きたまり+NPO法人Offsite Dance Project「RE/PLAY(DANCE Edit.)」

◎演劇とダンスと人生−多田淳之介演出「RE/PLAY(DANCE Edit.)」をめぐって
 木村覚

フライヤーデザイン:加藤和也
フライヤーデザイン:加藤和也

 例えるなら、魚を水槽に放ったとして、その水槽と魚の関係がこの作品における演劇とダンス(ダンサー)の関係であった。多田淳之介の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は見終わった瞬間、いや見ている間も、非常に挑戦的な、ゆえに考察するに値する作品だとぼくの目に映った。演劇がダンスを取り込む。それは昔から行われてきたことではある。幕間で役者たちが踊るなんて使い方はかねてからありふれていたが、岡田利規が登場して、その独特な台詞回しのみならず役者たちの奇妙な身体運動に注目が集まり、果てはコンテンポラリー・ダンスの一大イベント、トヨタ・コレオグラフィーアワード(2005)に出場するなんてことが起きてからというもの、演劇とダンスは別物と考える思考は明らかに「古く」なった。
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遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011」

◎幽霊と記号あるいは没入と忘却
 木村覚

幽霊と記号

「トータル・リビング」公演チラシ
「トータル・リビング」公演チラシ

 死者が自分を死者と認識せぬまま現世の夢を見続けたお話、ということだけは分かった。主人公であるドキュメンタリー作家が「あの日」に福島県の塩屋崎灯台下にいたこと。その岬で津波に遭遇し、死に至ったこと。死の事実に気づかぬまま「南の島」にいると思いこんでいたこと。これらのことが終幕直前に突然、彼の仕事先の映像学校の生徒たちによって彼に告げ知らされる。だから、このことは間違いない。

 そうとなれば、天使のような存在感で不思議な問答を繰り返してきた二人の女「欠落の女」と「忘却の女=灯台守の女」は、彼の死後の魂の内を漂うなにかで、彼が自分の死を忘却していたこと(また塩屋崎灯台がその灯を消してしまっていること)のメタファーであり忘却が招いた欠落のメタファーである、ということも分かってくる。
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遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011」

◎劇評を書くセミナーF/T編 第4回 課題劇評 その1

「トータル・リビング」公演チラシ
「トータル・リビング」公演チラシ

 ワンダーランドの「劇評を書くセミナーF/T編」第4回は11月12日(土)、にしすがも創造舎で開かれました。取り上げた公演は、遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011」(2011年10月14日-24日)と岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」(10月28日-11月6日)です。講師の木村覚さん(日本女子大講師)も劇評を執筆。参加者の原稿と併せて公演内容や時代背景、劇作家の特質などにも話が及びました。
 最初に「トータル・リビング 1986-2011」評4本を掲載します。
 この作品は若い女性が舞台奥に飛び降りるシーンを早々に配置。バブル前夜の1986年(チェルノブイリ原発事故が起こった年)と2011年を往還しながら「忘却」と「欠落」をさまよい、「世界の歪みとそれでもなお続く私たちの生活が浮かび上がる」(FTサイト)舞台を、それぞれどのようにとらえたのか-。じっくりご覧ください。掲載は到着順です。

1.「忘却」を忘れられない者たちは、この作品で「忘却」を忘却できるだろうか? (髙橋英之)
2.幽霊と記号あるいは没入と忘却 (木村覚)
3.白くつるんとしたもの (都留由子)
4.忘却に抗い穴を穿て (山崎健太)

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コンドルズ「大いなる幻影」

◎「大いなる幻影」としての「日本のコンテンポラリー・ダンス」
木村覚(ダンス批評)

「大いなる幻影」公演チラシ最近の「エンタの神様」(日本テレビ系列のお笑い番組)はすごい。何がか、というとつまらなさにおいてすごいのである。「爆笑の60分!笑いが止まらない」と冒頭にキャプションがあらわれるのとは対照的に、圧倒的に笑えない60分。以前からそうだったともいえるが、このところ笑えない程度が極まっているように見える。お笑いブーム末期という現状を象徴的に映像化しようと目指しているのか?と勘ぐりたくなるほどに、次々と登場する芸人は、どこかでかつて見たような(そしてもはや誰もがすでに消費してしまった)ネタと形式をなぞってゆくばかりで、ネタの個性はキャラ設定以外ほぼない。笑いのマニエリスム(マンネリズム)。笑えない笑いを笑う。いや、視聴者はもう通常の意味では笑っていないだろう。それでも番組は堂々と続行している。それは大いなる謎だ。その謎において「エンタの神様」は、いま見るに値する番組である(少なくともぼくのなかで)。

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小指値「霊感少女ヒドミ」

◎舞台が遊び場(play-ground)となる条件
木村覚(美学/ダンス批評)

▽リミックス、あるいはデスクトップ画面としての演劇

「霊感少女ヒドミ」公演チラシよりハイバイ(岩井秀人)が2005年に上演した同名作品のリミックスである本作は、単なる翻案とは言い難いし、ましてや岩井戯曲の単なる再演ではない。ハイバイ版の骨組み、どうしようもない男ヨシヒロとヨシヒロを愛するヒドミとヒドミを愛する幽霊(三郎)という3人の登場人物の力関係を、ほぼそれだけを活用して、それ以外のほとんどすべてを北川陽子が仕上げた、それ故に、限りなくオリジナルと言ってよい戯曲の舞台である。

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「関係者全員参加!ダンスクリティーク」

◎「関係者全員参加!ダンスクリティーク」で交わされたこと(1)
-司会の立場からのまとめ
木村覚(美学/ダンス批評)

はじめに
大橋可也&ダンサーズを主宰する振付家・大橋可也さんのお誘いで「ダンス蛇の穴」という企画に参加することになった。そこでぼくは、昨年の11月から今年の1月にかけて、計5回、全員で11人の振付家・ダンサーをプレゼンターに招き、森下スタジオを会場に「関係者全員参加!ダンスクリティーク」と称する会をひらいた。これは、司会を務めた木村覚の立場からまとめたこのイベントをめぐるレポートである(この場をお借りして、3回に分けて掲載する予定)。

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ダンス企画 おやつテーブルvol. 2「畳delicacy」

◎ミニマルな所作の大いなる効果
木村覚(美学・ダンス批評)

「畳delicacy」公演チラシまず、ロケーションのチョイスが素晴らしかった。目白の赤鳥庵は、駅から高級住宅街を五分ほど歩くと突如現れる目白庭園の一画にあり、都心にいることを忘れてしまう静かで美しい空間だった。夜の回もあったのだが、室内に差し込む午後の光とともに見られて、昼の回でよかった。畳敷きの一室が、舞台と客席を兼ねている。受付で渡されたお茶とお菓子の小箱に手を伸ばし、しばらく開演を待つ。座布団に座って、廊下を隔てた窓から外を見渡せば、池に錦鯉が遊んでいる。時折、和装のダンサー四人たちもあらわれて、本番前にもかかわらず、観客の相手をしたり談笑したりしている。

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神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』

◎定規となった身体、測ることで生まれる時空  木村覚(ダンス批評)  この夏は、「生粋の」とでも形容するべきダンサーたちの公演をたて続けに見たという印象がある。黒沢美香と木佐貫邦子とが競演した『約束の船』。昨日(9/16 … “神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』” の続きを読む

◎定規となった身体、測ることで生まれる時空
 木村覚(ダンス批評)

 この夏は、「生粋の」とでも形容するべきダンサーたちの公演をたて続けに見たという印象がある。黒沢美香と木佐貫邦子とが競演した『約束の船』。昨日(9/16)見た『ミミ』でも、室伏鴻と黒田育世のコラボレーションがあった。どちらも技量ある2人の意外な組み合わせ。とはいえ、意外性や話題性に寄りかかることなく、組み合う2人のベストなクロッシング・ポイントを求めて、『約束の船』も『ミミ』もある程度しっかりした構成を拵え上げていた。

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岩渕貞太×清家悠圭「yawn」

◎瑞々しくて強くてカラッとした運動
木村覚(ダンス批評)

「yawn」公演チラシ
撮影=ニーハオ・のんのん

からだをおもちゃにして踊る。ぼくの夢にみる光景。よく聞く表現ではあるが、実際のところ、まず舞台上でお目にかかれない幻。
いや、優れたパントマイマーや教育番組での森山開次やロボコップのコロッケとか、いるでしょ? 巧みなコントロールで色んなものに変身しからだをおもちゃにするテクニシャンが、というひともいるかも知れない。うん、それはそう、彼らのテクニックについうなる自分がいるのは事実。それはそれで嫌いじゃない。

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吾妻橋ダンスクロッシング「The Very Best of AZUMABASHI」

◎アメーバ化したぞ「吾妻橋」
木村覚(ダンス批評)

「The Very Best of AZUMABASHI」公演チラシ3月の上旬に行われた「The Very Best of AZUMABASHI」の話をする前に、ひとつ寄り道をしておきたい。
もし吾妻橋ダンスクロッシングが存在していなかったら、日本のダンスシーンはどうなっていただろうか。
ちょっと現在と過去を振り返り、そんなこと考えてみたらどうだろう。「吾妻橋」以前すでにその兆候が如実にあらわれていたように、きっと、曖昧模糊とした「コンテンポラリー・ダンス」という言葉を曖昧なままに利用する有象無象の手によって、リアリティを欠いたまま何だか立派そうでアーティーな(芸術気取りの)存在として今日のダンスシーンは社会に位置づけられ(棚上げされ)、それによってわずかな例外を除いてどんどん時代から無視され取り残されていったことだろう。

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