作「戦争戯曲・三部作」通し上演を観劇。
 私たちshelfの前回公演「nora(s)」(2013年10月初演、第20回 BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品、日韓共同制作)の制作助手(兼通訳・翻訳)の任を担ってくれたアマンダ・ワデルが演出部としてこのプロダクションに参加していたのがこの上演を観に行ったいちばんの理由だった。そしてshelfが過去に京都アトリエ劇研で公演やワークショップを行った際にたびたび世話になった俳優・森衣里や、フリーぺーパー「とまる。」の元編集長の高田斉君もこの上演にそれぞれ俳優、演出部として参加していて、彼/彼女らの仕事を見届けたかったのと、あとはぜんぜん別な関心事として座・高円寺の「芸術創造アカデミー」というところがどのような事業を行っているのか。それにも興味があって、マチネ・ソアレの通し上演を観劇した。
 この公演、タイトルは「戦争戯曲集・三部作」とあるけれど、マチネAプロが一部として『赤と黒と無知』、『缶詰族』の二作を上演し、第二部をBプロとして同日に『大いなる平和』を連続上演するという、まことにまあ野心的というか、とても無謀な企画であった。途中休憩はあるものの、上演時間7時間超という大作を観るのは、歌舞伎の通し狂言でもなければ今日日まったく稀れな体験であって、非常に得るものが多くあった。そのような意味で観に行って本当に好かった。クロニクルというか、年代記とでもいうのか。7時間超という長い時間を通してしか得られない体験が、舞台芸術には確かに在る。それが身体で分かっただけでも実に僥倖であった。

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わっしょいハウス『我着地、クワイエット』

◎物語は、東長崎の6畳一間に宿る
 米川青馬

チラシ表20131212

【0】
 ある意味、これが今の30歳前後のリアルの一面なのだろうと、38歳の僕は思う。古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』の感触にかなり近い。モラトリアムだが、いずれ来る嵐に気づいている。ゆったりと構えているようで、ギリギリのところで成り立っている。淡々としていながら、後ろのほうにうっすら緊迫感が漂っている。一見、穏やかでおとなしいが、不思議な強さを感じる。一筋縄ではいかない。(もちろん、全然違う面もあるだろう。当然、作者のリアルだろうというつもりはまったくない。)

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ARICA「しあわせな日々」

◎翻訳劇を翻訳の劇として明示する
 柳沢望

arica_happydays0a ベケットの「しあわせな日々」は、「ゴドーを待ちながら」のように二幕の戯曲である。一幕がはじまると、奇妙にも腰まで地面に埋まった中年女性のモノローグが続き、ニ幕がはじまると女は首まで地面に埋まっていて、歌で終わる。ベケット自身が英語で執筆し、フランス語に翻訳した。フランス語で書いて英語に翻訳したゴドーと、あらゆる点で好対照をなしている。
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