連載企画「外国人が見る小劇場」番外寄稿

 この企画にはすでに5人の方々が登場しました。国別でいうと、韓国、ルーマニア、カナダ、イタリア、ドイツ。いずれもインタビューでした。今回は番外の特別寄稿です。筆者は、ドイツのセバスティアン・ブロイさん。昨年末にインタビューを申し込み、数度の遣り取りを経て、寄稿形式でまとめてもらうことになりました。その間の経緯はブロイさんが原稿の冒頭で触れています。
 「異なる文化的背景で育った『眼』を通してみると、日本発の舞台芸術がはらむ意外な特徴が浮かんでくるかもしれない」との企画趣旨でした。欧米だけでなく、中国や東南アジアの方とも折衝しましたが、今回は残念ながらアジアは韓国の方だけになりました。しかし限られた「眼」に照らされるにしても、(日本の)「小劇場の意外な特徴」がいくつも浮かんできました。今回の番外寄稿で「小劇場の魅力、可能性、限界」がさらに掘り深く明らかになるのではないでしょうか。(編集部)

◎演劇とその環境について考える
 セバスティアン・ブロイ(ドイツ)

特別な扱い方をされたくないという特別な扱い方

 今回ワンダーランドでこの原稿を書くという流れになったのは、「外国人が見る小劇場」というインタビュー企画に参加するのがいやだ、と言ったことから始まった。「ブロイは『海外』じゃなくて『は行』です」と、少し意地の張ったことばを返したが、それを読んだ企画者の北嶋さんはとても紳士的で、代わりにというか、この件を踏まえ、番外で文章を書いてくれませんかとの提案をくださった。誤解がないように言っておくが、「『は行』です」というのは、演劇の作り手でもある自分にとって、どのような文化背景で育ったかということより、「いま・ここ」で何をやっているかということのほうが重要だという意味の主張だった。ドラマトゥルクの仕事について、あるいはそういった視野からの話は喜んで引き受ける。しかし「外からの観察者」となると、ちょっとヘンな気持ちになる。誰かが選んでくれた服を仕方なく着る、みたいな気持ち。

 知り合いの奥さんがこの前「女性として」理系分野で研究活動をすること(の特殊性?)について取材を受けたことがあるが、写真撮影のときに、アクセサリーとかバレー靴とかないかと聞かれて少し戸惑ったそうだ(「とても女性らしい」と結局背景に選ばれた花は旦那さんが活けてくれたものだった)。なるほど、「リケジョ」を探しに来たんだから、仕事の話をした後はバレー靴を履けばいいんだ。このエピソードから学ぶことは、インタビュー参加者の発言よりも、あらかじめ選ばれた「テーマ」のほうが内容の意味を決めていく力をもつということ。そんなわけで、ワンダーランドから「欧米の『眼』を通して、日本発の舞台芸術の特徴と可能性を探る」という企画に誘われたときに、ほとんど反射的に「いやだ」と思った。「女性として」科学に関わっている人も、「外国人として」日本演劇に関わっている私も特殊な人物だと思わないが、たとえそうであったとしても、「いま・ここ」でやっていることは「科学」だったり「演劇」だったりするから、関係ないことは「雑談コーナー」におけばいいのでは、と思った。

 ただ、ある目線を否定しただけで、その目線が消えることにはならないのだ。ワンダーランドとのやりとりではむしろ、「釈迦に説法」的なことをしてしまった気もするし、また、私の違和感に先入観が入っていたことも否めない。「驚き」は見せたいけれど、マスメディアが好むような「外人目線」は避けたいというところにワンダーランドと私の意見が合って、ご覧の特別に特別でない扱い方になった。その経緯は以上のことで、少しでも触れることには意味があるかもしれないと思ったから書いたが、これから書くこととは別に関係ない話。

【写真は、セバスティアン・ブロイさん。 提供=筆者 禁無断転載】
【写真は、セバスティアン・ブロイさん。 提供=筆者 禁無断転載】

 ともあれ、この文のテーマとして「小劇場の特徴、魅力、そして限界」ということを私なりの視点から述べることを提案された。私にとって、「小劇場」について書くということは作品よりも、作品のつくられる環境について書くということなので、それなりに抽象的な話にもなることは不可避だろうけども、「解像度」の低さゆえに何かパターンや全体像のようなものもみえてくるかもしれない。この作品単位や作家単位を超える「環境」たるものに、私はとても両義的というか、チグハグな感想をもっている。稽古場ではチグハグな感じになるときにいつも文章を書く。文章を書くことで、思考を少しでも整理できるかもしれないので、今回も同じことにしたい。

「いい自閉性」と「悪い自閉性」?

 リミニ・プロトコルの演出家のダニエル・ウェッツェルに言わせれば、「エンタメ」と「芸術性」は矛盾しない。彼らの演劇にその考え方が具現化されていると思うし、私も同じ意見というか、同じ価値観をシェアしているつもりで演劇と関わっている。東京の小劇団も、少なくとも私のみた印象では、「エンタメ」と「芸術性」をなんとなく合わせた感じで活動しているケースが多いが、さらにもうひとつの特徴がその中に入って、この二つを微妙にかみ合わなくするように思う。「やっていることにはポップな、つまりバラバラのコンテクストを持っている人に通じる軽さがあるのにもかかわらず、数人の選ばれし者しか観に来ない」という矛盾点のことだ。同じ劇団を何度か観に行けば、客席にも同じ顔が多いことに気づく。出演側の友達とか。上演後のトークイベントにも知り合いが呼ばれる。これはある種の連帯感を持つコミュニティーのようだが、いくら友情とはいえ、公演にまったく興味ない人がわざわざ金を払ってただ応援とか挨拶しにいくわけじゃないだろう。ともかくも、【アーティスト、会場、客層、イベント】などの、作品の「環境」たるものと切り離して、上演作品を純粋に、無条件にアートとして楽しんでそのまま帰るようなことは、つくる側にも観る側にもそんなに求められていないようで、これは何か暗黙の了解にも感じる。

 このポップなのにエリートな客層は何を求めて演劇を観に行くのだろう。ギャグやパロディーに爆笑したい、絶叫する男の勇気に感動したい、日々の疲れから癒されたいのであれば、TSUTAYAに行けばいいじゃないスか。小さな公演でもチケット代は2000円から3500円までするけど、DVDを借りて家の大型テレビで見れば100円、しかもおつまみ食べ放題。この人たちがTSUTAYAに行かないで、劇場まで足を運ぶのはなぜだ。

 そんな素朴な自問自答にはたぶん、同じくらい素朴な仮説しかしぼり出せない。それは、小劇場には文化としての価値があるからだと思う。いや、演劇をやっている側としては非常にうさんくさいことを言っているのもわかるけれど、それはさておき。「この文化には価値があるから継続しなければならない」というような、漠然とした義務感で演劇を観に行く人は誰もいないし、そんなこと言われても観に行こうなんて思う人は誰もいない。文化として価値があるというのは、人をつなげる何かを勝手に、自主的に、そして継続的にやっている、そしてそれを国家とか金とかモテるためにはやっていない、みたいな意味だ(例外もあることは認めるが)。誰か、何かを代表しようともしない。昔バイトでチケットもぎりをしたウィーンの歌劇場については同じことはなかなか言えないが、そうゆう温室で育てられた「華麗なる花」が文化のデフォルトな印象だから、都市の隙間から芽生えてくる「雑草」を愛する人として一言いわせてもらいたい。文化ってそんな崇高なもんじゃないんだよ。

 とはいえ、TSUTAYAから文化が生まれることは今後もあまり想像できない。なぜならレンタルDVDを巡るコミュニケーションの継続性には限界があまりにも見えやすいからで、つくり手と受け手がいっしょに過ごす時間も場所もないからだ。テーマだったり、論点だったり、物語だったり、そんなものに対する気持ちや感情の共有と、それらを巡る人間関係。都市文化の演劇には、オペラの堂々たる舞台や3D映画の「りんじょうかん」と違ったような、とても地味な、でも確かな魅力がある。温室を必要としない、タフな文化の魅力。「この文化には価値があるから」集まるのではなくて、「みなが集まるから文化が始まる」、そして目に見えない価値が生まれるわけだ。

 複製技術によって時空を超えるデジタルメディアと違って、演劇は「アナログ」にしかできない。美術作品みたいに「コレクト」もできないし、商品としての交換価値もつかないから、ビジネスにすることはほぼ不可能だろう。時間と場所においても、経済の面においてもいろんな制限がかかっている。ある程度の成功を収めてきた劇団は一公演あたり2000人は確実に入るらしいが、それを突破することはなかなか難しい。もう少し平均的な公演の場合は400人から600人、そのうちも100人弱はプレスや財団関係などの招待客(「今後につながる人」)。観客の2、3割が招待だと言われると、他のジャンルならどうだろうと考えてしまう。音楽のライブとか、美術館とか。私の知り合いには美術館に行く人も多いけど、逆に美術系の人が — メジャーなものを除いて — あまり劇場に行かない印象はある。これは既存のイメージ(ダサいイメージ?)が強いという原因もあって、とくに若い人は美術館や映画館よりもすごい金を払ってイマイチなものを観にいくのに抵抗があるだろう。一方、制作側や劇場側にも活動の幅を広げるのに経済的な制約がある。客席に同じ顔が多いという結果をみて、「閉鎖的」とか「狭い」とか、演劇の「村」的な特徴を指摘する人も出てくる。

 それに驚く人はたぶんあまりいない。

 文化というのはまず、誰かにとって意味のあるものでなければならない。社会全体で考えても、フランス映画とか、写真とかB級グルメとかに興味を持つ人も少なければ、サッカーや野球といった最大公約数的なものでさえ「ファンでない」という人のほうが多数派になるから(注1)、基本的にはどんな文化にもある程度の「自閉性」を指摘することができるかもしれない。「自閉性」とは関係ないものとの差別化の結果であり条件である。そして確かに、演劇の社会全体への魅力や影響力は量的にはほんのわずかであって、アーティストの生活には、これが経済的な影響を及ぼしていることも否定できない。ただ、「量的に少ない」という事実がアーティストと観客のコミュニケーション、あるいは文化としての価値を質的に下げるだろうか。
(注1)と、あるスポーツ紙の調査が示している

 ドラマトゥルクなんぞを肩書きにして東京で演劇をつくる自分はもともとバスもあまり来ないところから都会に出てきた。近くのまちは人口3万人程度のわりと普通の田舎で、同じ飲み屋で集まる、同じ池で泳いで焚火をする、同じロックバンドのライブを観にいくということは、そこに暮らす私たちの文化だった。違う村の違う人にも似たような文化があったに違いない。そんなのは知ったことじゃないという人のほうがほとんどだから、私たちの文化にはたぶん小劇場とかよりもずっとわかりやすい「自閉性」があったと思う。コンビニが一個しかない場所にだって、そこをたまり場にするヤンキーにも文化みたいなものがあって、自分たちの濃厚な文化を持つ権利があって、それをテート・モダンのキュレーターや東京の大学院生も納得できるような「普遍性」のある形にする義務はないだろう。私たちだって、バイクを川沿いまでとばしてラジカセで音楽を聴くような、すごくシンプルなことを中心に集まって「公共性」のマイクロ単位をつくったわけだけど、私たち30人前後にとって価値あるこの文化は、同じ田舎に住むほかのおよそ29970人には何の意味もなかった。

 文化の価値を参加している人数だけでは評価できないかもしれない。

 数人でしか楽しめない文化にはもちろん、限界のようなものもあるし、「いい自閉性」も視点によって、「悪い自閉性」に見えてくる。「外」からの刺激が少ない、「中」からの批判があっても構造が変わらない文化は、良くも悪くもガラパゴス諸島と似ている。(日本の?東京の?)小劇場も社会、言語などの条件があってこその独特な形がみられるから「ガラパゴス的」だと言われる。バラバラの形式がバラバラになった差別化のプロセスと、そのプロセスを促す刺激は、ここにしかない、といった意味の喩えだ。このような「上から目線」を受けたアーティストは停滞感を感じるかもしれないが、私の少ない経験でいえば、このプロセスは必ずしも退屈で予測可能なものばかりを生み出すものではない。「環境の閉鎖は、むしろその内部における洗練度の上昇と親和的である」と、江口正登氏がF/T11の総評で述べたように(注2)、東京という場所、そして「インディペンデント」という状態からしか生まれるはずのないものが、ここには出てくる。とてもローカルでセンスのいい劇団には例えば東葛スポーツを挙げることができる。日本語ラップと映像サンプルを合わせた舞台の、ザツでコミカルな、常に誰か/何かに対して中指を立てている感じがたまらなくすきだ。これが芸術です、真面目な顔でみなきゃ、みたいな不自由はまったくない。アートとして楽しめる最低限の条件といえば、それだ。
(注2)『フェスティバル/トーキョー11ドキュメント』(p.109)

 私が(東京の?横浜の?)小劇場について両義的というか、チグハグな感想をもっている理由はたぶんこの「いい自閉性」と「悪い自閉性」の複雑な関係にある。悪いほうの「自閉性」が舞台の上にも現れる。例えば数日前に小さい会場で観た舞台もそうだけど、最近みる舞台にはあまり面白くないタイプのセルフ・レファレンス(自己言及)が支配的だ。アーティストとしての行為を問い直すということ自体は問題ない。むしろ演劇というメディアにおいては自然で必要なことであって、べつに「新しい」演劇じゃなくても、形式的に「古い」演劇にも演劇であることへのセルフ・レファレンス的な要素は常にある。ただ、それが「演劇をやっている俺たち」になると、私はうんざりする。「演劇をやろうとしているのにできない俺たち」はさらにうんざりだ。(ミキサーのINPUTのとこにOUTPUTのケーブルを差し込むと確かに面白い雑音が出るかもしれないけど、「音楽がつくれないやつ」と「ノイズ音楽」の違いも確かに、それが鳴ってからの過程にある)。このような芝居をやめられない人と、自己肯定感に満ちた自虐ネタに感動泣きする人々は、非常にうさんくさい共犯関係にあると私は思う。小さな素晴らしい文化を背景にしか成立しない表現の特殊性を認めつつも、観客としては微妙に甘えられているような気持ちになる。

 一度成立した芸術的な共同体の中のコミュニケーションは安定性・柔軟性が強いので、検閲や言論の抑圧ほどの、芸術の機能そのものを阻止する破壊力がないかぎり、いろんな刺激や「時代の空気」的な変化があっても続けられる。この変化への対応性によっては当然、忘れられてしまうとか、ミュージアム化・剥製化される芸術もある。日本演劇の中で、形式が19世紀からたいして変わっていない「お芝居」もまだ元気だし、70、80年代の「私演劇」から形式がたいして変わっていない「小劇場」がまだあるのもそうゆうわけだ。とはいえ、自己肯定の「演劇=人生」的なものと違って、「時代の空気」も、演劇以外のものもうまく吸収できるようなアーティストもいる。彼ら/彼女らの表現でみられるように、「いま・ここ」のコンテクストを超える普遍性はとても小さくて、でも具体的なことから出てくる。チェルフィッチュとつくった『現在地』にはフクシマという今日的な命題もあるが、危機のさいに物語消費に耽ることの野蛮さ、やばさ、みたいなものも役者の表情、そして舞台と観客の空間に細やかに刻まれていると思う。飴屋法水の舞台美術も非常にローカルなものを素材にして、宇宙を展望するような体験をさせてくれる。彼ら/彼女らの演劇活動は、「ローカル」と「グローバル」も矛盾しないことを明らかにしている。この数少ないアーティストがつくる形式の多様性と比べて、全国的に高い売り上げを占めるアイドル文化のほうがよっぽど「村」にみえる。

創作活動の可能性の条件

 演劇は一人でつくれないし、一人で観ることも想像できない。そう考えると、演劇を中心にコミュニティー的なものができているのも不思議に思えない。この文化を「支える」、「繋げる」、「広げる」ために、批評家やプロデューサー、そしてフェスティバルディレクターもそれぞれとても重要な仕事をしているのは周知の事実だ。しかし、彼ら/彼女らやアーティストの仕事は、それよりもずっと地味なところで、目に見えない仕事をする人たちに支えられているという事実もある。「スタッフ」と呼ばれる人には会社員並みの収入をもらう人もいるが、敬意しか払われない人もたくさんいる。学生時代に「勉強目的」で有名なカンパニーのアシスタントをやっていた知り合いのXさんの場合はそうだった(メリットは、公演が観れること)。3年ほど演劇の現場と関わって、Xさんのようなケースをいろいろ見てきた。もう一人の知り合いのYさんも、制作スタッフとして国内の様々な公演に関わっている。ある程度の人気を集めた劇団の制作は一公演にあたって3ヶ月くらい拘束されるらしく、「多くの場合は終電で帰る。早いときは、家に帰ってから仕事が続く」そうだ。スマホ時代のクリエイティブワーカーはいつでもどこでも仕事が出来すぎてやばい。「事務作業としてはOLのやってることと本質的には変わらない。助成金申請とか。企業の社員になったほうがラクと言われたらそこまでだ。だから何を目的に働くかっていうのが明確にないと、この仕事を続けるのがきびしい」とYさん。

労働が価値をつくるというのは、マルクスから引用しなくていいくらい当たり前のことだが、流動性と柔軟性を強調する現代のクリエイティブマーケットではとくに忘れられがちなことだ。この演劇シーンに対する複雑な気持ちに、この点も含まれている。価値を生み出す文化の「可能性の条件」が、人の労働の上で成立している。が、多くの場合、その労働は十分に評価されていない、あるいは長く続けられない状況にある。この事実を前にして、どんな美しい表現でも、どんなに社会を訴える表現でも、全部がインチキにしか見えなくなってしまうだろう。かっこいいアーティストと関われる特別な仕事だから、自分より安く働けるライバルもいるだろうというような、ぼんやりとした不安。歳をとってもこの仕事を続けられるかどうかわからないという不安。そんな気持ちを抱きながら有名な人の創作活動を支える彼ら、多くの場合は彼女らに、将来展望みたいなものがあるかどうか。文化としての価値と継続の「可能性の条件」も結局、そんなところにかかっているではないかと私は思う。

【略歴】
セバスティアン・ブロイ(Sebastian Breu)
 1986年、ドイツ・バイエルン州生まれ。ウィーン大学、大阪大学、ベルリン自由大学で日本語・比較文学を専攻し、今年4月から東京大学表象文化論専攻博士後期課程に進学。2011年より演劇ユニット快快 -faifai- に参加し、『りんご』、『6畳間ソーキュート社会』などの公演に関わる。チェルフィッチュでは『現在地』、『Unable to See』、『地面と床』、F/T13ではリミニ・プロトコル公演『100%トーキョー』のドラマトゥルクを担当。池澤夏樹と安部公房の翻訳でJLPP翻訳コンクール(主催:文化庁)のドイツ語部門最優秀賞。東京を拠点とした演劇活動を現在も続けている。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください