◎感取と想起の時間―「読む」演劇と「見られる」身体の狭間で
高嶋慈
演劇の上演における「時間」とはいかなるものか。(解釈以前に)上演の「受容」形態が複数あるならば、それについて語ることはどのように共有されうるのか。演劇は再現=表象のメディアなのか。俳優の身体を通して、私たちは何を「見て」いるのか(そもそも「見る」とは何を指すのか)。
そこで行われていることが紛れもなく「演劇」であるにも関わらず、その概念を自明のものとして了解するのではなく、いくつもの問いの連鎖へと開いていく―フェスティバル/トーキョー12で上演された、マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、そのような磁場を立ち上げるが故に、強い印象を残す作品であった。それは、メディアを介した出来事の間接的な受容、可視化への欲望、共同体の記憶と死、そこに働く選別の意識や論理といった諸問題を胚胎させつつ、上演芸術とその受容についての原理的な問いを喚起するものであった。
そしてこの評自体もまた、「全体像」の把握・俯瞰ができず、可視的な像を結ぶことから逃れゆこうとする上演を言語によって記述=捕捉しようとする企てであり、また極めて個別的な位相(そもそも芸術経験はそうだが)に留まろうとする経験の質に抗って、書き連ねていかねばならない。
“マレビトの会「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」” の続きを読む