◎感取と想起の時間―「読む」演劇と「見られる」身体の狭間で
高嶋慈
演劇の上演における「時間」とはいかなるものか。(解釈以前に)上演の「受容」形態が複数あるならば、それについて語ることはどのように共有されうるのか。演劇は再現=表象のメディアなのか。俳優の身体を通して、私たちは何を「見て」いるのか(そもそも「見る」とは何を指すのか)。
そこで行われていることが紛れもなく「演劇」であるにも関わらず、その概念を自明のものとして了解するのではなく、いくつもの問いの連鎖へと開いていく―フェスティバル/トーキョー12で上演された、マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、そのような磁場を立ち上げるが故に、強い印象を残す作品であった。それは、メディアを介した出来事の間接的な受容、可視化への欲望、共同体の記憶と死、そこに働く選別の意識や論理といった諸問題を胚胎させつつ、上演芸術とその受容についての原理的な問いを喚起するものであった。
そしてこの評自体もまた、「全体像」の把握・俯瞰ができず、可視的な像を結ぶことから逃れゆこうとする上演を言語によって記述=捕捉しようとする企てであり、また極めて個別的な位相(そもそも芸術経験はそうだが)に留まろうとする経験の質に抗って、書き連ねていかねばならない。
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『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、二種類の上演によって構成される演劇作品である。作品タイトル中、「アンティゴネーへの旅の記録」の部分にあたる「第一の上演」は、ギリシャ悲劇「アンティゴネー」の戯曲を書こうとする青年と、同じく「アンティゴネー」を「たった一人の盲人のために」福島で上演しようとする劇団、パトリオット劇場の物語を軸に展開する。そしてこの「第一の上演」では、2012年7月末から10月にかけて、東京から福島市、飯館村、南相馬市へと現実の都市を移動しながら戯曲が上演されるとともに、その様子は劇中の「登場人物」たちが綴るブログやツイッター、YouTubeなど複数のメディア上で告知/記録され、テクスト、画像、音声、動画など膨大な量の情報が日々蓄積されていく(上演が行われる場所や地図もウェブ上で告知され、実際に見に行くことも可能であった)。一方、11月中旬、にしすがも創造舎で上演される「第二の上演」は、事前の情報によれば、「上演時間7時間」で「途中入退場自由」であり、第一の上演の「再現」形式であると説明されていた。
私自身は「第一の上演」を実見できなかったので、予めウェブ上で公開された戯曲を読み、ブログやツイッターを通して「登場人物」たちの行動や思考の痕跡を断片的に追う、という受容経験をしていた。演じられた出来事に加え、福島への旅の中で感じたことや日々の雑多な呟きが、写真や動画などの記録映像を交えつつ、綴られていく。それは、数ヶ月間の観客=読者となることで、劇中の登場人物/俳優たちに親密さを抱かせるとともに、両者の境界が溶け合い、個人としての輪郭が多重露光のように曖昧に融解していくような、奇妙な体験だった。約3ヶ月に渡る上演=旅の記録は、どのように再提示されるのか。ネットを介して間接的に見知った登場人物/俳優たちは、実際にはどのような姿や声で現れるのか。「7時間」という上演時間の長さにやや戸惑いも感じつつ、期待を抱いて「第二の上演」に向かった。
上演会場に入ると、暗闇と静寂の中、数メートル毎の間隔で点在した俳優たちが、スポットライトに照らされて佇んでいた。舞台と客席の仕切りはなく、生きた彫刻のように「展示」された俳優の回りを、観客は歩き回り、眺めている。誰がどの役かを示すキャプションの類は、一切ない。そして俳優たちは、わずかな身動きと、聞き取れぬほどの呟きを時折もらすだけで、明瞭な発話も何らかの意味づけが可能な身振りも一向に現れない。「劇的なもの」の現れをただ待ちながら、歩行と視線の移動を繰り返し、至近距離にいる俳優の身体への凝視と、全体を散漫に見渡す視線とを繰り返すこと、のべ数時間。だが「劇的なもの」の到来は終に訪れず、代わりに一つの了解が出来した。すなわち、目の前にある俳優の身体からは、役としてのアイデンティティー、物語への帰属が剥がれ落ちており、無防備なまでに晒された彼らの身体を眼差すことで、観客としての自らの視線を逆説的に「発見」しているのだと。
【写真は、「「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」から。撮影=Yuichiro Tamura© 提供=F/T12 禁無断転載】
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このように、舞台と客席の仕切りを設けず、空間的に併置された出演者たちを、観客は任意の時間、鑑賞するという「展覧形式」の上演形態は、前作『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010年)の試みを引き継ぐものである。この一見特異な上演形態は、「ヒロシマ」の脱中心化という要請によるものであった。
そこでは、出演者自身が、広島や在外被爆者の多く住む韓国の地方都市・ハプチョンを訪れて取材し、(「ヒロシマ」にどう向き合い、内在化できるのかという疑問や戸惑いも含めた)思考の跡が報告され、記号としての「ヒロシマ」に還元されない、リアルで生きられた経験や思考が様々なパフォーマンスの形で表現されていた。同時に彼らは、発話・報告の主体であるだけでなく、頭上に掲げられたキャプションの存在によって、一方的に名指され眼差しに晒される被爆資料の擬態として「展示」されている、という二重性を引き受けてもいた。そして、出演者たちが空間的に併置され、複数の声が同時多発的に発せられるという構造により、観客は全体を統合できず、また個別的な経験を他の観客と共有することもできない。出演者自身の取材や経験の「報告」演劇、展覧形式、空間的併置と同時多発的な発話―ここで賭けられているのは、「ヒロシマ」を演劇的に解体する企てである。それは、爆心地の占有化、ナショナルな想像の共同体の創出、展示という近代的制度への懐疑、言語の一元的な指標作用への違和、表象の(不)可能性、眼差しの暴力性といった諸問題を提起しながら、異質な他者が並存する都市空間を擬似的に形づくり、観客は自らもまさに都市の雑踏の一部となって、多層の声による「ヒロシマ」の単一性の解体という出来事に立会い、目撃者となるのだ (*)。
この『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』の発表の翌年(2011年)、マレビトの会は、新たな実験的上演である『マレビト・ライブ』を試みることになる。これは、ツイッターやSNSで上演の事前告知を行い、予めウェブ上で公開した架空の「N市」の物語を、現実の市街地で上演するという試みであった。さらに『マレビト・ライブ 総集編』では、空間的に点在した俳優たちが同時多発的に演技の「再現」を行うという、展覧形式による上演が行われた。
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こうした流れを振り返ると、本作『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、『声紋都市―父への手紙』(2009年)より始まる、広島と長崎での取材を元にした「ヒロシマ―ナガサキ」シリーズの延長と、『マレビト・ライブ』の方法論との結節点にあり、集大成的な位置づけにあると言える。
それゆえに複雑な構成をとる本作で興味深いのは、「第一の上演」/「第二の上演」が、上演の行われる場所、時間、俳優の身体の現前、観客の関与の仕方という点において、ある種の対照性を見せることである。新宿、高円寺、国会議事堂前、福島市内、伊達市の仮設住宅、南相馬市の映画館など、戯曲中に散りばめられた固有名を持つ場所での上演/劇場という匿名的な空間。インターネットの即時性や偏在性/限定された上演の時空間。現実に流れる時間と同期した、旅の時間/7時間に凝縮された上演時間。(上演の行われる現場に行かない限り)観客の目の前に現前しない俳優の生身の身体/「見るべきもの」として展示された身体。
こうした対照性、ないしは非連続性に対応して、観客は、「第一の上演」/「第二の上演」のそれぞれに対して異なるアプローチの仕方を要請される。「第一の上演」では、観客は、市街地での上演の目撃や複数のメディアを介して届けられる記録を、言わば編集する主体としてこの上演の構造に「参加」する。しかし、実際の上演を見に行くか/行かないか、どの記録をどの程度まで読むか/読まないかの判断は観客自身に委ねられているため、個々の観劇経験はどこまでも個別的な位相に留まり、均質な経験を共有することができない。また、膨大な量の情報が供されるものの、それらは間接的・断片的な受容に留まり、また市街地での上演を全て見に行くことは(都市間の移動や約3ヶ月という期間を考えると)ほぼ不可能であるため、「第一の上演」の全貌を把握することは困難である。ここでは、あらゆる出来事がメディアによって可視化され膨大な情報として供されることへの欲望とは裏腹に、そうした可視化が幻想にすぎないことが露呈する。さらに、ある一人の登場人物に対する記述は、元となる戯曲、個々の登場人物/俳優自身が綴る記録、他の登場人物/俳優から見た語り、というように複数のテクストが並存することで、一人の人物像は多重化し、複数の書き手・メディアにおける記述の中に拡散してしまう。間接的・断片的な視聴覚情報を受容し、「現実」の意味を立ち上げ、それなりに理解する―「第一の上演」は、そうした情報の受容と編集の手続きを上演/観劇経験に組み込むことで、メディアを介してフィクション化した「現実」のあり方に批評を加える。そこでは写真や映像といったドキュメントは、出来事の真正さの証明ではなく、むしろ現実とフィクションとの識別を判断不可能にする装置として機能する。
こうした「第一の上演」ではまた、虚構の「役」としてブログを綴りツイッターでつぶやくという、記録でありつつ演劇的な仕掛けによって、俳優の身体は(基本的に)観客の目の前に直接的には現れない代わりに、登場人物と俳優自身との境界が曖昧になっていく。あるいはまた、戯曲には書かれていない余剰の部分がはみ出してくる。夥しい記録を読み進めるうちに、彼らが二重の生を生きている感覚に陥るのだ(さらに劇中劇の構造をとる本作では、『アンティゴネー』の配役/を演じる戯曲中の登場人物/を演じる俳優自身というように、部分的に三重化も起こりうる)。なぜ福島へ赴いて『アンティゴネー』の上演を行うのかという疑問や戸惑いは、戯曲中の劇団員たちの抱くものであると同時に、それを演じる俳優たち自身の感情とも重なっていくのではないだろうか。ただし、「役名として生きる」俳優自身が上演の旅の過程で出会い経験し思考したことについての「報告」である点では、フィクションという仕掛けを施し、かつネットを介在させてはいるものの、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』と本質的には同じ構造であると言えるだろう。
にも関わらず、同様に展覧形式である「第二の上演」においては、旅=「第一の上演」で行われたことが反復、再生産、つまり再現可能な行為として再提示(re-presentation)されるのではない。「展示」された俳優たちは終始、虚空を見つめて、あるいは半ば目を閉じて佇み、聞き取れぬほどの呟きを時折ボソボソともらすのみである。つまり、共同体の維持のために死を選別し、犠牲として祭ることに抗うアンティゴネーの物語は、戯曲中で強く希求されつつも、「第二の上演」において、可視的なものとしては立ち上がらないのだ(このことは、「第一の上演」の戯曲中において、「たった一人の盲人のために」『アンティゴネー』を上演しようとする劇団と、自作版『アンティゴネー』を「自身の目によってのみ撮影された映画」として上映しようとする青年、の双方と呼応している)。
では本作の場合、「第二の上演」は、なぜ再現=表象として提示されなかったのか。この問いを考えることは、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』という作品の本質を考える上で不可欠な要素の一つと思われる。観客は、「『第一の上演』を通して自分は何を見ていたのか」という問いと向き合わざるをえないが、そこには、膨大な情報の受容における同一化と再認の(不)可能性という問題に加え、再現=表象の問題が関わっている。
出来事を再現=表象として反復するのではなく、一方的に眼差され、読まれるものとして提示された俳優たちの身体。上演中に行われたトークで、マレビトの会主宰・演出の松田正隆が語ったところによれば、「第二の上演」における俳優たちは、「第一の上演」の記憶を思い出している状態にあるのだという。通常の演劇の場合、ドラマという別の時空間を立ち上げるための媒体として、俳優の身体は透明化するのに対し、この「第二の上演」においては、過去の想起という作業、つまり文字通り別の時空間(過去)に行くことで、今ここにある俳優の物理的な身体が現前する、という反転が起きている。しかし、明瞭な発話や身振りをまとって現れない俳優たちの身体は、至近距離で「観察」するよう観客を誘うものの、目の前の身体からは、役としての帰属が剥がれ落ち、不可解なものへと滑落していく。
時折わずかに聞き取れる呟きに、戯曲に書かれたある一行が、劇中のある場面が時として反響するかもしれない。だがそれらは、上演会場の暗闇に、たちどころに星座のような物語の全体像を描き出す訳ではない。俳優たちの身体からは極めて微弱なパルスのようなものが発せられているが、あまりに微弱かつ多焦点で、他方向に拡散しているため、明確な意味を担わされた情報の過剰さに慣れきった私たちのおぼつかない視力と感度では、網膜上のスクリーンに受像できないのである。
俳優と観客が混在した空間の中、歩行を伴った散漫な視線と凝視を繰り返すことで浮かび上がるのは、モノと化したかのような俳優たちを眺める強烈な違和感と、それでも彼らを精査・凝視しようとする自らの眼差しである。「理解した」と思っていた存在が、名づけようのない不可解な存在として不意打ちのように目の前に出現すること。それは、名づけと帰属を持たないものを理解可能なものであるかのようにすり替える、名指すことの暴力への批判であるとともに、「見る―見られる」という非対称な対峙の関係に置かれた時、見る主体としての不可避的な不完全さと根源的な暴力性を引き受けながら、眼差しをどのように行使するのか、という倫理的な問いをも喚起する。
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「第二の上演」の空間は、劇場というよりは、網膜すなわち記憶のスクリーンに何らかの像が映し出されるのを待っている、巨大な映写室に変貌したかのようだった。その暗闇の中では、俳優自身の、戯曲中の人物として旅した時間の、そこで出会った人々の、無数の時間と生がつながり重なり合っている。旅を通して行われた、多層の声の採取。だが「第二の上演」においては、あえて上演・経験の「報告」を行わず、また再現=表象可能な身振りとして再提示することを回避したことで、無数の生に連なる想起の時間が与えられたのではないか。通常の演劇作品の上演としては、7時間という上演時間は長大かもしれない。だがそうした声なき声を聞き取ろうとする状態に身を置き慣らすには、それだけの持続が必要なのではないか。(にしすがも創造舎の元体育館での上演と平行して、元教室で上演された荒木優光の音響作品『横断の調べ』もまた、福島を旅する中で採取された様々な風景音や人々の声を聞くことで、「見る」ことが優位ではない知覚経験に身を置こうとするものであった)。声なき声を感取しようとする、「第二の上演」の濃密な時間はまた、死者たちに寄り添おうとしたアンティゴネーの言葉へと通じる時間ではないだろうか。
(2012年11月16日観劇)
(*) 以上の『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』についての記述は、拙稿「『展覧式演劇』―その二つのフィールドが照射するもの」(『とまる。』15号、2012年4月)、及び「マレビトの会」(『ユリイカ』2013年1月号、p.247)と重複があることをお断りしておく。
【筆者略歴】
高嶋慈(たかしま・めぐみ)
1983年大阪府生まれ。京都大学大学院在籍。美学、美術批評。ウェブマガジン PEELER、『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takashima-megumi/
【上演記録】
マレビトの会「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」第二の上演
にしすがも創造舎(2012年11月15日-18日)
上演時間 :7時間
出演:生実 慧、牛尾千聖、桐澤千晶、児玉絵梨奈、駒田大輔、島 崇、武田 暁、中本章太、西山真来、山口春美
照明:藤原康弘
演出:アイダミツル、藤原佳奈、松田正隆、三宅一平
音響作品『横断の調べ』〜福島の海岸へ釣りに行った男〜/〜煙にまかれたジュークボックス〜
音響・構成・演出:荒木優光
照明:筆谷亮也
音響:齋藤 学
音響オペレート:椎名晃嗣
舞台監督:寅川英司+鴉屋、田中 翼
宣伝写真:笹岡啓子
ドキュメント、ウェブデザイン:中山佐代
ドキュメントレイアウト:酒井一馬
舞台写真、映像記録:西野正将、田村友一郎
制作:新保奈未、中山佐代、森 真理子、吉田雄一郎
協力:青木セイ子、小畑瓊子、上村 梓、栗原弓枝、株式会社POP、魚灯、福島県立盲学校、遊園地再生事業団
製作:マレビトの会、一般社団法人torindo
共同製作:フェスティバル/トーキョー
助成:芸術文化振興基金、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
主催:フェスティバル/トーキョー、マレビトの会
◎音響作品『横断の調べ』/ 音響・構成・演出:荒木優光
~福島の海岸へ釣りに行った男~
時間:11月15日(木)~17日(土) 15:00~/17:00~/19:00~
11月18日(日) 12:00~/14:00~/16:00~
場所:にしすがも創造舎 校舎3階(教室および廊下)
*教室にて音響作品の上演があります(上演時間:70分程度)
*音響作品の上演は、各回同じ内容となります。
~煙にまかれたジュークボックス~
時間:11月15日(木)~17日(土)14:00-21:00
11月18日(日)11:00-18:00
場所:にしすがも創造舎 校舎地下1階
*入退場自由
(にしすがも創造舎での上演は、8月~11月初旬に行われた、現実の街の中で物語が展開する「第一の上演」の「再現ドラマ」からなる「第二の上演」と、荒木優光による音響作品『横断の調べ』によって構成され、会場内を自由に移動して鑑賞。音響作品は、7時間の上演時間中に、体育館で行われる「第二の上演」と並行して上演が行われた。第一の上演記録は下記の作品特設サイトから。第二の上演は第一の上演記録をみた上での鑑賞が推奨された。)
『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』特設サイト>>
料金 : 日付指定券
一般 前売 3,000円(当日 +500円)
学生 3,000円、高校生以下 1,000円(前売・当日共通、当日受付にて要学生証提示)
◆トーク
◎11月16日(金)18:15~19:00 ゲスト:開沼 博(社会学者)
◎11月17日(土)18:15~19:00 ゲスト:平田栄一朗(慶応義塾大学教授/ドイツ演劇・演劇学)
★11月18日(日)終演(18:00)後~1時間程度 ゲスト:諏訪敦彦(映画監督)