Hula-Hooper 「WATAC I」

◎現代日本演劇史についてWAGAHA Iが知っている二、三の事柄
 西 悟志

チラシ50(Hula-hooper) ひらめいた、セキタンヲバハヤツミハテツ。千早振る神無月はとうに終わった12月8日の月曜日、Hula-Hooper の『WATAC I』(わたし)楽日のこと、夜更けてから楽日の本日観劇せしと云う北嶋さんより劇評のオファー有、どこに発表云々抜きにしたって今回こそは菊川芝居について何らか書いておかねばならぬと息巻いて覚悟決めていた矢先、渡りに船とはこのこととて、事のうまく運ぶ時には本当に事のうまく回るもの也と思うけれども、さらと書いてみてはという先方のご提案、やWAGAHAIとしてはひとつ演劇作るってほどの大作文になるやもしれぬと考えていたのだから、一風呂浴びながらぐるぐる頭巡らせて書きたいもの求められるもの別個にして書くのやら例えば大長文書き上げてその一部掲載して貰うのやら、もくもく思い巡らせて湯に沈むところ。ひ、ら、め、い、た、このアイデア可能ならばオファー受けた現時点にして石炭をば早や積み果てつつつつつ、つまり『石炭はもう積み終えてしまった…』とは要するにつまりその劇評、オファー受けた現時点にしてほとんど「もうすでに書けている」

 閃けりとざばと飛び出た風呂上がり、顔合わせるなり妻ゆきえが「『朝子でした。』っていうの思い出したら、朝子の芝居の朝子の最後の『朝子でした。』っていうのを思い出したら、『つーん』ときた。」と目頭おさえる仕草で笑いながらやや涙目、どういうことさと問うたらば、「そっかあ、あの頃の朝子はもういないんだけど、最後に出てくる朝子は幸せそうで、よかったねーって、思ったら。今の朝子のことを、あの頃の朝子は知らないけど、今の朝子が幸せなのはいいなあ。。『つーん』。」ああ、、、それはたしかに、つーん、だねえ、泣けるねえ、それは泣けるねえ、とWAGAHAIも思わず貰い「つーん」して暫くじんわり。

 こんな遣り取りをした。
 以下。

― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ―

 

西 悟志 @nishi_satoshi 2014/11/26 †1
ふらふーぱー稽古場覗き見、相当面白ェぞ。。や分からぬ全貌知らぬし贔屓の引き倒しか勘違いやも?が「新しい見世物」の予感…キャパ50とか一握りの客観るのみなど口惜しけれども、12月4日より日本否世界で最も瞬きし演劇が屹度其処にあらむ、と言い切りたい。才女爆発。こと女性にお勧めしたく。

†1 140字限定のミニブログTwitterの投稿。
(以降の注釈はWAGAHAI=西 悟志によるもの。)

     ……

他人の公演のお知らせ
2014年12月5日 18:07

西です。大方の方はご無沙汰しています。自分さておき、ある舞台公演(公演中、月曜まで。一番下に詳細のリンク)のお知らせまで、一斉メールです(図らずも携帯メールにて)、失礼。

遅まきながら日本の近代文学を読んでいます。ろくろく読んでこなかったものが、どれもこれもひどく面白くて。しかし知的に面白くて刺激的だけど、さすがに泣いたりはしないものだなあ、と思っていたところ、現代人にはほとんど古文体で読むのにひどく骨の折れる樋口一葉の「十三夜」という一編を読み終わろうとしていたとき、自分がうるうるしてしまっていることに、心底驚きました。

天才だ…!

物凄い才能の人でした。漱石は大好きで、鷗外はよく分からん、くらいに思ってましたが、樋口一葉が天才だなんて知りませんでした。誰も教えてくれなかった。あまり誰も知らないんでしょう。いや、一部の人は十分大騒ぎをしていて(だから札の図案にもなっているのですが)、けど関心のない人にはその声がちっとも届かないものなのでしょう。

近代文学を読むとともに、その辺ちょっとかじっていたなら滅法面白い伊藤整の「日本文壇史」(全24巻)という記録文学本も読んでいて、そこにものの24歳で夭折した樋口夏子(本名)が顔を出すたびに、もう胸がきゅっと締め付けられるようなのですが。
そして天才は天才なのでした。知らなかっただけで。この本の16歳の樋口夏子の初登場シーン。

和歌の学校にて、ある女性連れの一人が、お皿に詩が書いてあるわね、と言ったところ、給仕をしていた女の子が、その「赤壁之賦」を諳んじ始めて、とうとう詩の最後まですらすらと朗唱してしまったそうです。その子が場を去ってから、後に小説家ともなる田辺龍子は、「なにもあんなに見せびらかさなくったっていいと思うけど、でも覚えてないよりはマシね」と言ったそう。龍子があとで歌の先生に尋ねたところ、その樋口夏子はとても頭のいい子で、古今集などは全て覚えているとのこと。(調べてみたら古今集所収は約1100首。)

天才というのは、センス云々とかではなくて、もはや地が違うんですなあ、、

一人、知ってる演劇の天才がいます。菊川朝子という。その人の公演の案内です。

一葉と同じように、この人、きっと普通の人と「地が違う」んです。

メールの返信が異様に速い。笑

赤壁之賦のようには天才の証拠に足りないですかね、、(しかしいちいち驚きますよ。)

天才なので、劇作、演出、振付、選曲、演奏、制作、衣装、宣伝美術、と彼女は何でもやりますが、一晩で作ったというチラシデザインを、見てくれーと言われて画像ファイル開いたら23パターンあって、こっちは恐れおののくワケです。。(しかもクオリティが高い。)

もうずーっと観続けてますが、ここ3年は彼女、数えたら6本作ってましたが、その6本が6本とも傑作しか作っていません。
もはや「傑作しか作るのをやめた」んでしょうか。。

作ってるものは、基本くっだらない、んです。彼女は自分の好きな人と物を集めて、くっだらないことだけやっていたい。野心がまるでないわけじゃなさそうですが、やってることそのものがひどく楽しそうです。だったら、人に発見されようが発見されまいが、いいのかもしれない。けど、はたから見ている自分としては、少々くだらないというだけで、こんな演劇的才能溢れる人が、人の目に止まらないことが、演劇にとって残念でしようがない。(おじさんには好かれるそうですが、「君のは演劇じゃない」ともよく言われるそうです。)(しかしそれって逆に…「見込みがある」ってことじゃないか!?)
もう彼女も34らしいし。売れなくってもいいか。でも、せめて、心ある人の目には止まってほしい、と老婆心ながらそう思います。

傑作続きの彼女ですが、今回のものは演劇の可能性を更新した、いつもにまして高度な達成、と思います。

彼女は音楽も振付もやるものの、「演劇のひと」です。その彼女が、彼女らなりの、「コンテンポラリーダンス」に挑戦していて、それが今回の「WATAC I」(わたし)。
初日に観たら、驚くほど思った以上に「コンテンポラリーダンス」。にもかかわらず、演劇。

テキストとして使っているのは、彼女の高校時代の「実際の交換日記」。

「コンテンポラリーダンス」=わたし=実在の交換日記、というコンセプトが実に絶妙、そして全体を貫いて明確です。

(どうです、ちょっと面白そうじゃないですか…)

いつものフラフーパーのように、ひたすら面白おかしいじゃ済まされず、新しいものが生まれた居心地の悪さもある。会場は劇場でなく小さなギャラリーのようなので、テクニカルな表現の限界もある。まだまだグレードの上がる余地もありそう。

けど、これは、彼女にしかできない、彼女だからこそ可能であったろう演劇で、演劇からダンスに越境してるかもしれなくて(越境なんて、言うは簡単、でも越境なんてピナ・バウシュ以外で実現してるのそう見たことあります?†2)、浅草橋のマンションの一室のような都会の片隅で、切なさも真実味も戦争も選挙戦も一切出てこないので、あっさり無視されやすいのですが、天才がおるんです!天才が!おるんですよ!

†2 と、この時は勢いで書いてしまったものの、チェルフィッチュ、マームとジプシー、それから地点などは「越境」してる、と思っている。私見ながら。

この音楽のような、ダンスで演劇に、心震える人が一人でも増えないものかと、菊川朝子が曇らぬ目の人にまで届かぬものか、とお知らせまで。

★CoRich公演情報
Hula-Hooper「WATAC I」
PC
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=59145
携帯
http://stage.corich.jp/m/stage_detail.php?stage_id=59145

     ……

差出人:北嶋さん

Re: 他人の公演のお知らせ
2014年12月5日 21:21

西さま

推薦メール、ありがとうございます。
すぐに予約しました。西さんが「参る」ほどなら、見る価値ありだと思います。重い腰も挙がりました(笑)。
とりあえず、感謝!

北嶋

     ……

Re: 他人の公演のお知らせ
2014年12月6日 0:15

ご無沙汰しております†3、いち早く予約とのこと、たいへん有難く思います。

長々と予防線めいた講釈のような返信を書きかけたのですが、、まあ呼びかけに応えて頂いたのだから、ここは一つ何はともあれ見ていただくとして。
いやしかし、勧めたにもかかわらず、オソロシイです。彼女の芝居を、苦虫を潰したような顔でただただ時間が過ぎるのを耐える男性客を何度も見ているので…笑
まあ世に認められてないだけで、間違いなく才能はある人です。具体的に、まるで粘土をこねるように、芝居を作れる人だし、一生懸命演劇のことを考えてる人ですので。何かしらその才能の片鱗でも受け取っていただければ幸いと思いますし、何より北嶋さんにご覧いただけるのは思わぬ釣果です。

†3 5年ぶりだった。「北嶋さん」はここレビューマガジン・ワンダーランド主宰の方。

     ……

12月6日『WATAC I』3日目公演後の飲みに参加したWAGAHAIの言ったことのうろ覚えの採録:

WAGAHAI (酔っぱらって)「イエネ最近、僕、日本の近代文学バッカ読んでんですけどネ……日本にはヨーロッパの自然主義をカンチガイしたとこから始まった『私小説』って独自の文化があって、ですねェ……ソレ人によっては、マ批判もあるわけだけど、そこにはもしかしたら日本人なりの切実な問題があッたのかもしれないという気がしてて、(斜向かいの菊川指さし)今回のコノ人の『WATAC I』もネ、僕ァそういう文脈の……」

菊川朝子  「わたしコレ太宰だと思ってるもん!」

WAGAHAI 「エッ」(←用意した結論が本人の口からあっさり先に)

     ……

メッセージ To 菊川朝子

12/7 0:26
やーいい夜でした

芝居、感服しました†4

「太宰的?」って思ってたんだよ、まさか本人の口から出ようとは

「私」のこと喋ってるんだけど、そこに知的な操作が入ってる(照れ隠し、もありつつ)

初日も、ああ、と打たれて、もう既に知ってたのに、今日も驚いてしまった、「最初のポーズに戻るところ」

あれ、すげー。うわー、と思う。望月さんと兵藤さんはゆっくり前後ろに歩いてくのに、しびれた。

てのがあった上でのラストだったので、泣いたんだろうと思います笑†5

ぶらぼー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
0:27
ありがとう
死ぬほど嬉しい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
0:27
はええ笑†6

†4 二度目に観たらすっかり「完成」していて(彼女はその辺の調整能力もすごい)、例えば初日に感じた「テクニカルな限界」の一つは照明のことで、据え付けの設備は「家庭用」レベルの代物でそれをパチパチ変化させるのはさすがに興が醒めるよ…と初日に思っていたのが、3日目には「まるで遜色がなかった」。思い切って変化なしの素明かりで勝負するならまだ分かるが(実は初日後そうアドバイスした)、あの貧弱な照明を使って「見せ物として仕立て上げた」のは、個人的には前代未聞レベルだ。並の人と違って、具体的に、まるで粘土をこねるように芝居を作れる、とはそういうところにも表れている。
奴には敵わねえや、と感動してしまって、公演がハネた後、この作品がいかに優れているか力説してやれと誘ってくれた飲み会に参加したら、菊川の友人の、仕事で8年間熊本にいてこの度東京に戻ってきた、菊川も10年ぶりで再会したという「佐藤くん」という人に会った。その「佐藤くん」が思いがけずWAGAHAIのことを知っていると言う。こんなところでNICIさんに出会うと思わなかった、と言う。NICIさんの作る芝居が大好きだった、と言う。十年越しの想いを伝えられてよかったありがとうございます、と言う、いやいやいやいやOLEのこと覚えてくれてる人がいるなんてこちらこそ本当に本当にありがとうございます、と超嬉しい返り討ちを食らったのもあって、機嫌のいい夜だったのであった。「佐藤くん」は「菊川のは具体的だけど、NICIさんのは抽象的」と言っていた。なるほどなるほど、やはり「具体的」という言葉。その「具体的」に憧れるのかなー敵わないんだよなーと頭を掻いたところ、「僕はNICIさんの芝居の時間の流れ方が好きでした」と「佐藤くん」は言ってくれたので、本稿も時間の流れ方に注目していただくとなんかあるだろうか。(やー嬉しかったなー)

†5 泣いたといえば。くだらないといえば。おじさんに腐されるといえば。見知った頃に聞いた菊川朝子にまつわる大好きな話がある。当時の彼女のパートナーから聞かされて、この人は信用できる、といっぺんに思わされた些細な話なのだが。小津安二郎の『お早よう』という映画がある。(以下にネタバレ込。些細だけど。)日本映画の名匠という名には不釣り合いなようなキッチュ感覚にあふれて人気の映画だ。見れば分かる。その映画をNICIは並木座という名画座で初めて観た。ガラガラの客席で、上映中に真後ろの席から「くだらないよ…」という小声の呟きがあった。上映後に客席の明かりが上がると、真後ろの席には白髪の頑健そうな男性が夫婦連れでいて、席にどっかと座ったまま憎さげにもう一度「くだらなすぎるよ…」と呟いたのだった。そういう映画である。見れば分かる。聞いた話とは、こうである。家で二人でそんな映画『お早よう』を見ているとき、ラストシーンになってふと隣を見たところ、あろうことか菊川がぼろぼろ泣いていた、というのである。えー、『お早よう』で泣いたかぁー!?と話を聞いてWAGAHAIはゲラゲラ笑った。そして、この人は信用できると思った。そのラストは「小学生の兄弟がテレビを買ってもらえた」というごくごく些細なものだ。しかもまたそれが小津流の「薄暗い廊下に大きな段ボール箱が置いてある」という実に控えめな表現なのだが、だから別に菊川はくだらなさに泣いたわけではきっとない。この映画が人気なのはくだらなすぎるからで、多くの人は手を叩いて喜ぶ。またくだらなすぎるから、一部のおじさん等は舌打ちをする。でもおそらく菊川は、その映画のくだらなさの中にあった、くだらないだけじゃないものを「見過ごさなかった」のだ。と同時に、彼女はそのくだらなさもこよなく等価に愛しているんだろうと思う。小津が『お早よう』で描こうとしたのは、まさにそういう些細なことに関する考察のはずなのだ。(まさか泣かせようとは思わなかっただろうが。)そういう感性の持ち主の作品を、「くだらねー。」だけで済ませるわけにいかないじゃないですか…と思うわけですよ。

†6 返信が速かったのだ。

     ……

差出人:チョウソンハ†7

Re:他人の公演のお知らせ
2014年12月7日 15:43

とりあえず見てきました。

本当に楽しそうにやりますね。力みもなく技はあって、大切に作られていて参りました。見習いたいと思いました。人目に触れる触れないは水物だと思うので、意に介さずこうして作り続けて欲しいと思いました。あの場所にいた人間にとっては大なり小なりそれぞれの景色を見たであろう時間だったと思うので、演劇でしょう、に一票。

†7 俳優・成河(ソンハ)。いまや朝ドラに主要キャストとして出てるんだそうだ。JIBUNの学生時代たまたまの先輩後輩関係。(そういえば、知人のうちではチョウと菊川がメール返信二大速イ人であった。菊川が一番な気はするが。)

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     ……

Re:
2014年12月8日 16:47

おおー。。

忙しかろうに
観てくれようとは 感謝

「大切に作られていて」確かに

稽古場を覗かせてもらうようになったのだけど
これが感動すら覚えるくらいで

何でも自分でやってしまう人だし
毎度芝居の作りが厳密なので
(ガラクタかのように見せながらも)
稽古場では「独裁政権」に違いないと睨んでいて
数々泣かせてきたみたいな話も聞いていたし
実際やはり独裁ではあったものの
想像したような有無を言わせぬような独裁では一切なく
「柔らかな独裁」というか

稽古場いながら
政治になどすら思いを馳せてしまって
現行の民主制だって万能ではないと思い知らされる昨今
古代ギリシャのプラトンの
「哲人政治」という考え方がある
民主制よりも
一人の徳のある哲人が独裁するのが政治の理想という
演出つける菊川見てたら
こんな独裁者なら国を任せたい、と思わせるような†8

†8 このメールだけ書きぶりが明らかに違うのだが何ゆえか。送信主は1年半ほど前に受信先に対して「ある粗相」をしていて、以後音信が途絶えていた。というところに、予想外の、しかもすでに観劇したという返信をいただいた。言葉というのは素直なもので、これまでは年嵩なのをいいことに売れっ子役者にも偉そうに振る舞ってきたものの、この度については、明らかに粗相の引け目と朝ドラ…という権威から、「です・ます調」の丁寧語で返信しかけた。しかし、以前からの知己としてです・ますの他人行儀は距離を置かれたと感じるだろうし、せっかく呼びかけに応えてもらったのにかえって非礼だよなあ、といって元のように馴れ馴れしく言葉を吐く気になれない…と書きあぐねた末に、近頃読んだ「北村透谷の自由律叙事詩」みたいになったら書けた。詩のような改行を重ねる形式となった。ので、唐突にこういう風なのだった。言葉をもてあそぶ気になれない、けど書かねばならない時、BOKUは「句読点」を使う気になれなくなるんですけど、そういうことありませんか。

見事なのはひとときたりとも止まらないこと
次から次に動作を振り付けて行く
(やはり視線の上下など実に細かなところにまで及ぶ)
初めて見たときは一時間ノンストップ
イメージがあるから一切悩まない
実に軽やか
なおかつ、違う、など役者を否定することがまるでない
役者は瞬発的に反応しながら試しながら演技を作っていって
そうしてみるみる芝居ができていく
「一方的」のように聞こえるかもしれないが
まあ独裁なのだから一方的でもあるはずだが
なのにまるでそういう気にならない
「柔らかな独裁」で
非常にクリエイティブを感じる刺激的な現場だった

気づいたら休憩して気づいたら始まってるのも驚いた
午後の部から夜の部への大きな休憩中
夜の部から参加の役者がやってきて
改定稿の台本が渡される
休憩中
役者は静かにもぐもぐやってたりする
渡されたホンを見つめていた役者が菊川に「これは…」と静かに質問したりする
菊川が「あ、〈夜空ノムコウ〉は口笛になったから」
役者の一人がノリで〈夜空ノムコウ〉の口笛を吹き始める
別の役者がそれに乗る
気付けば全員が立ち上がって集まって吹いていて
菊川は時折口をはさんで、ああして、こうして、と細かく演出をつける
すっかり稽古になっている
ひとしきりやって
ごく自然と別のシーンに稽古が移る
その間に呼びかけも号令も一つもなく
いつのまにやら稽古が再開していることを
その場の誰一人として疑っていない

役者にそのことを聞いてみたら
この稽古中に
何分まで休憩、という指示があったことは一度もありませんでしたね、と

稽古場が呼吸してるように
菊川の身体性が稽古場を満たしている感じ
そうやって時間と空間、役者たちを
まるで粘土とか具体物としてあつかって
捏ねるかのようにみるみる芝居を作りあげていく
なおかつ、酵母菌は殺さない、という感じ
自発性は場の雰囲気から求められていて
独裁ながら、役者は活かされる
という

うーん、、理想
小鳥†9時代に目指してはいた
リラックスしながら自発性はあるという
これも菊川の天分あってこそなせる技なわけだが、、

†9 書き手がかつて主宰していた劇団のこと。

たとえばこれが、規模が大きくなったらどうかと想像する
休憩時間は指示しなければならなくなるのじゃないのか?
菊川の芝居は小さいからいいのか可能なのか
いや、俺は必ずしもそう思わないし思わないでいたい
ここに可能性を見出したい

光浦靖子というお笑いの人の
男と女の笑いが違うという論が鋭いと話題
という記事をたまたま読んだ
なかなか面白くて
「男の笑いは間合いが短い」
「規定外の笑いは男にはウケにくい」
(ああ、
 ダメよーの日本エレキテル連合は
 規定外の笑いで
 女性たちが発見したのだろうと思える)
中で一つ非常に重要な指摘は
テレビのバラエティは男の笑いのルールでできているということ
本人はそこに適応しきれないことに悩みがあるらしい
「女は二時間くらいほったらかした方がおもしろい」
なるほどと思う

近年勉強している妻ゆきえの感化で
フェミニズムに関心をもつようになった
知れば知るほど
この世は男性本位でできているのだと思い知る
この軋みから発される声は本当に男には届きにくい
自分も一切聞こえてなかった
男にとっては「既得権益」だから
自分も幾分かの反省もこめつつ
今はかなり下のほうから世の中を眺めながら
人というのは
「自分より下にあることは一切見えない」ものなのだと思う

全く興味がなかったにも関わらず
フェミニズムがよく理解できるようになったのは
元から自分に資質はあったようで
型にハメられるなんて
真っ平御免と子供心にも思っていたし
だから人を型にハメて
理解はしないようにしている
女性たちはそう生まれるだけで
まず「オンナという型」にハメられるものらしい†10
ちっとも知らなかったんだが

†10 男は俳優、女なら「女優」、とつい言ってしまう。たとえば。

フェミニズムは男に聞こえない†11
けどフェミニズムを促進するのは男こそ力になる
という気がしている
ので
きっぱり援護射撃することに決めた
女性が抑圧から解かれるのは
歴史の必然
奴隷制がなくなり
黒人のアメリカ大統領も生まれたのだから
意志によって現状を変更してきたのが人の歴史だ
そう簡単には変わらないと分かっていたって

†11 まず、これは女性たちにもきちんと伝えておきたく思うが、「聞こえない」のはことさら男が悪いわけじゃなくて、「本当に聞こえない」んである。かつてを振り返ってそう思う。JIBUNは今は何とか聞こえるようになったものの、多少の苦痛と忍耐はどうしたって強いられる。実感の伴わないことを理解しなければならないので。
どうして聞こえないのか。例えば先に挙げた「男は俳優、女なら女優」という非対称があったときに、「そりゃ分かるけど」(だから何だよ?)と思ってしまうのだ。言葉上の問題の先にある痛みには実感がないので。言葉では分かるだけ事は厄介で、そこで大した問題じゃないなといったん判断されれば、もう後は「聞こえなくなる」。(うるさいだけ。)
さてでは、例えば「女優」という言葉の何が問題か、大変面倒だが、耳傾ける余裕のあるフェミニストではない男性は聞いてほしい。「いい俳優」という場合を考える。女性の場合は「いい女優」となる。問題はなさそうである。(とみなしてしまうなら、もうほとんど「聞こえない状態」である。)では男性の方も、いちいち「いい男優」ともし言われるなら、と想像してみる。「いい俳優」ならば「力のある俳優」くらいを意味していたのが、「いい男優」となるとそこには「力のある」というばかりでなく、ナニカ「男らしさ」が要求される感じはしないか…。女は産まれてこのかた、女であるだけでその「オンナ」という型にさらされる、常に女らしいかジャッジされているというのが女性たちの抱える窮屈なのだ。
そうそう分からんはずである。お勧めするのは、大した問題じゃないと即断せずに、それがどうやら窮屈らしいとだけ念頭において、耳を塞がないで空けておくこと。そのうち分かってくることもある。ちょっとした苦行である。なんでそんな苦痛を引き受けなきゃいけないかというと。JIBUNが思ってるのは、「そのほうがいいに決まってるから」ということである。
菊川には運動や思想に関わるようなフシは一切ないが、「私は女を売り物にはしない」と断言するのを聞いたことがあって(売り物にすれば分かりやすく買ってくれる人はいるのだ…)、実は今回初めて気づいたのだが、劇団ホームページの「Hula-Hooperのこと」というページにはっきりとこう記しているのであった。
「出演者は女のみ。女であることに決して媚びず、女であることに決して怯えず、女だからできること・できないことを「女」に逃げずに表現する。」
(これJIBUNも目にしたことはあったはずだが…今初めて「聞こえてきた」。あらためて、すごい奴だなあ、と思う。)

同時に芝居のことも考える
演劇の女性的な形式ってあり得ないだろうか?
たとえば近代文学を読み漁って
明治大正期の女流作家で読んだのは
樋口一葉たった一人きりだという異常†12

†12 こうした異常を理解しかけた頃、まさかという気になって、中学時代から親しんでいた「洋画ベスト150」という本を引っ張り出してみて愕然。主体ある女性を描いたと言えそうな映画が、数えて「ものの4本」。そのうちの1本である『風と共に去りぬ』が「圧倒的人気を誇る不朽の名作」たる訳を思い知った気がした。(女性にとって、他に見るべき映画がなかったってことだもん。)

もちろん今は明治大正期でない
女性作家はごく当たり前の存在だが
いまだ男のルールがどっしりと居座っていることは
先の光浦靖子の愚痴が示している
いったいそれがどういう形であるんだか
でも「女性的な形式」ってあり得るんじゃないのか†13
新鮮な(たとえば演劇的)表現の試みとして

†13 こういうことを思うとき、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で「東洋人が万年筆を考案していたら穂先を毛筆にしただろう」という、思いもかけぬ、と同時に、ごく真っ当な発想のことがBOKUの念頭にあってヒントにしている。

光浦靖子の言った、テレビで「二時間ほったらかしに」は
可能だろうか
普通、むつかしいと思う
しかし考えた
この先二三十年で
テレビが今のままであるということはあり得ない
想像もしない形式になっているに決まっている
そこでの未来への妄想は自由だ
妄想が未来を生み出すのかもしれない
想像できる妄想はしておけ
それが未来を形作る力になる
かも
女性的な笑いのルールを排除しないテレビを夢見てみよう
7時からとか9時からとか
時間を定めないで始まる番組は可能か
きままに始まりきままに終わるような
ツイッターで始まる時間を知らせればいいし
いま現行の地上波ではできないというだけで
いつかはあり得るかもしれない
今の自分たちが想像できないだけ
未来は想像もしない形で形作られるに決まってる
できる妄想はしておきたい

女性的な形式の演劇(と名指すのがいいのか分からないが)を夢想していたら
菊川の今回の芝居、ダンスが
そういう俺の想像する新鮮な形式をもっているんじゃないかという気がして
自分が作りたかった、見たかったもの(の可能性の一つ)な気がして
正直、悔しかった、らしい
彼女の芝居はガラクタめいてるから
元より「面白い、と済まされて」消費されやすい
今回のも人は面白くは見るのだろうが
未知の可能性ある演劇を目撃したと
そう心を動かすに至らないんじゃないか、こと男は
という予感がしている
しかしそれは
規範のないところに
新しいものが生まれてるからなんじゃないか
というふうに思えて
(だって よく考えたら こんなもの 見たことあるだろうか?)†14
「女を二時間ほったらかし」に通じるという気がして
いったいそれが劇として見るに耐えるのかどうか
しかしいったん見られる、と思ってしまえば
感動するくらい見てしまうし面白いんじゃないか
(感動してしまった)

†14 先にダンスへと越境している演劇としてチェルフィッチュ、マームとジプシーを挙げた。その表現の前衛っぷりは、〈ベタな〉菊川演劇をはるか凌駕している。しかし、両者とも〈お話〉という一点は手放していない。『WATAC I』の新鮮さ(と居心地の悪さ)は、「コンテンポラリーダンス」の名の下に〈お話〉を手放してしまったところにあるだろう。大半踊っているから「ダンス」でもあるには違いないのだが、手触りはどうしたって演劇である。
ちなみに地点は、みるからに〈お話〉のある古典戯曲を扱いながら〈お話〉を(一見)放擲しているかのような狂暴さがある。という点では、〈お話〉の一点は手放さなくとも、チェルフィッチュの蛇行する台詞は鮮烈であったし、さらなるマームとジプシーは、セリフは聞こえなくてもいいや、という凄みがある。尖っている。
菊川演劇の攻めっ気はそれらとはまた別のところで発揮されていて、と(前もってこの原稿のタイトルで実は予告してあるわけだが)ゴダールの映画を引き合いにこむつかしそうに論ずるのは、せめても今より菊川演劇が人目に触れることを願いつつ、思わせぶりでまたの機会に繰り越す。

ただの面白いで済まされる前に
この冒険は拾われなきゃいけない
それは自分の仕事なのかも
応援するのか、書くのか、
呼びかけて人に観てもらうか

観てくれて とても有難い
チョウソンハが観てくれたことは
なにか呼び水になる気もする
闘う場所がずいぶん遠く離れてしまったし
観にくる可能性もほぼあるまい、、と
実は呼びかけメールの宛先から一回チョウのを外しかけたのだったが
闘う場所が変わったと勝手に判断したこと
申し訳なく思う
呼びかけメールには二人が応えてくれて
それが思わぬ二人で
意識の高い人たちは
フットワークが軽いのだと思い知った

人目に触れる触れないは水物というのは、、
高みに登っているチョウなりの戒めと謙遜と思うが
菊川朝子が拾われないのは
人ごとながら
人ごとでなく
演劇のために
(自分のためにも)
人目に触れる努力(一風変わったやり方かもだが)はしたいと思う
きっとこれは俺が拾わにゃならんのだ
つい
長いの失礼
今もって驕らず懐の刃物を研ぎつづけているんだな
と感服した次第

     ……

差出人:チョウソンハ

Re:
2014年12月8日 16:56

いやー、久しぶりに面白いメールですねー!!

現状の規格に準じつつも常に規格外を妄想し続ける事、が恐らくこの先10年20年の僕のテーマです。こう言ってしまえばもはや誰でもがそうなんでしょうが、本当に妄想し続けるには実に色々な事が必要だったり、時に処分が必要だったり。僕は最近熱帯魚を飼っていて、熱帯魚に適した水を何ヵ月もかけて造り上げる過程にはまっていて、有毒なアンモニア→亜硝酸→硝酸塩というサイクルで分解してくれるバクテリアを育てる事が急務になるのですが、そのためには現状目の前にある綺麗な水(人が飲んだり観賞したりするため)、その中の目には見えない何を生かして何を殺すべきなのか、日々悩んでいます。おいといて。(中略)

 おいといて。これは何処にも掛からない注である。もし自分が熱帯魚だとしたら、水中のコレを生かしてアレを殺している存在がいようとは夢にも思うまいな。そんな熱帯魚になったつもりの、水中で右往左往のWATAKUC Iゴトを書く。よくよく思い出せば、見てくれた二人、それがチョウと北嶋さんの二人だったのも妙な縁があった。最後に北嶋さんとメールでやりとりした5年前。そのサカナは渾身の「劇評」を書いたんだった。その劇評の対象が、チョウソンハが出ていたから観た『春琴』という芝居であった。原稿用紙187枚分である。渾身だ。サカナはがんばった。書いた理由がワンダーランドだった。劇評サイトだからなのではない。サカナがアホみたいに世をすねているときに、ワンダーランドに掲載された(友人・清末浩平による)『春琴』の劇評を偶然発見し、その文中にサカナの名が挙がっていたことに「サカナは救われる思いがして」、それを契機に「その劇評に対する個人的な返信」という体で、187枚分書いたんであった。小さなサカナは大きな『春琴』にめいっぱい噛み付いた。サカナは書き切った。書き切ったが、書き上げたのが「上演の1年後」だったのだから、旬がイノチの劇評としては掲載に至らなかった。だからサカナの渾身は未発表である。あろうことかその後大きな『春琴』はこれでもかと再演を繰り返した。可哀そうな小さなサカナは実はその度にフイに終わるだろう渾身の原稿を思って胸が痛んだ。懐も痛んだ。そこまで書いたのだからとやむにやまれず再演の度にひっそり見に行ったから。最後の四演目、恐らくのラストチャンスだ。サカナは緊張した。サカナは考えた。せめても劇場にでも置いてきたら成仏するかなあ。だれか読んでくれるかも。……と人知れず原稿持参で劇場に行った。当日券で立ち見のところ、声をかけられた。びくっ。友人が来れなくなって一つ席が空いているのでどうぞ、と若い女性だった。好意に甘えて、席に収まって、例えば行きどころのない渾身の原稿が無関係ながらもこういう一つの小さな親切に出会うわけだなあと、サカナは感慨にとらわれて、観劇後にその親切な人に、この劇についてたくさん書いてあるんでコレあげます!と「そんな重たすぎる原稿」を見知らぬ人に持たせるテロみたいな、「親切をテロで返す」みたいなことをして(明らかにビビらせた)サカナは劇場を後にしたのであった……という事実をWAGAHAIはサカナに託していま初めて人に明かしたわ。
のような私的な打ち明け話をどうして長々として平気なのか。劇評なのに?
わざわざわざと「そうしてやりたい」とまでWAGAHAIは思っているんである。
菊川は、演劇じゃないね、と度々言われたんだそうである。
人ごとながらそれは悔しい。
今回のも、コンテンポラリーダンスじゃないねと言われるのかもしれない。
それは大変に悔しい。
だったらWAGAHAIの本稿も、菊川演劇と同じ次元で、これは劇評じゃないねと自ら進んで言われてやろー、と思うのである。
コレがもし劇評なのなら、菊川のだって演劇であろう。菊川のが、演劇でないし、コンテンポラリーでないならば、本稿など到底劇評などではあり得まい。上等である……話はそこからだ。
菊川朝子は自らの作品をもちろん演劇だと信じている。同じようにWAGAHAIも言い張りたいと思っている、これは劇評なのだと。どころか。私の今ここに書いているこの劇評は演劇だ。もちろんである。きっと菊川は頷いてくれるだろう、これは演劇だ。10年ぶりの新作だ、「佐藤くん」よ。劇評よ、汝も演劇たれ、である。だから、これは演劇である。なんでもありである。つまり、演劇は何だってありなんであって、音楽でもダンスでもコンテンポラリーでも劇評でも実はなんでもよいはずであって、ただもしそこで一言「つまらん。」と一蹴されたなら……俺たちの負け、だよな菊川?
例の「重たすぎる原稿」を引っ張り出してみたら、そういえばそのタイトルが『私信』であった。ここでもまた5年後の『WATAC I』と響き合っていた。その本文中に、原稿用紙187枚分のうちほんの一節だけれど菊川演劇への言及もあって、チョウ、北嶋さん、という名も挙がっている同じページにピナ・バウシュに触れたのに引き続いて、「俺並みに演劇について考えているらしい菊川朝子のHula-Hooper『静かなる演劇』というまったく美しい芝居も観たし」と書かれてある。

おいといて。菊川さんのしなやかで自由でいて強い自意識に触発されます。何かの時に必ず参考になると思いました。そして彼女には西さんのような人がいて良かったと、心から思います。少なくとも、僕が見られました。一人ずつ。

ミスチルの桜井さんがテレビで、「あなたの嫌いな言葉はなんですか?」と聞かれて、「それは難しい問題だよねぇ、という言葉が嫌いです」と言った様が神々しく、参考にしています。

僕らは妄想とランニングを続けましょう。

     ……

差出人:北嶋さん

Re: 他人の公演のお知らせ
2014年12月8日 23:22

西さま

本日、Hula-Hooper「WATAC I」公演をみてきました。とてもおもしろい! でも、さて、そのおもしろさをどう解析するか。西さんの出番のような気がします。ワンダーランドにさらりと書いてみませんか。

論を立て、絵の具を塗りたくる構築系の文章よりは、素描や水彩画のように、描線やタッチによって公演の特徴を探る方が、この公演にふさわしいはずです。2000字から3000字ぐらい。年内締切で、挑戦してみませんか。

本日は楽日もあってか、満員。出演した7人は汗びっしょりの熱演でした。

北嶋

― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ― ● ― 

 

†15 菊川朝子の才気のみならず、『WATAC I』は素晴らしい座組でもあった。掛け値なく。そのことを文中に一切言及しなかったのは遺憾であるから、冒頭とここの幕切れに使った区切り線で「出演した7人を表現してみた」。一番左の●から、望月志津子、菊池ゆみこ、西田麻耶、菊川朝子、榎本純子、佐藤友、兵藤公美、である。7人が列をなす幸福感。

Re: ご依頼の劇評
2014年12月9日 17:45

一晩で「書けました」。

並べただけ、ですけども。笑

作業しながらはっと途中で気づいたのですが、「実際の交換日記」のみをテキストとしたあの「コンテンポラリーダンス」(演劇?)についての、返歌として相応かと。

アリやナシや、ご判断ください。

昨晩劇評依頼のメールを受けて、もくもく思い巡らせての「形式をひらめいた」風呂上がりに、妻が顔を合わせるなり、「朝子の最後の挨拶する『朝子でした。』っていうのを思い出したら、『つーん』ときた。」と言いながら涙目で笑ってて。どういうこと?と問うたら、「そっかあ、あの頃の[交換日記していた頃の、過去の]朝子はもう『いない』んだけど、最後に出てくる[今現在の]朝子は幸せそうで、よかったねーって、思ったら。今の朝子のことを、あの頃の朝子は『知らない』けど、今の朝子が幸せなのはいいなあ。。『つーん』。」ああ、それはたしかに、つーん、だねえ、気づいてなかったけど正しい見方だねえ、やっぱりそういう組み立てをきちんと持ってる芝居だったんだねえ、泣けるねえ、樋口一葉みたいに泣けるねえ、と思わず貰い「つーん」してしばらくじんわり、しました。

西 悟志

 

【筆者略歴】
西 悟志(にし・さとし)
 1974年生。東大卒。演出作品に、小鳥クロックワーク最終公演、ワイルダー作『わが町』、阿部和重の小説を劇化したTextExceptPHOENIX+steps公演『ニッポニアニッポン』など。2005年に活動休止、以後活動歴なし。

 

【上演記録】
Hula-Hooper 「WATAC I」~Hula-Hooperの、やってみるシリーズ~
TODAYS GALLERY STUDIO(東京都台東区浅草橋5-27-6)(2014年12月4日-8日)

【本・構成・演出】
菊川朝子(Hula-Hooper)
【出演】
榎本純子(月刊口遊)
菊池ゆみこ
佐藤友
西田麻耶(五反田団)
兵藤公美(青年団)
望月志津子(五反田団)
菊川朝子(Hula-Hooper)

【宣伝美術】
アナログ→菊川朝子
デジタル→服部ひろとし
【宣伝写真】 山越隼
【WEB】 Hula-Hooper
【音響協力】久郷清
【当日運営】今井由紀/藤田晶久
【応援団】辻田亜紗子/吉田直人/沼田光弘
【顧問】 西岡慈円
【見守り隊長】上枝鞠生(Hula-Hooper)

TICKET(全席自由・税込)
【予約】3000円 ※平日マチネ割 2700円
【当日】3500円

 

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