#9 岡安伸治(岡安伸治ユニット)

「大学で演劇を学ぶとは ~若き俳優のために~」

岡安伸治さんかつて80年代小劇場演劇ブームの頃、ポップでもライトでもないけれども、パワフルな身体表現を軸に据え、労働現場に取材した泥臭い劇世界を構築し、異彩を放っていた劇団・世仁下乃一座(よにげのいちざ)。この劇団の劇作家・演出家として活躍された岡安伸治さんは、劇団解散以前の1991年から、桐朋短大の演劇専攻で専任教員を務めて来られましたが、今年3月に退官。そしてこのたび桐朋出身の若き俳優たちと「岡安伸治ユニット」を結成し、新たな公演活動に乗り出すとのこと。旗揚げ公演『蟠龍』の稽古に励む岡安さんに、大学における演劇教育のありかたから、今後の創作に向けた抱負に至るまでを、存分に語っていただきました。(聞き手 大岡淳)

-まずは、このたび「岡安伸治ユニット」という団体で上演される芝居『蟠龍』(詳細は末尾参照)について、お聞きしたいと思います。この戯曲はいつ書かれたものですか?

上演しながら育った「蟠龍」

岡安 1993年にスズナリで上演したんですが、そのときとは内容がまるっきり違います。当時、クレーン車が倒れる事故が頻発しました。あのクレーン車が龍みたいに見えたことから発想して、事故をおこした運転手を主人公にして書いたものです。ところがどうもダメでして、そのあと何回か上演を重ねて書き直しました。一回上演しただけでは未完成で、書き直しながら整理がついてくる、ということがあるんですね。そういう意味で、10年以上かけて作り上げてきた戯曲です。

龍について調べてみたら、昔、大して飛べない、小さい龍が沢山いたっていうんですね。これを「蟠龍」というんです。それで、天に昇れないちっぽけな龍ってどういうものだろう、という関心がきっかけとなったんですけど。それから、空海さんの京都の東寺に対して、西寺、西の寺ってのが昔ありまして、今は小さな公園になっていまは跡形もない。で、守敏と空海が雨乞い合戦したんだそうです。守敏は民衆に大変人気のあったお坊さんで、ひょっとしたら、これを妬んだ帝が空海と手を組んで潰しにかかったんじゃないか?と、想像を逞しくしたりね。さらに、エネルギーの問題に関心があって、青森の六ヶ所村や、地震の国、といったいくつかのキーワードがぽんぽんと出てきて、少しずつ練り上げたわけです。

何がどういう具合でキーワードになってくっつくか、私自身も分からないところがあって、ある日突然「これでいける」と思うわけですね。初めに答えがあるわけではない。深く考えていくと、ある段階で、自分の中でも反対派と賛成派がぶつかり合うんです、それぞれ理屈がありますから。どちらをとるべきか、相手がはっきりしているときは答えも出しやすいし書きやすいですけど、相手が分からないときの書き方は、それとは別にあるんだと思います。例えば、かつてチッソが問題になった、誰がどう悪いのか、企業なのか、国家なのか、見えづらい状態でした。じゃあどうすると問われたときに、何も答えられない。そういうことがあるような気がします。

今回の戯曲では「欲」というものを1人の人間に象徴させており、「欲」のために何を失っていくか、を描いています。人間が何かを欲したがために、蛸の足ではないけれども、ひきかえに失っていくものがある。戯曲では体の部分がひとつひとつ失われていくんですが、もちろん体の不自由な人を表現しているのではなくて、もっと大事な問題を表現しているつもりです。ただ舞台の上では、その欲に絡んだ出来事が、日常レベルでのやりとりを通して表現されないと、もう一つの世界も表現できないだろう。そういうことは役者に要求しますけどね。

-加えて『蟠龍』は、演劇論になっている部分がありますね。あれは面白いですね。

岡安 具体的には?

-役者が舞台に立つということの、業の深さを描いていると思います。他人事とは思えません(笑)。

岡安 あえて簡単に言ってしまえば、役者というのは、自己顕示の塊みたいなものですね。アンタ何がやりたいの?と聞けば、早い話が舞台に立てれば良い、人前で色々やりたい、と答えるようなところがあるんですよ。

-いやそれはそうですね。自己顕示欲なしに、舞台に立とうとは誰も思わないですよね。だから、その自己顕示をしたいが為に、多くを犠牲にしてしまう人間の業の深さに対して、岡安さんは批判的な観点も含めてお書きになっているんだけれども、芝居の中では、なんだか滑稽で、愛おしく思えてしまう。

岡安 実際にきちんと観察すれば、それが現実だ、ということでしょう。だからこそお客さんが、共感をもって楽しんでくれるわけでね。芝居の中で、理想的なことばかり言っているなんてとんでもない、それだけじゃ見ていただけない。ちなみに今回は、演奏者の皆さんも楽しんで下さっているようです。例えば、ポンプで放水する場面で、尺八の野村さんが効果音の役割で、音の出ない音を出してくれている。はじめから、そんなことをやってくださいってお願いしたら、怒って絶対やってくれませんよ、活躍されている方なんだし。だからこちらからは何もお願いしないで、黙ってちらっと見たら、一生懸命工夫しながらやって下さっている(笑)。そういうところも含めて、お客さんに楽しんでいただきたいと思います。三味線奏者も工夫して下さっている。そんなふうに、現場に集まった人々が、互いに創意工夫してワイワイやりながら作っていければいいと思っています。

教育現場に入って

-ではここで、過去に遡り、最新作『蟠龍』に至る軌跡についてお聞きしたいと思います。岡安さんは、演劇ファンからすると、まずもって世仁下乃一座を率いていた演出家・劇作家であり、紀伊國屋演劇賞を野田秀樹氏と同時受賞された、小劇場演劇のスターです。その岡安さんが、1991年に桐朋学園芸術短期大学の専任教員に就任された。そして今年の3月に退官され、新たに桐朋の出身者である若い俳優たちを集めて、ユニットを組んで公演を打つことになった。どうやら新たな演劇活動を始められるらしい。これはぜひインタビューせねば、ということで今日のこの場を設定させていただいた次第です。

正直申し上げて、一般の演劇ファンからすれば、岡安さんが桐朋にいらした間は、どういうことをやっておられるのか、よくわからなかったと思います。あえて失礼な言い方をすれば、空白の期間と見えなくもない。だから今回のユニット公演について、私などは一ファンとして、やっと岡安伸治が演劇界に帰ってきた、という印象を勝手ながら持っているんです。そこで、桐朋での業績についてはまだあまり公の場で語っておられないと思いますので、今日はまずそこをお聞きしたいんです。そもそも、なぜ桐朋の教員をやってみようとお考えになったのですか?

岡安 桐朋に入ったのは、ちょうど時代が大きく変わるところで、何をどういうふうに書くべきか、現在のことをどう書くべきか、非常に迷っている時期でね。それはやっぱり、自分に若い人との接点がなくなってきたからじゃないかという反省が素朴にあって、だったら演劇を志している若い方たちと直接接点をもつ方が、自分が何をどう考えて、何をするべきかも分かってくるだろうと考えて、応募したんです。それで、桐朋に入った5年後に、世仁下乃一座は解散してしまうんです。

-96年ですね。

岡安 解散した理由は、一言でいえば、私が疲弊してしまったからです。疲弊したというのは、桐朋の仕事は、一年生、二年生の授業を持って、専攻科生の授業を持って、それから試演会を一本持つわけです。そういう中で、大学の仕事には、研究と教育と雑務がある。で、学生部もやった。学生部というのは、要は授業以外のことあらゆることを担当するんです。昔は学生運動対策で、今は逆に、学生達の意欲を引き出し、生活面から精神面まで面倒見るという具合に、まるっきり性格が変わってしまった。授業の方は、文科省のカリキュラムの枠の中で処理していけばいいんだけれども、一方で学生生活の多様化が進み、これに応じてこちらの仕事も凄まじい量になってしまって、学生部長までやることになった。これが桐朋での仕事ですね。その他に、日大芸術学部の劇作家コースで一年生二年生を所沢で受け持って、埼玉大学の教育学部にも週1回通って、世仁下乃一座の全国公演もやって、さらに児童劇団の風の子にも頼まれ、芝居の作・演出もやる。こんな具合に、少しずつ仕事が増えていったんです。最終的には、蛙が冷たい水から熱していくといつか死んでしまうのと一緒で、疲弊してしまった。それで劇団を解散することにしたんですが、それは劇団員にとってみれば不満なことなので、1年かけてソフトランディングしました。つまり、劇団のみんなにいきなり解散だ、どこへでも勝手に行け、というわけにもいきませんし、全国の鑑賞団体のみなさんにもご迷惑かけてはいけないんで、その1年間の旅公演はお約束通りきちんとやるから、その間に、みんなそれぞれの道を少しずつ準備してくださいという形にして、96年に解散です。そのあとは1人で事務所を持って、1人芝居なんかを続けてきたのがこれまでですね。

-伺ってているだけでもくたびれてきますね(笑)。それに、私自身の現在の仕事ぶりは今のお話に近いところがありますので、なんだかヒヤリとさせられます。しかしもちろん、桐朋の経験には、よいところも色々あったわけですよね。

岡安 もちろん疲弊ばかりしていたわけではありません。例えば、桐朋の小劇場で(大岡さんもあそこで演出されてますが)色々な芝居が上演される。それにたちあうのは私にとって大変ラッキーでした。どういう意味かと言いますと、色々な方が色々な上演をやるわけですよ。木村光一さん、蜷川幸雄さんも含めていろんな方がやる。そうすると、同じ予算の範囲内で、同じ桐朋の学生を使って、同じ条件で、何がどう違うのか、これを見るチャンスというのはなかなか他にはないですよね。たとえ稽古に付き合わないで、本番を見るだけであっても、同じ空間で、同じ予算で、同じ学生に対応したときにどうなるかを見ることができて、なるほど、なるほどと。うまく言葉にはならないんですけど、皆さんの創造方法との一端が垣間見えたことが、私にとってはラッキーだったということです。>>


岡安伸治(おかやす・しんじ)
1948年東京生まれ。東京理科大卒。演出家、脚本家。1973年世仁下乃一座(よにげのいちざ)結成。現場に根ざした作品を発表。「太平洋ベルトライン」で1985年紀伊国屋演劇賞受賞。2008年3月まで桐朋学園芸術短期大学教授(演劇専攻)。現在同大非常勤講師。主な著書は「岡安伸治戯曲集1-3」(晩成書房)など。

大岡淳(おおおか・じゅん)
1970年、兵庫県西宮市生まれ。演出家、批評家。パフォーマー集団「普通劇場」代表、(財)静岡県舞台芸術センター(SPAC)文芸部員、静岡県袋井市「月見の里学遊館」芸術監督。河合塾COSMO東京校、桐朋学園芸術短期大学、静岡文化芸術大学非常勤講師。