◎物語のけじめと感動する責任
金塚さくら
木が一本立っている。骨ばって寒々しい、いかにもゴドーを待ちそうな木だ。ほとんど枯れたような枝に、申し訳ばかり三枚の葉がへばりついているが、この葉も開幕十秒ですべて風に吹き飛ばされて、物語の間中、木は丸裸のまま観客にさらされる。
東京乾電池公演『そして誰もいなくなった〜ゴドーを待つ十人のインディアン〜』の会場にて、舞台上に立つこの木を目にし、「いかにもゴドーを待ちそうだ」と思った瞬間はたと、私は自分がこれまでに一度も『ゴドーを待ちながら』の舞台を観たことがなく、あまつさえ戯曲すら読んだことがなかったのだという事実に気がついたのだった。
さらに言うと、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は確かにかつて読んだはずだが、マザーグースの『十人のインディアン』の歌詞に見立てた連続殺人、という以上のディティールを問われると目が宙を泳ぐ。関係者全員が犯人——だったのは何か急行列車の話のはずだ。
これはゆゆしき事態であった。私の教養のことではない。いやむろんそれこそが根本的な大問題には違いないのだが、つまり、ろくな予備知識も持たずに、はたして舞台の真の醍醐味を味わうことができるのかという話なのだ。
なんとなれば、別役実によるこの戯曲は、タイトルからも容易に想像ができるとおり、『ゴドーを待ちながら』と『そして誰もいなくなった』を掛け合わせて翻案したものなのだという。
大丈夫なのか?
この劇場に私なぞがいて構わないものか。演劇にしろ小説にしろ、あるいは映画、漫画、何であれ、不条理作品をよく知っているわけでもなければ、ミステリのマニアでもない。つまみ出されるのではないか。
そんな私の懸念をよそに、ゴドーを待ちそうな木の下には、十人のインディアンの子ども、もとい、ゴドー氏(仮名)に招待された十人の老若男女がそれぞれ印象的な遣り口で、三々五々集まってくる。ゴドー氏を仮名としたのは、オーエン氏だのゴーエン氏だのゴードン氏だの、登場人物がそれぞれまちまちに呼ぶので、便宜的に「ゴドー氏」が通称として採用されたためだ。なぜゴドーに落ち着いたのか、その理由はよく解らないが、おそらくゴドーを待つ必要があるためだろう。
登場人物たちはフロックコートやツイードのスーツなど全体にクラシカルな衣裳をまとう。それらは決して厳密な考証ではないものの、なんとなくの雰囲気でクリスティ的十九世紀イギリスの空気を醸している。しかしそのまぶたは男女を問わずいずれも真っ青に塗りたくられ、どうも常軌を逸した狂気が匂う。
予感は正しく、彼らはまっとうな振舞いと対話を徹底的に拒否し、人が増えるごとに舞台上の混迷は深まってゆく。
物語の構成は大きく二つに分かれる。やたらな手間暇をかけて登場人物が全員揃い、自分たちの現状を確認し合うまでの狂騒が主に『ゴドー』風であり、その以降、後半で事態は一気にクリスティ化する。すなわち、彼らの間で謎の連続殺人が発生し、ひとりずつ減ってゆく中で真相の究明が行われ、最終的に意外な犯人とその殺害動機が明かされるのだ。一同がゴドー氏(仮名)を待つお茶の席にて、蓄音機が各々の罪状を読み上げて殺人を予告するのが転換点となる。
それにしても、と思う。ろくに考えもせずに客席まで来てしまったが、ベケットとクリスティとは、ずいぶん奇妙な組み合わせではないだろうか。ゴドーの世界で『十人のインディアン』殺人事件をする趣向というのは、不条理劇の文法でミステリを語ろうということであり、それはいささか矛盾ではないのか。
不条理劇というのは、なんとなくの思い込みに基づく甚だいい加減な認識によればおそらく、常軌を逸脱した奇妙な事態を前に、安心できる解答など存在しない、説明など断固しない、という決然たる姿勢であり、どうにかして真意や教訓を見出そうとする努力を鼻の先で一蹴する冷笑的な態度のはずだ。他方ミステリとは、説明不可能に見える事態を取り上げ、あの手この手で詭弁を弄し、解体し解説し、受け手にすっきりとした納得を与えようとする挑戦であるに違いない。
つまり、一方は説明を無効化するものであり、もう一方は説明をこそ身上とするものであって、そんな背反をひとつの作品に同時にぶち込むことなどできるのか。
しかし意外にも、舞台上での両者の相性は悪くないように見えた。考えてみれば、イズムとしては相反するものだとしても、物語になったときの匂いや好みとしては似たような側面があるのかもしれない。たとえば作品世界に漂う、何らかの幻想性やある種の怪奇趣味。そうした「雰囲気」の面で分類したときには、両者は同じカテゴリに容易に入り得るだろう。
終結へ向かって混迷が深まり不気味な後味を残すのが不条理作品なら、不気味な事態が理解の範疇へ納まって落着するのがミステリ作品であり、そうして受け手は、その不気味さをこそ楽しんでいる。
と、いうことは。両者を混ぜ合わせたこの舞台は、はじめから終わりまで永遠に不気味が続くということか。
実際のところ、そこに流れるのは決して不気味な雰囲気ではなかった。現実離れした歪んだ空気はあるし、青いまぶたが狂気を孕んではいるものの、全体を覆うトーンはどちらかと言えば軽妙だ。特に前半、客席はよく笑う。
というか私は、不条理劇というものが突き抜けたリアリズムの一形態なのだと知った。
登場人物たちが繰り広げる狂騒はひどく滑稽で、満座の笑いを誘うが、その滑稽さは「身に覚えがある」ことにおそらく起因しているだろう。彼らの応酬はどこをどう取ってみても普通ではないが、にもかかわらず我々の日常でよく見る光景ばかりに思えてならない。
妻と夫の会話は間違った地点でしかかみ合わず、妻は癇癪を起こし夫は決断を先送りして、夫婦の抱える問題はいつまでたっても解決を見ない。女たちは己の正しさのみを主張し、若造は軽んじられ、年寄りは敬意をもって適当にあしらわれる。不必要な言い訳を必死で訴える一方で、人の話は聞いておらず、同じやりとりが執拗に何度でも繰り返される。
本題を避けてどうでもいいような枝葉にばかり関心を示し、言葉尻を捉えてはぐるぐると不毛な論議を繰り広げるばかばかしい事態は、我々の日常にもしばしば発生しているはずだ。国内で行われる会議・話し合いの少なくとも八割は、これと似たりよったりに違いない。
役者たちはこうした非現実的でありながらおそろしく日常的な状況を、好感を持てる芝居で体現している。演じ方はおおむね自然体だが、そこに時折、やや誇張したような大仰な身振りや口調が混じる。完璧なリアルではないその程よい距離感によって、舞台は我々の現実のよく出来たカリカチュアとなり、観客は日常によく似ていながら決して現実そのものではないごたごたを、安心して笑うことができるのだ。
演じ手のうち、若手にはやや生硬なところも見られたが、ベテラン勢は突飛な台詞も自分自身の言葉としてよく咀嚼しており、奇矯な会話も当然の流れのように成立させる。
収集のつかなくなった騒乱を誰かの一喝によって鎮め、次へとコマを進めるという強引な手法が作中で何度か採られているが、一言の迫力で有象無象を黙らせる、ゴージャスな秘書役・作間ゆいや気難しい老婦人役・麻生絵里子らの説得力は確かだ。演出も兼ねる座長・柄本明の演じる判事が吐き捨てる、投げやりな「どうでもいい!」も印象深い。
作中では『ピンク・パンサー』など往年の名画の楽曲がいくつも使われており、レトロで小粋な旋律が、ともすれば狂気の沙汰にも見えかねない舞台をスタイリッシュに引き締め、立て続く惨劇をポップに彩る。
マザーグースの歌に合わせて十人のインディアンが一人減り二人減り、加速度的に舞台上が寂しくなってゆく中で、残された者たちはじわじわと真相に近づいてゆく。
この、ゴドー的世界で展開する別役式ミステリには、いわゆる「犯行動機」の他にもうひとつ、被害者たちの「殺された理由」というものが存在する。“なぜ殺したか”以上に、この“なぜ殺されたか”の要素が、真相解明のどんでん返しにおいて、より重要な位置にあるようだ。
物語の中盤、蓄音機から流れるゴドー氏(仮名)の声は、一同のひとりひとりを断罪する。朝寝をした罪、無実の者に濡れ衣を着せた罪、借りたハンカチを返さなかった罪、皿を割った罪、エトセトラ。それら許されざる罪のために彼らは裁かれ、死をもって贖わなければならない。
身に覚えのない彼らは口々に申し開きの声を上げるが、やがて推理の果てに、氏の言う罪とは生前犯したものではなく、彼らが死ぬことによって引き起こされるものだと明らかになる。被害者は、殺害されたのち二次的に他者へ何らかの害をなす。彼らはこれから犯すことになる不可避の罪を先取りで罰され、贖いによって彼らの罪は完遂される。
時空がいささか捩れているが、あざやかな論理ではある。
クリスティの小説同様、被害者たちは真相にたどりつきながらも犯行を止めることはできず、ひとり、またひとりと、死後犯すことになる罪のための罰を受ける。そうして最後のインディアンが絶命し、世界にはただ独り、真犯人だけが取り残される。
その、頭上に。
何の脈絡もなく巨大な分銅が天から突如落ちてくる。本気なのか冗談なのか「10t」と大書きされたそれが犯人を無惨に押し潰し、そして誰もいなくなって物語の幕は下りる。
このドリフのような結末を、しかし私は特段の抵抗もなく受け容れていた。
むろん、ずいぶん乱暴な力技だとは思う。10tの分銅が降ってくるというのは一体どういう状況か。しかしその方法はともかくとして、犯人の末路は然るべき、疑問のない帰着であると思われた。
つまり真犯人もまた、罰を受けたのだ。罪状通りの罪を犯して。
十人分の「罪状」のうち一つは、真犯人が自分に用意したカモフラージュだ。戯曲上の正確な言い回しは再現できないが、それは「実際には存在しないものを存在するようにみせかけた罪」といった内容だった。自分の創作したその罪を、自身も結果として犯すことになっている。
犯人はたしかに、架空の人物であるゴドー氏(仮名)を、招待状や殺害予告、さらには連続殺人の過程における小細工によって、あたかも実在してどこかからこちらを窺っているかのように一同に信じ込ませた。これは罪だ。
あるいは被害者たちを断罪した、その罪そのものも、本来ならばこの世に存在しなかったもののはずだ。なにせ殺されなければ犯すことのない罪だったのだ。起こらないはずの虚構の罪を想定し、実現させてしまった。これも罪だ。
この人物だけ生前の罪で裁かれている不整合が気になるというなら、その死によって「天から罰を下す何者か」の存在を想定させてしまうという罪深さを加えてもいい。それまで気配もなかった「登場人物」が最後にいきなり現れるのは、ミステリとしては反則だ。
10tの分銅が舞台に鎮座するラストシーンの余韻の中で、私の頭にはバナメイエビと『交響曲第一番《HIROSHIMA》』とSTAP細胞が浮かんでいた。
昨年末より順繰りに世間の恰好の話題となってきたこれらは、話題の当事者ではない、享受した我々の罪の深さを露呈している。騙された、という思いがあるなら、それは身から出た錆に他ならない。
食材偽装の一連ならば料理そのものではなく名前の印象を味わい、ゴーストライターの話ならば音楽そのものではなく「現代のベートーベン」というドラマを聴き、論文の問題なら研究の内容ではなく研究者のキャラクターばかり持ち上げる。
見るべき本題をなおざりに、論点のずれた周辺情報ばかり取沙汰し、自分の舌や耳や目が実際に感じたことよりも、誰か他人が語った言葉を拠りどころとして「感動」しようとする。他者の言葉、つまり物語を現実に重ねて楽しみ、事実をエンターテインメントとして扱おうとする。
物語と事実のけじめを曖昧にするから、こんな風に、ばちが当たるのだ。
物語を楽しむなら虚構の中に求めればいいのに、現実の内にそれを見出したがるのは、いったいなぜだ。
もしかして我々は、無意識のどこかで、虚構よりも事実の方が格が上だと捉えているのだろうか。思えば映画やら小説やらの煽り文句にしばしば「実話をもとにした感動作」とあるが、「実話」であること自体が意味ある宣伝素材たりえるということだ。
正真正銘の虚構だって取材や下調べは行われるだろうし、多かれ少なかれ実話を踏まえているだろうに。現にこの、どこからどう見ても虚構以外の何ものでもない舞台にだって、よく観察されたに違いない人間の滑稽な習性が反映されている。
しかし、どういうわけか、「作り話」の枕には「どうせ」や「所詮」が付いてまわり、事実は小説より奇であることを誰もが信じている。
たしかに実話は、それが本当に起こったことだと思いを馳せるだけでうっとりした気分になれるし、感動のしどころが解りやすく効率的ではあるが、それで虚構より上だとか下だとかいうことではないはずだ。効率よく感動を求める、というのもなんだか奇妙に響く。
10tの分銅は私にそんなことを思い起こさせた。むろんこれは別に、この作品の真のテーマがどうとか、舞台に込められたメッセージが何だと言っているのではない。
私はただ、その光景から連想しただけだ。
実際問題、犯人は自らのひねり出した虚構を強引に事実にしてしまったのであって、エンターテインメント化したわけではないし、他人の言説に乗ったわけでもない。私の連想は少しずれている。
おそらくは物語と事実の間にけじめをつけない甘えた姿勢が、類似して見えたのだろう。
殺人も感動も本人が能動的に「する」ものならば、経緯がどうあれ、そこには責任が発生するはずだ。安易に結果を求めれば、ときにはばちが当たることも、覚悟しなければならない。(2014.4.16 観劇)
【筆者略歴】
金塚さくら(かなつか・さくら)
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/
【上演記録】
劇団東京乾電池「そして誰もいなくなった〜ゴドーを待つ十人のインディアン〜」
本多劇場 (2014年4月10日〜4月20日)
作:別役実
演出:柄本明
出演:柄本明、綾田俊樹、麻生絵里子、谷川昭一朗、山地健仁、上原奈美、血野滉修、戸辺俊介、伊東潤、重村真智子、松元夢子、作間ゆい、飯塚祐介
照明:日高勝彦
音響:飯嶋智
舞台監督:沖中千英乃
舞台美術:柄本明
宣伝美術:池口十兵衛
協力:ノックアウト
主催・制作:劇団東京乾電池
チケット:全席指定 前売4,500円 当日4,800円 高校生以下2,500円