◎物語のけじめと感動する責任
金塚さくら
木が一本立っている。骨ばって寒々しい、いかにもゴドーを待ちそうな木だ。ほとんど枯れたような枝に、申し訳ばかり三枚の葉がへばりついているが、この葉も開幕十秒ですべて風に吹き飛ばされて、物語の間中、木は丸裸のまま観客にさらされる。
東京乾電池公演『そして誰もいなくなった〜ゴドーを待つ十人のインディアン〜』の会場にて、舞台上に立つこの木を目にし、「いかにもゴドーを待ちそうだ」と思った瞬間はたと、私は自分がこれまでに一度も『ゴドーを待ちながら』の舞台を観たことがなく、あまつさえ戯曲すら読んだことがなかったのだという事実に気がついたのだった。
さらに言うと、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は確かにかつて読んだはずだが、マザーグースの『十人のインディアン』の歌詞に見立てた連続殺人、という以上のディティールを問われると目が宙を泳ぐ。関係者全員が犯人——だったのは何か急行列車の話のはずだ。
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