岩渕貞太×清家悠圭「yawn」

◎瑞々しくて強くてカラッとした運動
木村覚(ダンス批評)

「yawn」公演チラシ
撮影=ニーハオ・のんのん

からだをおもちゃにして踊る。ぼくの夢にみる光景。よく聞く表現ではあるが、実際のところ、まず舞台上でお目にかかれない幻。
いや、優れたパントマイマーや教育番組での森山開次やロボコップのコロッケとか、いるでしょ? 巧みなコントロールで色んなものに変身しからだをおもちゃにするテクニシャンが、というひともいるかも知れない。うん、それはそう、彼らのテクニックについうなる自分がいるのは事実。それはそれで嫌いじゃない。

だけれど、からだを道具として使い尽くす巧みさが際だっても、無邪気な幼児の腕のなかで振り回されたり傷だらけにされたり首とか腕とかもがれちゃったりするような乱暴さがからだの操作にともなってないと「おもちゃにして」なんて言い方をする意味はないのだ。空を飛び、海を潜り、地中を進む、ギュイイイイーン、ズババババーン、と効果音を自分で発して幼児が操る、自由で乱暴なおもちゃのダンス。ぼくは、そんなダンスが見たいと思っていた。幼児のように。ずっと前から、公演に足を運ぶたび、そんな光景に遭遇するのをいつも内心期待してきた。

岩渕貞太と清家悠圭のダンスは、そんな光景に近いなにかだった。NibrollやCo. 山田うん、APEなどでダンサーとして活動し、近年、自らの作品を作り出した岩渕とNoismやBATIK(黒田育世)のダンサーを務める清家の一夜限りのタッグ。Super Deluxeのフラットな舞台、どっぷりとかいた汗で濡れていく岩渕のシャツが象徴するように、ふたりは四五分もの間、ほとんど出ずっぱりで暴れっぱなしだった。その体育会系部活的スポーティさも新鮮だったけれど、担いだり振り回したり叩いたり相手をひとと思っていない乱暴なダンスがなによりも痛快だった。

「yawn」公演
【写真は「yawn」公演から。撮影=聡明堂 禁無断転載】

『駐車禁止』などの初期Nibrollに感じた感覚に近い、瑞々しくて強くてカラッとした運動。ふたりの関係性もNibrollとのアナロジーを呼び寄せるところがあって、記号化された陳腐な「男と女」でも、その反対に振り切れた人工的でリアリティのない「ニュートラルな人間」でもない、いまどきの男の子と女の子の(いや、いまどきの人間の、と言うべきかも)独特の感じが出ている。イージーな共感で繋がっているのではなく、互いに自分勝手、でも相手のことを感じ合ってもいて、なんだけどそれを表現すると暴力的(とくに女子)になってしまう、というような。不器用で正直な、等身大の男の子と女の子。しかも、安易な恋愛物語に終結することなく、並行状態を保ったまま、その関係性は最後まで淀むことなく転がり続けていく。

そんなデリケートな関係性をフレッシュなまま舞台に上げられたのは、間違いなく、彼らの身体へのアプローチがデリケートだったからで、そのデリカシーが、からだをおもちゃにして踊るといった希有な事態を招くことにもなった。

「yawn」公演
【写真は「yawn」公演から。撮影=聡明堂 禁無断転載】

その最も輝いた瞬間は、ちょうど公演のなかばまできたあたり、ノイジーでアラビックなラップ・ミュージックをバックに、起きあがろうとする岩渕の肩を清家が何度も蹴り落とす場面だったろう。徐々に音楽がフェード・アウトすると、それに反比例して、黙々と「よんじゅきゅう、ごじゅう、ごじゅいち……」と部活の特訓さながら自分の振り子運動をカウントする岩渕と清家の声が聞こえてくる。と、それまで清家の蹴りが果たしていた、ふたりの関係性を物語る機能は宙づりにされて、思わず観客から笑いがあふれる。そこで繰り広げられていたのはただ、体力のひたすら有り余っているふたりの飽くことない遊び、からだを使ったゲームだった、ということに気づかされ、つい、もれた笑い。

九九までカウントすると清家の足が止まり、腿あげ状態のまま一周して戻ってきたら、今度は、仰向けでぶっ倒れている岩渕の口めがけペットボトルの水を注ぎ出した。岩渕のからだは咳き込み、たまらず水を吹く。それでもなお、お構いなしに注ぎ続ける清家。観客は爆笑を押さえきれない。そんな乱暴な仕方で、からだをおもちゃにして!と。

そこからは、観客をぐいっと引きつけ、ときは進んだ。具象的でスリリングな運動の連なる振付、強引なところもある。ふたりはときにユニゾン、ときに別々になって踊る。魅力ある振付、とはいえそれは、ふたりの関係を表現する類のものではない。ふたりの関係は、過酷な振付を遂行する際に不意にもれだしてくるものではあっても、それ以上の余計な説明も注釈も付加されることはないのだ。

重要なのは、振付とからだの間に裂け目があること。からだは必死に振付に食らいつく。ときに置いていかれそうになる。それでもやめない。乱暴に振り回される。振付からからだがはみだしてくる。だからぼく(を含めた観客)が見るのは、からだのなかに具現される振付というより、振付から引きはがされそうになる汗だらけのからだ、ということになる。

それはまるで(サッカーに喩えると)、疲労困憊したセカンド・ハーフにおいてなお、敵の隙をかいくぐったサイドバックのセンタリングに合わせようと、力の限り走り込むフォワードのプレイのような、見ないわけにはいかないスリルを湛えていたのだった。

終幕の直前、ふたりにスポットが当たる。するとふたりのシルエットが不穏な揺れとともに背後の壁に漂いはじめた。シルエットはからだから遊離して、勝手に大きくなったり小さくなったりする。どこまでもおもちゃにされるからだ。痛快さは切なさへと変貌する。他人によって勝手に解釈され情報化されていく今日的なからだのメタファーか? とシルエットを追っていると、照明が明るくなり、飽きもせず腕を上下に激しく動かしているふたりのからだが戻ってきた。安堵のような愛着のような気持ちでふたりを眺めていると暗転、幕は閉じた。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第51号、2007年7月18日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
岩渕貞太×清家悠圭「yawn」
振付/演出/出演: 岩渕貞太 & 清家悠圭
http://www.super-deluxe.com/2007/06/6/
Super Deluxe(東京・六本木、2007年6月6日)


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