わっしょいハウス『我着地、クワイエット』

◎物語は、東長崎の6畳一間に宿る
 米川青馬

チラシ表20131212

【0】
 ある意味、これが今の30歳前後のリアルの一面なのだろうと、38歳の僕は思う。古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』の感触にかなり近い。モラトリアムだが、いずれ来る嵐に気づいている。ゆったりと構えているようで、ギリギリのところで成り立っている。淡々としていながら、後ろのほうにうっすら緊迫感が漂っている。一見、穏やかでおとなしいが、不思議な強さを感じる。一筋縄ではいかない。(もちろん、全然違う面もあるだろう。当然、作者のリアルだろうというつもりはまったくない。)

【1】
 舞台と客席があるのは、単なる四角い空間である。舞台は客席から一段高くなっているわけでなく、舞台袖もない。客席と舞台はほとんどつながっていて、非日常の感じは薄い。観るほうは気楽だ。日常の延長のつもりで、くつろいで眺めていられる。4人の役者は、始まる前から隅のほうに座ったり、立ったり、思い思いに過ごしている。正直、最初は全員、劇団スタッフかと思ったくらい、その場に馴染んでいる。中央には、無印良品のダブルリングノートが雑然と、何十冊も敷かれている。その上にちゃぶ台が1つ。セットはこれだけ。後でわかることだが、ここが6畳一間に見立てられ、すべてがここで演じられる。

【2】
 この物語は、ずいぶんと入り組んだメタ構造になっている。おおもとの語り手は「妹(椎橋綾那)」だ。東京都豊島区の東長崎にある6畳一間の安アパートで、年末年始を独りで過ごしている。(ちなみに東長崎は池袋から2駅で都心と言ってもよい場所にあるが、とてもそうは思えない庶民的な町である。)妹は、暇を持て余して、床に落ちている無印のダブルリングノートの一冊に書かれた自分の日記を読み返す。4年前の正月に、「姉(宮部純子)」と浅草に行ったことが書かれている。その下には、「物語は場所に宿る」の一言。この一言をきっかけに、妹は物語をつくり始める。

 妹の作る物語では、東長崎のアパートに住んでいるのは、妹ではなく姉だ。姉はどうやら、4年前の日記に出てきた後、亡くなったらしい。しかし、妹の物語のなかには生きている。姉もまた、同じように日記を読んでいる。姉は妹の分身だから、物語のなかで、たまに妹と会話を交わす。

 姉の隣の部屋には、「男(浅井浩介)」と「女(後藤ひかり)」が住んでいる。姉は、この男女の生活を想像する。正月、男は、妹や姉と同じように東長崎の6畳一間で昔の日記を読みながら、女の帰りを待っている。しかしこのアパートは、さすがに現実とは少し違う。1年に1階、成長する。男と女は、昨年は401に住んでいたのに、今年は501に住んでいる。そして、男はひょんなことから、上の階がどこまであるのか知りたくて、階段を上っていく。

 果たしてこの説明でわかってもらえるかどうか自信がないが、ざっくり言えば、この物語は「二重の入れ子」になっていて、「妹」のいる現実世界のなかに、妹が想像する「姉」と「男」と「女」の世界があり、そのなかに姉が想像する「男」と「女」の世界がある。そして、妹と姉はそれぞれ自分の考えた世界に侵入できるようだ。この複雑なメタフィクション、文学好きにはたまらない。

 この物語が複雑なのは、メタ構造だけが理由ではない。4人とも、東長崎の同じアパートに住んでいることが、さらに話をわかりにくくしている。大量の無印ダブルリングノートとちゃぶ台だけの空間に、4人が入れ替わり立ち替わり、話を進めていく。見ているうちに、一体今はどの部屋の話なのか、わからなくなってくる。頭がこんがらがってくる。

【写真は「我着地、クワイエット」から。撮影=川本直人 提供=わっしょいハウス 禁無断転載】
【写真は「我着地、クワイエット」から。撮影=川本直人 提供=わっしょいハウス 禁無断転載】

【3】
 もう1つ、このお芝居の興味深い特徴を挙げておきたい。それは、演じていない役者が、舞台からいなくなったり気配を消したりせずに、舞台上に存在し続け、ときには無印ダブルリングノートとちゃぶ台の周りをふらふらと漂っているということ。そして、本当は舞台上にいてはいけないのに、演じている役者をじっと見ている、ときには睨むということ。

 この「漂う目線」を、少なくとも僕は他の舞台で見たことがない。最も似ていると思うのは、お芝居の何かではなく、ポリフォニックな小説の視点だ。ドストエフスキーでも何でもいいのだが、多視点で語られる小説を読むとき、僕の頭のなかには多くの視点が漂っている。そして、そのうちの1人が語るとき、他の視点は、その1人を眺めている。もちろん、物語上はそんなことはありえないが、少なくとも読者としての僕の頭ではそうなっている。(おそらく、作者の頭のなかもそうなっているのだろう。)この舞台では、まさにそれに近いことが目の前で起こる。やはり、文学好きにはたまらない。

【4】
 姉が想像する男と女は貧乏だ。古い6畳一間に2人で住む。男は普段、もっぱら最安値スーパーに通っているが、恐れ多くてこれまで足を踏み入れなかった東急ストアにふと入る。その明るさに驚き、気持ちよくなって価格の高さを忘れ、買い物をしてしまう。デパートの食品売場や紀ノ国屋などの高級スーパーではない。多少割高かもしれないが、東急ストアは十分に一般的なスーパーの部類に入る。そこに入ったことがないのだ。さらには妹が想像する姉も、負けじと水道料金が払えないくらいの貧乏だ。おそらく、妹そのものも貧乏だろう。そして、孤独だ。年末年始、誰にも会わずに部屋にこもってしまうくらいの孤独だ。

 貧乏と孤独は想像力の源だから、妹が暇をもてあまして物語をつくるのはごく自然な流れだろう。しかし、面白いのは、想像力の向かう先が、どこまで行っても東長崎の古いアパートだということ。決してファンタジーにはならない。反社会的にもならない。ただただ、東長崎で話が展開していく。

 空想的でないわけではない。先にも触れたとおり、男と女の住むアパートは1年に1階、成長する。物語のクライマックスで、男は初めてアパートの階段を上に上っていく。どこまで上があるか、知りたいから。雲を突き抜けて78階まで上る。78階の渡り廊下の先には、男が昔よく行っていた名古屋・矢場町のパルコがある。そこで男は何を買うでもなく、また階段を下りる。そして、途中で足を踏み外し、永遠に落ちていく。

 この物語の想像の行き着く果ては、「矢場町のパルコ」なのだ。何と言う飛躍の小ささ、何と言う現実感。これを妹の想像力の欠如と呼ぶこともできるかもしれない。しかし、それは少し違うだろう。そうではなくて、妹は、きっとわざわざ別の世界を空想する必要がないのだ。おそらく妹は、貧乏で孤独にもかかわらず、決して現状が嫌いではない。もしかすると、現状を愛している。だから、現実から逃避して空想の国を建設したり、現実をひっくり返そうと反社会的な物語をしたためたりしなくてよいのだ。日常のなかに少しだけ非日常を持ち込んで、戯れていれば十分。

【5】
 男は年末年始、女の両親に挨拶に行かなくてよかったのだろうかと悩む。またあるとき、薬局で妊娠検査薬を買おうとする。女は、煙草をやめる。2人は4年間出さずにいた転居届を出す。それは多分、婚姻届と出産の準備だ。2人には現実が迫っている。いつまでも6畳一間で暮らしているわけにはいかない。

 そう思った途端、世界は暗く冷たく見えてくる。女の両親と家族付き合いができるだろうか。女と子どものために稼ぎたいが、良い待遇の仕事などあるのだろうか。日本経済はこの先、大丈夫だろうか。親子3人で路頭に迷ってしまうことはないだろうか。おそらく男は、不安にかられている。その不安が、結末の「永遠の落下」につながっているのではないか。

 男の不安は、きっと姉の、そして妹の不安でもあるだろう。たとえ貧乏で孤独でも、今の暮らしを続けて人生を終えられれば、十分に幸せだ。おみくじは末吉ばかり引いてきたが、末吉なら上々だ。しかし、うまくいくだろうか。日本の経済や社会はどうやら小さくなっていくようだ。もっとひどい状態に陥るのではないか。そういう思いが、無印ダブルリングノートのページの裏に見え隠れしている。

 古市氏は『絶望の国の幸福な若者たち』のなかで、今の若者がこれまでにないほど生活に満足しており、幸福を感じていることを明らかにした。「若者の生活満足度や幸福度はこの四十年間でほぼ最高の数値を示している」のだ。なぜかといえば、将来が不安だからだという。「人は将来に『希望』をなくした時、『幸せ』になることができる」。だからこそ、今の若者は幸せなのだ。まさに、妹のことではないだろうか。現実に満足しているような物語をのんきにつくっているが、その実、本当はとても不安なのではあるまいか。

【6】
 「あ、」「えー」「あの」「…」このお芝居の役者たちは、終止言葉を詰まらせる。「ひらめいた。らしい。」「やめた。ようだった。」おかしなところで言葉を切る。もちろん、本当にセリフを噛んでいるのではない。台本にそう書いてある。なかなか難しいことだと思うが、4名の役者は皆さん、本当に上手に言葉を詰まらせる。まるでセリフではないみたいに。今、この場で考え考え話しているかのように、セリフを言う。現代口語演劇をまったく観たことのない人が観たら、「この人たちヘタなんじゃないか」と思うかもしれないほど。いやいや、これは断じてヘタではなく、「ヘタウマ」なのだ。それにしても、これほどのヘタウマ口調は、現代口語演劇のなかでも珍しいのではないだろうか。青年団だってどこだって、これほど頻繁には言葉を詰まらせない。少なくとも僕は、(そんなにたくさん観ているわけではないが)他に知らない。

 ヘタウマ口調は、このお芝居にピッタリ合っていると思う。なぜなら、きっと本当にこのような「妹」や「姉」や「男」や「女」がいたら、きっとそんなに話すのは上手じゃないだろうから。そしてこの物語は、今まさに、どこかの「東長崎の6畳一間」で起こっていることだから。まったくリアルではないけれど、ある意味では極めてリアルなのだから。

 我着地、クワイエット。どうも男は、永遠に落ち続けているわけではないらしい。いたって静かに着地した。また落ちるのかもしれない。でも、それはどうでもいい話。今はとにかく着地している。地に足がついていることを感じながら、一歩一歩進めばいい。人は結局、それしかできないのだから。

【筆者略歴】
米川青馬(よねかわ・はるま)
 フリーライター・編集者。昔、少し役者をやっていて、最近、観る側として戻ってきました。それからようやく、読書ブログを始めました。

【上演記録】
わっしょいハウス <SNACパフォーマンス・シリーズ 2013 vol.3>「我着地、クワイエット」
清澄白河SNAC(2014年2月7日-11日)

作・演出:犬飼勝哉
出演:浅井浩介、後藤ひかり、椎橋綾那、宮部純子(五反田団)
舞台美術:本橋龍
制作:川添真琴
宣伝美術:中村みどり
主催:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会
助成:公益財団法人 セゾン文化財
協力:(有)レトル、甘もの会、五反田団、あみど、シバイエンジン
料金:予約2000円、当日2300円


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください